とは学

「・・・とは」の哲学

『哲学のヒント』藤田正勝

哲学のヒント (岩波新書)哲学のヒント (岩波新書)
(2013/02/21)
藤田 正勝

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著者は、日本哲学史を研究する京大教授です。日本にも西田幾多郎などの立派な哲学者が輩出していますが、その内容まで深く知る人は、あまりいません。

本書は、日本の哲学者、思想家を中心に書かれているので、哲学を身近に感じられる部分が多いのではないでしょうか。その一部を要約して、紹介させていただきます。



・自分自身に気づかうことが、「善い者となり、思慮ある者となる」とソクラテスは語った。自分の心のあり方に気づかうことは、結局「どのようにすればよく生きることができるか」ということ。つまり、「よく生きる」ことこそが人間にとって何より大切だということ

・和辻哲郎の基本的な考えは、人間は個人であると同時に、本質的に社会的な存在であるという点にある。人は、その存在の初めから、人と人との関わりの中で生きてきたのであり、ただ一人で生きる人間というのは考えられないと、考えた

・自ら抑制する心と、掟を守る感覚とがなければ、人間は生き残ることすらできない。倫理はもともと集団を前提にしたもの

・カントは、道徳の一番根本にあるものを「定言命法」と表現した。それは理性が、どういう状況にあっても守るべきものとして、私たちに無条件に命じるもの

・孟子の道徳についての基本的な考え方は、「惻隠の心」「羞悪の心」「辞譲の心」「是非の心」の「四端」の説に見てとれる

・サルトルは、人間は未来にある自己を意識し、その未来に向かって自らを投げる、つまり「投企」する存在であると言う

・パスカルは、「気晴らし」は確かに一時的には「幸福」をもたらしてくれるが、「気晴らし」は、決して本当の意味での解決ではなく、むしろそれは「不幸」だと、言う

・深層の「自己」へと立ち返り、「人間を根底からつくりかえる」ことを目指したところに、東洋思想の特徴がある

・西田幾多郎は、「自己の内容を映す鏡はまた自己自身でなければならぬ。物の上に自己の影を映すのではない」と、私たちの自己が、根本において「自己の中に自己を映す」ものであると、述べている

・「自己を集中しようとすればするほど、私は自己が何かの上に浮いているように感じる。いったい何の上であろうか。虚無の上にというほかない。自己は虚無の中の一つの点である」(三木清)

・「心に、つまり無常の思いに滞ってはいけない、生死に執着してはいけない、すべてを「はなちわすれる」ことこそ肝要。道元は、そのことを「放下」という言葉を使って言い表している

・自然はただ単に眺められるものではなく、むしろ人間の心に浸透してくるもの。逆に、私たちの思いが、自然の中に浸透していくこともある。重要なのは、美しい花を見たりすることによって、自らの生を充実したものとして感じ取っているという点

・感情は、その表層に現れたもので尽きるのではなく、むしろその下に、埋もれた厚い層を持つ。表層の感情は時間とともに消滅していくのではなく、深層に沈殿していく

・「無形の形、無声の声ということは、何物もないと云うことではない。無限なる情の表現であることを意味する。それは形ありながら形なきものである」(西田幾多郎)

・「用ゆべき場所で、用ゆべき器物を、用ゆべき時に用いれば、自ずから法に帰っていく」(柳宗悦)

・世阿弥は「物まねに、似せぬ位あるべし。物まねを極めて、その物にまことに成り入りぬれば、似せんと思ふ心なし」と述べている。つまり、物まねを追求していくと、最後には、似せようと思う心がなくなるような芸境に到達するという

・松尾芭蕉は、俳句に「なる句」と「する句」があることを語っている。「私意」によって「作為」した句が「する句」。それに対して、あらわになった物の「微」をそのまま写すのが「なる句」。芭蕉は、「そのものより自然に出づる」ものでなければだめだと言う

・西田幾多郎が言う「純粋経験」の特徴は、「主客合一」という点にある。主観と客観が一つとなった純粋経験の一つの典型は、ほとんど意識しなくても自由に手が動く「無意識」の芸術表現



少し抽象的で、概念的ですが、日本の思想家、哲学者の言わんとするニュアンスは伝わってきました。

作為を否定すること、あるがままを肯定すること。そして、「自分がない」「一体となっている」状態を良しとすること。この日本的な考え方を表現することは難しいですが、日本人の心の奥に、その考え方は脈々と受け継がれてきているのかもしれません。


[ 2013/10/04 07:00 ] 人生の本 | TB(0) | CM(0)
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