とは学

「・・・とは」の哲学

『火の誓い』河井寛次郎

火の誓い (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)火の誓い (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)
(1996/06/10)
河井 寛次郎、壽岳 文章 他

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先月、京都の河井寛次郎記念館へ行ってきました。作品の数々、住居、仕事場、登り窯など、当時のまま残されており、その生前の生きざまを肌で感じることができました。

この本は、そこで買いました。陶芸家としてだけでなく、造形作家詩人随筆家としても活躍された足跡を知ることができます。その一部を要約して、紹介させていただきます。


<棟方志功君とその仕事>

・君はこれ迄の仏画から出発したのではなくて、君から新しい仏画が出発したのだから仕方がない。これ迄の立派な仏画に宿るものが形を変えて君の絵に籠っているのだから仕方がない

・人は誰でも素晴らしいものをもつにも拘わらず出さないものだ。出せば出る。君は今それを出して来た。君の絵の前に立って、その出したものは何かと考える。さらけ出された君の本然のものの前に立って思う。本能とは、公明な私なき働き、ではないかと思われる

・君は人間の着物を剥ぐどころか、身ぐるみとっていく強盗だ。魂だけ残していく強盗だ。君のような強盗が出て来ないと、人間は一番大切なものに気が附かないのだ

<いのちの窓>

祈らない祈り、仕事は祈り

・誰が動いているのだこれこの手、動かせば何か出て来る、身体動かす

まっすぐなものしかまがれない。まがったものしかまっすぐになれない

・怒りとは、怒らないものの上に出来たおでき。悲しみとは、悲しまないものの上に出来たかび

・何もない、見ればある。ないものはない、見るだけしかない

見ないのに見ている。持たないのに持っている。行かないのに行っている

向こうの自分が呼んでいる自分。知らない自分が待っている自分。何処かにいるのだ未だ見ぬ自分

・この世は自分をさがしに来たところ。この世は自分を見に来たところ。どんな自分が見付かるか自分。どこかに自分がいるのだ、出て歩く。新しい自分が見たいのだ、仕事する

仕事が仕事をしています。仕事は毎日元気です。出来ない事のない仕事。どんな事でも仕事はします。いやな事でも進んでします。進む事しか知らない仕事。びっくりする程力出す。知らない事のない仕事。聞けば何でも教えます。頼めば何でもはたします

・美はすべての人を愛している。美はすべての人に愛されたがっている。美はすべての人のものになりたがっている

追えば逃げる美。追わねば追う美。美を追わない仕事。仕事の後から追って来る美

・ひとりの仕事でありながら、ひとりの仕事でない仕事

・自分でない自分、第二の自分。人は二つの自分を持つ。にも拘わらず、第一の自分しか認めようとはしない。二つなんか持っていないと思っている。にも拘わらず、二つを持つ。自分だと思っている自分と、自分でない自分とを

・時にいない人、処にいない人、時と処にいない人。ない時にない処にいない人がいる。そういう人がいる。確かにいる。誰の中にもいる。ない自分を掴まえているない自分

・道を歩かない人、歩いたあとが道になる人。時は場所へ、人という場所へつねに新しい土地を与える。昨日で今日を拓く事は出来ない。嘗て耕された事のない地面に人はいつも立っている。はてしない土地、新しい世界、身体

・葉っぱは虫に食われ、虫が葉っぱを食っているにも拘わらず、虫は葉っぱに養われ、葉っぱは虫を養っている

・模様は人にだけしか作れない精神なのだ。模様は人にだけしか持てない悲願なのだ。模様の国という国は、あらゆるものが愛と美とをしか出せない処。汚れたものや、醜いものは一切出せない処。すべてのものが幸福にしかなれない処。そういう此処は第二の世界



自分を見ている自分、自分の中にいる自分、自分が自由自在に、時空を駆け巡っているように感じる詩を書かれたのは、河井寛次郎さんが本物の芸術家だったからだと思います。

最初に棟方志功を発見したのも、河井寛次郎さんの心眼のなせる技だったのではないでしょうか。


[ 2013/11/24 07:00 ] 芸術の本 | TB(0) | CM(0)
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