とは学

「・・・とは」の哲学

『不幸論』中島義道

不幸論 (PHP新書)不幸論 (PHP新書)
(2002/10)
中島 義道

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著者の本を紹介するのは、「人生しょせん気晴らし」「善人ほど悪い奴はいない」などに次ぎ、6冊目となります。世の中に「幸福論」のタイトルがつく本は数多くありますが、不幸論というのは見かけたことがありません。

私自身、「不幸でないのが幸福」と考えているので、不幸と向き合うことの大切さを説く本書には、共感するところが多々ありました。その一部をまとめてみました。



・幸福という複雑な建造物は、基本的に次の四本の柱の上に建っている。「1.自分の欲望が叶えられている」「2.その欲望が自分の一般的信念に適っている」「3.その欲望が世間から承認されている」「4.その欲望の実現に関して、他人を不幸に陥れない」

・幸福感(=満足感)は「知らない」ことに支えられている場合が多い

・「幸福」とは「美」と並んで、場合によっては「善」と並んで、対象のうちに探られるものではない。それは、判断を下す各人の心の構えである

・自分の体内の深いところから「これでよかったのか」の叫び声が聞こえてくる。その叫び声を必死で打ち消して「よかったんだ、しかたがなかったんだ」と思い込む。思い込みながらも、いつまでも釈然としない気持ちがくすぶっている。こういう人は幸福ではない

・自分の信念に反した欲望の充足は、「さしあたりの安堵」という言葉で表すことができても、厳密には「幸福」とは呼べない。それは幸福の「ふり」であり、幸福の「つもり」

・ある人は家族に承認されるだけで幸福感に浸るかもしれない。ある人は数万人の読者を得て、初めて幸福を覚えるかもしれない。「幸福」の概念は、常に輪郭がぼやけている

・人は正しいことによっても苦しむのであり、すぐれたことによっても苦しむ。イエスですら、多くの人を苦しめた。まして、人がある崇高な信念のもとに、偉大なことをなそうとすると、必ず膨大な数の他人を苦しめる

・自分の幸福の実現が、膨大な数の他人を傷つけながらも、その因果関係の網の目がよく見えないために、われわれはさしあたり幸福感に浸っていられるのである

・幸福は、盲目であること、怠惰であること、狭量であること、傲慢であることによって成立している

・世の中に幸福論は数々あるが、幸福論を読んでも、幸福に「なる」こととは無関係

・幸福とは、自らの哲学=信念にそって、ほかのことに煩わされずに生きるということ

・才能豊かで、その才能を発揮する場が与えられた人間は、膨大な数の人に喜びを与えているが、同時に、そうしたくてもできない多くの人を不幸にし、苦しめ、傷つけている

・幸福論は、第一に、自分が幸福であると確信している人が書く。そして、第二に、誰でも自分と同じようにすれば幸福になると説く

・他人を幸福にすることを義務と信じている人は、すべての人の欲望・感受性・趣味嗜好・信念は一致するという何の根拠もない想定の上にあぐらをかいて、他人を幸福にすることの難しさを直視しようとしない

・幸福とは、思考の停止であり、視野の切り捨てであり、感受性の麻痺である。つまり、大いなる錯覚である

・友人のいない者、恋人のいない者、身寄りのない者、家族のいない者は「かわいそう」、結婚していない者も、結婚して子供がいない者も「かわいそう」だから、どうにか助けてやりたいと願う、その単純で貧寒極まる幸福感で、暴力的に人を支配しようとする

・「有名になることは醜いことだ。これは人間を高めはしない」(ボリス・パステルナーク)

・「幸福であると思われたい症候群」の人は、「幸福でありたい症候群」の人より、いっそうおびえていて、いっそう哀れである。しかも、豊かで教養ある階層の人々や女性に多い

・「幸福になることは、さほど苦労ではない。それより、幸福だと人に思わせることが難しいのである」(ラ・ロシュフコー)

・自己欺瞞はわれわれを「幸福」という錯覚に陥れてくれる



幸福という錯覚を味わえる人が幸福になれるのかもしれません。幸福が錯覚だと知ってしまった人は、永久に幸福になれないのだと思います。

だとすれば、「不幸でないことが幸福」という言葉を拠り所に、不幸でないことを時々確認しながら生きていくしかありません。幸福とは、そう簡単に論じられるものではない、ということではないでしょうか。


[ 2014/03/10 07:00 ] 中島義道・本 | TB(0) | CM(0)
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