とは学

「・・・とは」の哲学

『猫のように生きる: からだで感じる生きかた指南』板橋興宗

猫のように生きる: からだで感じる生きかた指南猫のように生きる: からだで感じる生きかた指南
(2013/03/07)
板橋興宗

商品詳細を見る

著者の本を紹介するのは、「息身佛」に次ぎ2冊目です。著者は、曹洞宗の管長という大役を務められた後、福井県で禅寺を興し、修行僧30人、猫80匹とともに、暮らしています。

本書は、猫好きで知られる住職が、猫のように「からだで感じる」生き方を指南したものです。非常にわかりやすい言葉なので、少々戸惑ってしまうほどです。それらの一部を要約して、紹介させていただきます。



・みんなで一緒にやるから修行できる。一人では節制できない。規則正しい修行生活を送っていると、自分に締りがでてくる。そして、身心ともに健康であることを、直に感じる

・修行をすると、言葉を離れて、からだがわかっている生活に戻る。修行というものは、どんな種類のことでもそうなる

・その時、その時の「今」に目を向ける努力。それが私の修行。私にとっての修行の目標は「実感

・坐禅をすると、脳の中が無重力の状態になる。宇宙船の中では、何の抵抗もなくサーッとモノが動いていく。人間の頭も、執着がなければ無重力の状態になる

・言葉で考えるのではなく「からだがわかる」生き方が、坐禅の真髄

・坐禅をしていると、いい知恵が出る。大切なことを決定するときなど、坐禅をするといい。毎日続けていると、自然に普通の人とはどこか違ってくる

・どこに石があるのか、足を取られる深みがあるかわからない川を渡るのに、おどおどしながら渡る人もあれば、遠くに見える光を信じ切って「あそこに輝くものがある」と足元を気にせず歩いて行く人もある。それが信仰というもの

・禅の方法は「深みがあって転んだら、転んでもいいじゃないか」と、取り越し苦労をしないで、前向きに歩くというもの

・解脱(悟り)とは、「このままでよかったのだ」と気づくこと。頭で考えて理解することでもなく、単なる納得でもない。ああ、このままでよかったのだという「気づき」

・猫には言葉がない。「にゃー」「にゃお?」と、気分がそのまま声に現れているだけ。人間は言葉で考えるから、「明日はどうなるのか」「あの人は何を考えているのか」「ほかの人に比べて」と、悩んだり喜んだりする。まるで、頭の中で、小説や映画を描いている

・「言葉の極致」は、言葉を使わずに「からだがわかる」ことにある。言葉を使うよりも「からだがわかっている」のが実感であり事実

・猫は、魚を食べてお腹がいっぱいになれば、どこかへ行ってしまう。また同じ場所に置いてあれば、また食べに来る。ただそれだけ。人間は「残しておけば誰かが食べてしまう」と推測する。人は考えて悩み、苦しみ、争い、果ては戦争までやってしまう

・我々は、変わりゆくものに個人的な情を入れてしまう。執着することさえなくせば、恐れることのない「自由自在の境地」になれる

・猫には言葉がないから、餌のために争うことがあっても、その時、その場だけの争い。相手の油断を狙って襲いかかる考えや計画性はない。「煩悩は言葉がつくる

・とにかく、グチグチと考えるくせを少なくすること。それには、自分のやりたいこと、好きなことに目を向けて、努力するのが一番賢明な生き方。そのために、坐禅や読経などの修行がある

質素な生活ほど精神性を深める。再び、良寛さんや二宮尊徳のような質素な暮らしが重んじられる時代がやってくる。それが日本人の底力

・「生ぜしも独りなり、死するも独りなり、されば人と共に住すも独りなり」(一遍上人)

・優しい言葉には動物も従う

・この世には雑用という用は一つもない

垣根は相手がつくっているものではない。自分がつくっている

・智は愚を責めず



著者は、観念の世界よりも、「からだ」の感性に重きをおいて生きることが、生きることの極意であると説かれています。

坐禅を含めた修行というのは、人間の心にこびりついた言葉の垢や汚れをとるためのものかもしれません。絶えず、心の中をクリーンにしておくことが大切なのだと思います。


[ 2013/09/27 07:00 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
この記事のトラックバックURL