とは学

「・・・とは」の哲学

『二度生きる―凡夫の俳句人生』金子兜太

二度生きる―凡夫の俳句人生二度生きる―凡夫の俳句人生
(1994/12)
金子 兜太

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著者は、日本銀行に勤務する傍ら、俳人として活躍してこられました。俳句一本で生きる決断をされたのは、50代半ばのことです。90歳を超えた現在も、俳句界の重鎮として、活躍されています。

仕事をしながら、趣味で地位を築くというのは、並大抵のことではありません。本書には、その物語が描かれています。参考になる箇所が多数ありました。それらの一部を要約して、紹介させていただきます。



・徹底すること。それも本業ではなく、脇のことに徹底すること。本業はあくまで食べるための手段

・理想は、自分が本当に生きられる世界を持つこと。本当の自由とは何かをずっと求めてきて、その視点をいつもはずさなかったことが、周囲の風圧をはねのけられた最大のこと

・本当の自由とは、常に人間の持つエゴイズムと重ね合わされる。エゴイズムは人間の生き方の基本。それが悪い方向へ働けば、その極まった形が権力意識。いい方向に働けば、自由という形になって現れる。いい意味のエゴイズムとは、自由を指す

・人に迷惑をかけないで、自分が自然におられる形、それを「自然(じねん)」と言うが、自分の思う通りに生きていける形、その自由が理想となった

・理想はなかなか実現しない。一生かかってもできないかもしれない。しかし、理想というのは、実現するかしないかが問題ではない。理想とは、心への言い聞かせ心への止め金。大事なのは、理想を持つこと、身に課すこと

・理想を持つことは、誇りを持つことに繋がり、しのぎの大きな力になる。困難な状況を乗り越えるにも、自分の理想があれば、苦でなくなる。また、理想を持つことは、孤独に陥った時、そこから自分を救う手だてにもなる

・傑出した人間というのは、周囲からちやほやされ、それだけにいい気分にもなる。だが、ふと孤独に襲われる。ポストを昇りつめた人ほど、それが強く、孤独感が付きまとう。その途中の段階にあれば、さほど孤独は感じない

・職場では、けっして受け身にならず、いつも能動的であること。そして、ユーモラスであること

・第二の人生を豊かなものにするには、これまで培ってきたことが欠かせない。そこで、ものをいうのが偶然の体験。すべての体験が重要ではないが、軽く扱ってはならない偶然の体験については、きちんと見つめ直し、そこから何かを掘り起こさなければならない

・自分の楽しみには徹底性がないとだめ。それがないと趣味で終わってしまう。心底満足できる人生を送るには、趣味をプロレベルまで引き上げることが必要

・小林一茶が晩年に使った「荒凡夫」とは、「自由に生きている平均的な人間」のこと

・芸術性に傾いて、大衆の支持を失っては、俳句が存在する意味がない。俳句は、人の数、量が無視できない世界。芸術的で、質的に高いだけでは成立しない世界。俳句が芸術性庶民性の両方の兼ね合いの上で成立している文芸であることを、一茶を通じて教えられた

・人間の基本は本能にあり、その本能を制御する意志とのせめぎ合いの中に現出する赤裸々な姿こそ、人間の生々しい、ありのままの姿であることを、山頭火が示してくれた

・一茶は、自分は煩悩だらけの人間で、どうせ煩悩は捨てられやしない。それなら、愚の上に愚を重ねて生きていこう。娑婆で遊んでいる気持ちで自由に生きよう。そう言い聞かせ、書き留めている

・人間の本質とは、よくも悪くもエゴ。そのエゴの基本は本能だから、善玉の本能と悪玉の本能に振り回される人間を本当に分かって初めて、芭蕉を心底理解できる。きれいごとだけで見ていては、人間評価も作品評価もすべて中途半端に終わってしまう

・40代の頃から、勤めに対して冷めた目を向け、定年退職を機に、俳句をやり出すと、それまでの生き方の姿勢が句に現れ、短期間でいいものができる。一方、もともと変わった人間もすぐにいい句をつくる

・男性と女性とを比べた場合、初めは圧倒的に女性がいい句を作り、その後から男性が力をつけ、そこにまた女性が粘り強く追いつくという形をとるのが普通



俳句という詩形の奥深さ、俳句に現れる人間の本質について、深く知ることができ、また、俳句に魅了された著者の人間の大きさを感じた書でもありました。

俳句は、単なる言葉遊びではなく、17文字という制限の中に人生を押し込めるものであることがよくわかりました。人生の達人でないと、俳句は詠めないのではないでしょうか。ますます、俳句に興味が沸いてきました。


[ 2013/08/11 07:00 ] 人生の本 | TB(0) | CM(0)
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