とは考

「・・・とは」「・・・人とは」を思索

『骨董鑑定眼』青山二郎

骨董鑑定眼 (ランティエ叢書 (24))骨董鑑定眼 (ランティエ叢書 (24))
(1998/11)
青山 二郎

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著者は、骨董界の重鎮だった人で、小林秀雄、北大路魯山人、白洲正子などと親交がありました。

骨董の鑑識眼に優れた著者の言葉には、芸術の本質を語る内容が数多く含まれています。それらの一部をまとめてみました。



・書道というものは茶道と同様に、非常に神経の細かい一つの芸であり、たしなみの技能。眼が肥えていて趣味が良く、書き写された昔の言葉にも意味がある。こういうものは、鑑賞家の芸術。だが、その技能を手に入れれば、後は人間の問題と見るのが書道に違いない

・画家の意識は、自然の中にある意識を誘発される。画家の技能は、自然の中に発見した意識を、自分のある意識に置き換えて表現しようとする

・金持ちの骨董弄りとは、何でも手当たり次第に買い集めて悦に入っているようなもの。人が来て誉めてくれれば、自分もそれを見直して喜んでいるし、人が貶せば自分でもそんなものかと思って、好きでなくなってしまう

・発見とは、発見の前に発見すること。偶然に見つかるのも発見だが、何もなければ発見できないものを発見するのが発見

・ある人は、「美術品というものは存在しない。あるものは美だけ」と言うが、この考え方が裏返しになって、「美というものは存在しない。在るものは美術品だけ」というふうに、頭の働きよりももっと実際的な眼の働きというものを、頭が信じるようになる

・正しい眼はすべて最適な条件で、健康な肉体にかかっているというよりほかに、証明の法がない

・骨董屋の眼は、物を見たというのではなくて、それは趣味という一観念を模倣する思考の働き。眼は常に正しいからとして、模倣を強要され、我々の眼玉は信じられないほどに、段々と思考に征服されている

・「感じが来る」ところから、改めて「見えて来る」までの間が、一番骨が折れる。見えるということは、陶器の生命とするものが、人の顔のように、銘々各々が異なる様に異なる事が分かるということ

見える眼が見ているものは、物でも美でもない。物そのものの姿。物の姿とは、眼に映じた物の、それなくしては見えない人だけに見える物の形、つまり、形ある物から、見える眼のみが取りとめた形

ぜいたくな心を清算する要はない。ぜいたくに磨きをかけなければいけないのだ

自分で自分が解らない、これだけが芸術家の源動力。そして、それを理解する鍵

・美とは魂の純度の探求。他の一切のものはこれに反する

・一度茶碗を愛したら、その茶碗は自分にとける。一度人を見たら、人が自分の中にとける。自分の血の中にそれらがとけるように、精神も受けただけのものは、自分の血肉の中にとける

・大衆は肉を食うが、大衆には胃袋がない。博物館に何十万人の人が行くが、彼らには思想がない。美を汚す理想がない、批評がない。だから罪はない

美は見、魂は聞き、不要は語る

・真贋というものは、賭け碁のようなもので、直観とは別のもう一つの感情と判断を必要とする

・多くの経験ある骨董屋が、失敗するのは、彼らが経験と直観に頼りすぎるから

・未熟な芸術家の純粋な駄作は、駄作でも何でもなく、自然に消える時が来れば消えるつぼみ

・見るとは、見ることに堪えること。堪えるとは、理解することではない

・今に黙って食えるだけの金が手に入ったら、文章や画を売らないで、遊んで暮らすこと、これが生活信条

・芸術は衣食の手段にするものではない



ちょっと抽象すぎる著者の言葉の数々は、まるで禅問答。美を語るのは、それだけ難しいものです。

感覚は論理ではなかなか説明できないが、その感覚を経験した人には、わかるのかもしれません。


[ 2014/07/25 07:00 ] 芸術の本 | TB(0) | CM(0)
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