とは考

「・・・とは」「・・・人とは」を思索

『徒然草を読む』上田三四二

徒然草を読む (講談社学術文庫 (719))徒然草を読む (講談社学術文庫 (719))
(1986/01/07)
上田 三四二

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三か月ほど前、NHK・Eテレ「100分DE名著」で、徒然草の吉田兼好をとり上げていました。番組を見て、改めて吉田兼好の観察力、分析力、人間性、知性に驚かされました。

現代の日本人が、吉田兼好と徒然草をどう解釈するか、もっと知りたくなり、この本を手に取りました。

本書は、「兼好と時間」「兼好と世間」「兼好と人間」というテーマで、文芸評論家であった故上田三四二氏が論評されたものです。その鋭い分析に感銘したところが数多くありました。「本の一部」ですが、紹介させていただきます。



・兼好は大略三十歳という年に、外観の狂気を選んで出家脱俗し、諸縁放下に立脚する閑居のうちに、次第に内部の狂気を鎮めて、安静境に到る心術を体得していった

・兼好にとって、人は山に隠れると市に隠れるとの別なく、また、在俗と出家の隔てさえなく、つねに無常に曝されて生きている

・兼好は「楽しぶ」ことの境地を、死の自覚の上に成就する。明日知れぬ身の上のことであるから、かりそめのものであることを知っている。知っていて、その生を楽しみ、それを「存命の喜び」とするところに、兼好は隠遁の至境を見出している

・兼好は、その「社会的な枠」から出て、自由を求めた。隠遁は、形において身分からの自由である。そして、身分からの自由は、あらゆる世俗的な欲望を捨てたところに開ける心の自由を、その内景としていた

・貴賎と老若とを問わず、人間の営みは愚かしいものであり、それが「世間」と呼ばれるものと、兼好の意識は、一個の身分社会を超えて、現世利益のために東奔西走する、蟻の大群のようなものとしてとらえている

・人生とは死によって切断される時間のごく短い時分である。これが、兼好の人生認識の基本

・兼好の無常観の深部には「物皆幻化」の思想がある。単に死が近いというにとどまらず、その死に到るまでの生の内容が、みな幻だという

・「変化の理」は、兼好の美学の根底に横たわっている

・兼好は、死に向かって直線的に流れてやまない時間を止めるのに、その瞬間を自己完結させ、凍結させようとした

・世間と緩やかにつながっている。そのつながり方が、兼好の生き方の極意だとさえ言っていいほど

・兼好は、飲酒にふけり、それに貪ることを嫌った。限度を守り、乏しきにとどまることが兼好の態度。その限度を越えやすい酒に対して、彼が警戒心を示すのは当然

・主客ともども酒量を過ごすのは親しい間柄であればこそ。客と主人は心の通い合っている。兼好にとって、酒は人の心を開くもの

・兼好の体は、快楽を求めずして、ただ安楽を求めていた。兼好が色欲の抑制を説いたのは、快楽は生の第一義的なものでなかったから

・評判のためではなく、知そのものを得たい、賢そのものになりたいと思うのも虚偽であり、煩悩であるとして退けている

・兼好の技術と芸能の道の讃美は、技術と芸能そのものよりも、より一層、技能の習熟によって一芸に達した人に備わった心ざまのよろしきに向けられる

・名人、達人、至人。兼好は達人(明らかならん人)と至人(まことの人)とのはざまにあって、そのいずれの高みにも到りえていない自分を草庵の中に見出している

・兼好にとって道とは、「万の道」と「まことの道」のはざまにある「つれづれの道」以外にありえない。兼好が恃んだのは、明日なき今日の中に、「心身永閑」のとらわれなき自由な一個の自己を浮かべることであった

・財あるものは財を捨て、地位あるものは地位を捨て、また知識も才能も捨てて、すべて捨てた上に立って、不足をかこつことなく生きよと言うとき、その執着なき生活態度の向かうところは、内には暇あり、外には事のない徒然無憂の閑生涯



兼好は、今で言えば、隠居して、世間の雑事と距離を置きながら、日々雑感をブログに書き記している教養人なのかもしれません。

男は、そういう晴耕雨読的な生活に憧れます。その憧れを遠い昔に実現した兼好に、今も男たちは憧れ続けています。

ということは、現実社会の裏返しとして、徒然草の人気が存在するということではないでしょうか。生きにくい、生きづらいと思ったとき、徒然草に逃げ込むのもまたいいのかもしれません。
[ 2012/05/05 07:02 ] 偉人の本 | TB(0) | CM(0)
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