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「・・・とは」の哲学

『不干斎ハビアン―神も仏も棄てた宗教者』釈徹宗

不干斎ハビアン―神も仏も棄てた宗教者 (新潮選書)不干斎ハビアン―神も仏も棄てた宗教者 (新潮選書)
(2009/01)
釈 徹宗

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不干斎ハビアンは、1565年生まれ。禅僧でしたが、クリスチャンに改宗。仏教・儒教・道教・神道・キリスト教の世界初の比較宗教論「妙貞問答」を著しました。後にキリスト教も棄てました。現在、その名がほとんど知られていない、歴史に埋もれた人物です。

この難解な人物に挑むのが、過去に「いきなりはじめる仏教生活」「仏教シネマ」「ゼロからの宗教の授業」を紹介した釈徹宗さんです。今回も知的な興奮を覚えさせてくれる内容が数多くありました。その一部を要約して紹介させていただきます。



・ハビアンは「浄土宗」を「往生とは、諸宗の悟道・得法の異名である。悟道・得法とは、真如のことであり、一切は空であることへ収斂する」と強引に論じた(浄土宗は阿弥陀仏ただ一つへの志向性が強く、救済型宗教の特性を備えた仏教という点が抜け落ちている)

・ハビアンは「浄土真宗」を「親鸞という上人は、自ら結婚して世間に隠すこともなかった。この教えは今、えらく世の中に広まっている。しかし、これほど上出来な宗旨もない。なにしろ、持戒も破戒もない。こんなお気楽でありがたい教えはない」と揶揄している

・浄土仏教はキリスト教のプロテスタントと共通した部分を持つ。その証拠に、来日した修道会の宣教師たちは、浄土真宗を見て、なぜこのように似た宗教があるのかと驚愕し、これこそ我の真の敵であると語っている

・ハビアンの仏教批判は、「釈迦や諸仏は人間である」「仏教の本質は空・無である」「仏教ではすべての存在は自分の心が生み出したものとする」といった三点に集約できる。そして、その批判はやがて「真の救いはキリシタンしかない」へと導かれる

・「妙貞問答」の「身を砕き、骨を粉にしても、報いねばならない御恩」という感性には、神の「原罪」意識がなく、「原恩」の意識がある。日本人の宗教意識の原泉である超越的存在の実感が「原恩」の意識を生み出す

・「儀式こそ日本において最も効果のある布教方法である」と織田信長とも親交のあった宣教師ヴァリニャーノは喝破した。日本人は「儀礼好きの戒律嫌い」であり、日本宗教文化は「場を感じる力」を重視してきた

・仏教は、「絶対」を否定する宗教。仏教は自体系内に、仏教自体を相対化する装置が内蔵されており、自己と世界の真の姿がわかれば仏教である必要はないと語る稀有な宗教

・ハビアンは「ただ南無阿弥陀仏と称えれば、息をひきとると同時に浄土へと往生できる。このような教えは末法の愚鈍なる人のために説かれた方便である。念仏者も死すれば無に帰す。つまり浄土宗にも来世はない」と、浄土仏教には後世の救いはないと批判している

・ハビアンは儒教(特に朱子学)の実践倫理的態度を一応高く評価している。仏教より随分ましだし、キリシタンと比較してもなかなかのものだ、と述べている。しかし、儒教には「造物主」がいないと指摘し、やはりそこには「救済」は成り立たないとする

・ハビアンによる宗教の類型化は「来世の救済の成立」に論点がある。禅仏教では、死は無に帰すると説き、浄土仏教も絶対なる救済神を否定。儒教は、現世のみの教えであり、神道は通常の生活を語るのみ。来世の救いをもっているのは唯一キリシタンだけ

・ザビエルはロヨラ宛に「日本に来る宣教師は、深い経験と内的な自己認識の出来た人であること。日本人がする無数の質問に答える学識を持つこと。哲学者であること。討論の矛盾を指摘するために、弁証学者であることが望ましい」と書簡を送っている

・ハビアンの棄教は、一知識人一自由人への転向。キリシタンから元の禅仏教の立場へと戻ったということ

・フォイエルバッハが「神は人間の投影である」という衝撃的な言説を発表する220年以上前に、ハビアンが同じ結論「無智無徳こそ真実」を語っていたのはちょっと驚き

・ハビアンは一時期、キリシタンがもつ普遍主義に魅了された。しかし、棄教後のハビアンは「普遍」という概念に懐疑的になり、むしろ、日本の宗教文化にしばしば見られる「不自然ではないもの」への希求に力点を置くこととなる

・ハビアンは世俗の価値を凌駕する絶対神をもつキリシタンの教えがこのまま広まれば、神国ニッポンは危うくなると考えた。「唯一にして絶対なる神」への違和感と、その「強さ」を知り抜いているハビアンだからこそ警告できた

・「仏教も儒教もキリスト教も、どんな宗教が入ってきても、『日本型仏教』『日本型儒教』『日本型キリスト教』に変換されてしまう」(山本七平)。ハビアンの宗教態度も、「自分をキープしたまま、各宗派を活用する」「自らの好奇心を満たしてくれる宗教情報を活用する」



本書の最後のほうに、「宗教には『自分というもの』がポキッと折れるプロセスを経過して見える領域がある。これまで編み上げてきた『自分というもの』が崩れるからこそ、人格や価値観の再構築が成立する」という一文があります。

つまり、今までの自分が死して、新たな自分が生まれるということかもしれません。創造は信じるものを否定する瞬間に生まれるというのは、すべてにおける鉄則ではないでしょうか。


[ 2013/08/16 07:00 ] 釈徹宗・本 | TB(0) | CM(0)
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