とは考

「・・・とは」「・・・人とは」を思索

『心に響く99の言葉―東洋の風韻』多川俊映

心に響く99の言葉―東洋の風韻心に響く99の言葉―東洋の風韻
(2008/06/06)
多川 俊映

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著者は、阿修羅像で有名な興福寺の貫主です。以前に「唯識十章」という本を紹介させていただきました。

本書は、週刊ダイヤモンドに「東洋の風韻」と題して、著者が2年間にわたり、連載していたものです。難しい仏教の言葉を、できるだけわかりやすく説明されています。それらの一部を、要約して紹介させていただきます。


・誰も気になるのは人目で、それで人は皆、それなりに慎んだ自分になる。しかし、人目のない時人目の届かぬ心の内は、やることが雑になり、思いは乱れる。そのことを甘くみてはいけない

・他の動向に振りまわされたら、心は乱れるし、品格も下がる。「分」とは、「他と比較しない自分」ということ

・越すに越せない心の垣根などという、そんな垣根などあるわけでもなく、わが心が作り出したもの。気がつけば越えていたという程度のもの

・「雨の日は雨を愛さう。風の日は風を好まう。晴れた日は散歩をしよう。貧しくは心に富まう」は、堀口大学の詩。こせこせ比較しないと決めたら、その瞬間から風景が違ってくる。心に富むとはそういうこと

・心の深層に植えつけられた行為の情報が、積もり積もって、パーソナリティーを形成する。やはり、行為が人をつくる

・あんなヤツ、いなきゃいいんだ、という密やかな思いは呪殺そのもの。そのドス黒い想念が、他ならぬ自分を深いところから汚す。まさに、還って本人にたどり着く

・過去一切を、私たちは背負って今日ここに在る。だから、過去を捨てることなどできない。しかし、過去を土台として、跳躍することはできる

一点の素心とは、何ものにも汚されない清々しさ。それは、人としての誇り、矜持と言い換えることもできる。そして、それを心に秘める者だけが、心温かきことに出会い、真の人になっていく

・どの道でも、極めた人・極めようと真実一途な人は、隠したり意地悪したりしない。そのように、オープンな人だけが、道を極める

・善眼でも悪眼でもない、あるがままに見る慈眼という第三の眼があることを知っておけば、いつかはそれに近づくことができる

・私たちはどうしても、他人の小過・陰私・旧悪に目が行く。そこを踏ん張って、むしろわが身をこそ振り返る。そこに徳が養われ、同時に、人の恨みも買わなくてもすむ。まさに、一石二鳥

・「衣裏の珠を看よ」とは、良寛の語。いいものは遠く離れたところにあるのではなく、もっと自己の日常を見つめて、自分の心の中にこそ、自己を大きく成長させるものが備わっているのではないか、というもの

・一遍は、「生ぜしともひとりなり。死するも独りなり。されば人と共に住するも独なり」と述べている。たとえ群れていても、独りなんだ。人間とは、そういうものなのだ。何ごとにつけ、それをもとに考えれば、本質をはずすことはない

・私たちは当面の都合だけで、関係性の有無を判断し、無いとみれば、ものの見事にバッサリと切り捨ててしまう。そうして、わが世界を自ら狭くしている。視野を遠くに投げかけて、頑なになった心をほぐしたい

・一遍は「仏も吾もなかりけり」と言う。ここにはもう、主体と客体とを区切るボーダーはない。そういうボーダーレスの世界がある。ものごとはほぼ、そうした没我の世界においてこそ、成就する

・私たちは、前生から来た旅人。永遠の過去から永い旅路の果てに、いまここに在る。永遠の過去とは、もとより生命の根源のこと。誕生も卒業も、事業の完成も定年も、そして死もまた、旅の途中の一コマ

・「大きな真実は大きな沈黙をもっている」とは、そこから先が大事なのだということ。言葉を超えた世界に遊ぶことは、人に重厚さを与える

・インドの詩聖タゴールは、「死んだ言葉の塵がお前にこびりついている、沈黙によってお前の魂を洗え」と、聞き捨てならぬことを述べている。黙すことを学ばなければならない



著者は、仏教界の中だけでなく、一流のエッセイストとして、言葉で一般大衆を率いることでも、群を抜いているように思います。

仏教の考え方を、品よく、さりげなく伝える技術は、今の仏教界において、著者の右に出るものはいないのではないでしょうか。


[ 2013/04/26 07:00 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)
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