とは考

「・・・とは」「・・・人とは」を思索

『一遍上人ものがたり』金井清光

一遍上人ものがたり (東京美術選書)一遍上人ものがたり (東京美術選書)
(1988/06)
金井 清光

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一遍上人は、法然、親鸞、栄西、道元、親鸞、日蓮らと並ぶ鎌倉仏教の開祖です。しかし、この中では、一風変わった存在です。そのユニークな「踊り念仏」という布教方法は、歌舞伎や盆踊りのもとになったと言われています。

庶民の側に立って、布教しようとした一遍上人とは、どういう人物であったのか。本書は、詳しく解説してくれています。「本の一部」ですが、紹介させていただきます。



・一遍上人は、念仏者の心得を尋ねられて、「地獄を恐れる心を捨て、極楽を願う心も捨て、諸宗の悟りをも捨て、一切の事を捨てて、ただバカになって念仏しなさい」と答えている。つまり、誰でも、バカになって念仏すれば、直ちに往生して仏になれるということ

・一遍上人は、息が途絶えるまでナムアミダブツと唱えなさいと教えている。念仏を唱えて、唱えて、唱え続けて、息苦しくなった瞬間に無意識になる。無意識になれば、一切の欲がなくなり、赤ん坊と同じ無我無心になる。そのような空念仏こそが往生

・法然や親鸞は、阿弥陀仏の本願を信じ、ナムアミダブツと唱えれば極楽往生できると説き、「信心」を重んじた。誰でも、宗教は信仰と思っているが、一遍上人は信仰を否定した

・一遍上人の教えは、信心などいらない。阿弥陀仏の救いは、人間の信仰と無関係で、口から出まかせのナムアミダブツでも往生するというもの

・普通の人は、信心もないのに、念仏など唱えない。そこで、一遍上人は、念仏の札(南無阿弥陀仏決定往生と印刷した札)を無条件で人々に与えた

・一遍上人の教えによれば、口のきけない人は、南無阿弥陀仏と書いてある文字をボンヤリ眺めるだけで往生する。目の不自由な人は、南無阿弥陀仏と書いてある紙片に手を触れるだけでよい。何らかの形で、南無阿弥陀仏に縁を結べば、信仰とは無関係に救われる

・念仏は往生への第一歩。信じてもいいし、信じなくてもいい。とにかく念仏を唱えることが大切。往生は信心と無関係のナムアミダブツ自体の不思議な働きによるもの

・「人間の迷いを捨てれば、いま生きているこの世がそのまま浄土になる」(一遍上人語録)

・「極楽とは我が空無になった状態の浄土」(一遍上人語録)。自分が救われたいと望んでいれば、自分の力でよいことをおこなっても極楽に行くことはできない。そういう欲を捨てれば、直ちに極楽往生する

・一遍上人の教えは、「人間だれでも生まれながら仏であり、阿弥陀仏。それは、ズバリ言えば『空』。だから生死もなければ、信心もない」ということ

・一遍上人は、「自分の死後、弔いの仏事作法をきちんとしてはいけない。死体は野原に捨てて獣に食べさせなさい。しかし、在俗の人たちが法縁を結びたいと願うのを、自分の遺言にこだわって拒否してはいけない」と遺言している

・一遍上人は、浄土教の学問の師匠になっても、大きなお寺に住むこともせず、時の権力者に近づいて贅沢な暮しをするようなことも一切せず、ただひたすら名もなく貧しい人々を救うため、田舎の石ころ道を歩き続ける遊行の聖となった

・一遍上人は、奈良のすぐそばを通りながら、東大寺の大仏に行かなかった。国家権力が民衆から税金を搾り取って造った大仏などに振り向きもしないところに、社会の底辺にあえいでいる民衆を救う尊い姿がよくあらわれている

・一遍上人は、一生の間、権力者に近づくことはまったくなく、わが身を投げ捨て、名もなく貧しい民衆に救いの手をさしのべ、何の報酬も期待せず、自分の住む家も寺もなく、妻子もなく、一宗一派も形成せず、身にただ破れ衣一つをまとって大往生した

・一遍上人は、全国各地を遊行して、信者や不信者の区別なく、行きあう人ごとに札を配った。人が集まる市場や神社や寺の前でも、踊り念仏を行い、黒山の人だかりになったところで札を配った

・「一遍聖絵には、遠く山々が霞み、雁の群れが夕暮れの空に飛ぶ砂浜に、老い松の近くを二三の弟子と打ちつれて、とぼとぼ歩み続ける上人の姿が描かれている。遍歴の道を倦まず歩み続ける寂寞たるこの光景こそ、東洋の哲理を描き出して余すところない」(柳宗悦)

・一遍聖絵(国宝)の絵巻には、名もなく貧しい人々や社会の最底辺にうごめく虐げられた人々を、手にとるように生き生きと描いている。これは一遍上人の宗教が、権力者や上層階級よりも、中下層階級や底辺階級に救いの手をさしのべたことを何よりも語るもの



一遍上人の弟子たちが興した「時宗」は、その後、隆盛を極めたとは決して言えません。でも、そういうところが、一遍上人らしいところです。

一遍上人の教えは、念仏を唱えるという意味で、浄土宗や浄土真宗、日蓮宗のようではありますが、無の境地に至るという意味で、臨済宗や曹洞宗のようでもあります。

一遍上人とは、念仏と禅の融合した教えを、庶民に、手軽に、手短かに伝え、庶民に安心を与えた、時代が生んだ人物だったのではないでしょうか。
[ 2012/07/20 07:01 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)
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