とは考

「・・・とは」「・・・人とは」を思索

『唯識十章』多川俊映

唯識十章唯識十章
(1989/05)
多川 俊映

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唯識仏教とは、仏教の原理であり、基礎となるものです。今日の日本の仏教の教説になっているものです。

真面目なものだけに、難解で、理解しにくいのですが、本書は、それらをしつこく解説してくれています。興味深い箇所が数多くありました。その一部を要約して、紹介させていただきます。



・「大隠は市井に遁る、小隠は山中に遁る」。大隠者は、人境にあっても喧噪が気にならない。凡人は、喧噪の暮らしにうつつをぬかす。小隠者は、町中の喧噪ゆえに、誰もいない山中に遁れたいと希望する。同じ世界に住みながら、三者三様、違った世界に住んでいる

・私たちの見聞きする世界は、世界そのものではない。取り巻くあらゆるものは、識所変(識によって変じだされた所のもの)。唯識仏教では、自己と環境との関係を、このように理解する

・唯識仏教では、認識する心の作用を、その働きにおいて四つの領域に分かれると考えた。「みられるもの」(相分)と「みるもの」(見分)、そして、その「みることを確認するもの」(自証分)とその「確認をさらに認知するもの」(認自証分

・「ものをみる眼・人をみる眼」は、自己に都合のいいようにしかみない。物事の真実の姿など、見えてくるはずもない。唯識所変の考え方は、それらを強く示唆している

・唯識仏教は、私たちの心は「八識」によって構成されていると考えた。八識とは、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識と末那識および阿頼耶識。つまり、六識だけでは、現実の私たちの行動は解明し切れないということ

・私たちは、日々の学習や仕事の積み重ねによって、徐々に成長して、日に日に変わっているが、昨日の私と今日の私は同じであり、一年前の私と今の私もそんなに違いはない。この、変わりつつも変わらない自分というものが根底にある。その根底が阿頼耶識

・心には、表層の心「眼識・耳識・鼻識・舌識・身識<前五識(感覚)>と意識<第六識(知覚・感情・思考・意志)>」と、深層の心「末那識<第七識(自己執着心)>と阿頼耶識<第八識(根本心)>」がある

・「現行」(現実の行為・行動)が「種子」という形をとって、阿頼耶識に「薫習」(心底に植えつけ、長くとどまる)されていく

・「過去の影は、未来の約束。いかなる木も、種子の中にある力以上に偉大になることはできない」(岡倉天心「東洋の理想」)

・阿頼耶識という深層の心は、この世に生を受けてからの体験や経験だけを保有するものではないというのが「薫習」の意味。それは、はるか遠い過去、人類の生い立ち、生命の起源にさえに至るものを秘めている

・私たちの日常のすべての行為は、心の中で密かに思いめぐらすことも含めて、その印象が「種子」という形で、阿頼耶識の中に薫習され保持される。それが「」の意味

・仏教の最も基本的な考え方は、1.「諸行無常」(物事は絶えず変化している)2.「諸法無我」(我が不変不滅であることを認めない)3.「涅槃寂静」(真理に調和していく中に、身心に顕現していく寂静状況)の三つ。これを三法印と言う

・仏教では、期間を定めて、伝統的な修行を行うが、それは「行」と言わずに、「加行」と呼ぶ。なぜなら、普段の生活がすでに行だから。行とは、日常生活を粗末にしないこと

・弓道では、矢が放たれるまでの所作が、実に慎重。一旦、矢を放ってしまったならば、言い訳など通用しない。細心な調整ののちに大胆に放たれた矢は、たとえ的に当たらなくても、それはそれでいい。それは、的によって調整された身心があとに残るから

・布施とは、自己所有のものを無条件に他者に与えること。自己執着に徹した生活をし続ける限り、自分のものを他者に無条件に与えることなど、決してできない

・私たちの日常生活は、善と煩悩との綱引きの中に営まれている。その微妙なところを踏み台としている以上、必要になるのが、人生の目標

・人間は、自己を如実に反省すること・心の安らぎを希求して放逸ならざること・むさぼらぬことなどの持続が求められている



唯識を理解するには、相当骨が折れます。本書にも登場する難解な用語の数々を、咀嚼して読み続けるのは、短時間では無理なように感じました。

しかし、ほんのさわりだけでも、唯識仏教というものを知ることは、自分を磨くことにおいて、大事なことかもしれません。


[ 2013/01/18 07:00 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(1)
とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。
[ 2013/03/06 07:23 ] [ 編集 ]
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