とは考

「・・・とは」「・・・人とは」を思索

『さみしさサヨナラ会議』小池龍之介、宮崎哲弥

さみしさサヨナラ会議さみしさサヨナラ会議
(2011/06/30)
小池 龍之介、宮崎 哲弥 他

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本書は、評論家の宮崎哲弥氏と住職の小池龍之介氏の対談本です。その中の宮崎哲弥氏の考え方が秀逸だったので、その部分だけをとり上げてみました。

本書には、「孤独」についての興味深い考え方が数多くあります。それらをまとめると、以下のようになります。



・人の心は他者の言葉に大きく左右される。詐欺や洗脳のように心に偽りの現実感を植え付ける場合ですら、ほとんどが言葉を手段としている。「たかが言葉に踊らされるなんて」と軽視しがちだが、実は感覚よりも言葉の方が強く心に影響を与える

・憎悪に心を燃やし、嫉妬に身を焦がしている間、孤独感は消える。本当は、その最中に「次の孤独」の原因がどんどん溜まっているのだが、それに気づかないのが罠。こうして憎しみや妬みの心が性癖になる

・セックスは部分的に自我を壊し合うゲーム。ところが、人間は実に手に負えない生き物で、自我の壊れた部分から、もっと自我を肥大させよう、最終的には相手も自分の自我で圧倒、支配しようと指向するようになる

恋心の成分を分析すると、自己愛はもちろん、支配欲とか独占欲とかも含まれている。それに、もっとネガティブな嫌われたくない気持ちも大きい

・通常、欲望は「満たされた状態」を求めるものだと思われるが、実はそれはウソ。満たされた瞬間に欲望は消滅してしまう。人は「すでに持っているものを欲しがることはできない」

・仏教は、欲望を断たないと本当の意味で幸福にはなれないと説くわけだが、多くの人々にとって「本当の意味の幸福」というのは、刺激のないつまらない状況に思える

・風俗産業には、昔から孤独慰撫ビジネスの側面がある。見方によっては、宗教もその種のサービスを提供するビジネスの側面がある

・大人になると、恋愛の「先が見えるようになる」。ある程度、経験値が高くなると、自分の気持ちの転がり方が予測できる。そうなると、味覚と同じで、快楽が次第に減っていく

・男性の根源的欲望は、生の始原の状態、具体的に言えば、母親の胎内に回帰する。これこそが、男の究極のさみしさの解消策。しかし、それは望み得ないので、疑似母胎を探す

・社会の変化は、男女の平等化が進んだというよりも、男女の同質化が急進したととらえるべき。男性がしんどい役割を堅持しなければならない理由がなくなったということ

快楽の量の増大と幸せの増大を同じものとみなす社会は、全体がソフトな覚醒剤中毒にはまっていると言える

・仮に巨万の富や権力によって、大方の欠如が埋められたとしても、新たな欠如を求める欲望の性質は強く残っているため、「欠如の欠如」が意識され、「『欲しいものと思えるもの』が欲しい」という倒錯した渇望が空転することになる

・中村うさぎ氏が「さすらいの女王」で、「『新世紀エヴァンゲリオン』は、全人類が一体化して一つの自我を共有するか、一人一人が孤独な個であり続けるか、という究極の物語であった」とまとめているのは、とても当を得た整理

・「人は死ぬ限り幸福にはなれない」とは、哲学者の中島義道氏の名言だが、「人は不死になっても幸福にはなれない」。死んで無に帰すのも怖いが、永遠に存在するのは、それと等しく恐ろしい

・まともに恋愛してきた大人なら、人が平等だなんて嘘っぱちだと知り尽くしている。愛する一人を選別することの残酷さ、また愛する人から選ばれないことの残酷さ。恋愛は、そういう公平とか正しさとかの学校教育的な建前がまったく通用しないサバイバルだから

・仏教の主要テーマの一つが「世界はままならぬものである」ということ。全知全能の神なんて、もちろん存在しないし、科学やテクノロジーが進んでいっても、人が強い自我を持ち続けたとしても、世界を意のままに変えることなんてできない

・「ままならない世界」を淡々と見つめ、その性質を知り尽くし、自分を自分に縛りつけている強固な錯覚を打ち破ることで、苦しみから解き放たれる。これが、釈迦のオリジナルな教え



煩悩、苦しみ、不条理感、孤独感を完全に解き放つことは不可能ですが、本書を読むと、それらと上手くつきあっていけるように思えてきます。

この世とは、自分の思うようにいかない「ままならない世界」と理解した上で、限りある命を楽しむことなのかもしれませんね。


[ 2013/12/13 07:00 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)
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