「我以外皆我師」という言葉は、吉川英治氏が言って、世に広まっていったということも、今や忘れ去られようとしています。
本書は、「
宮本武蔵」など、多数の著書がある吉川英治氏の人生観がよく現れており、珠玉の言葉が満載です。その一部をまとめてみました。
・転機は人生をつくる最大の一瞬。岐路の人生は、運命と人間の協同創作。
自己の力が勝ってつくる場合もある。
運命のつけた題名と運命の書いた筋書にもって行かれてしまう場合もある
・転機は、運命と自己との飽和された合作でなければならない。自己の力のみによって、急角度な転機を曲がろうとすると、いつも「茨の花、曲がった道も茨の花」である
・小説というものは作家も読者もお互いに自己の掘り下げみたいなもの。共同の人間開発でなくてはならない
・今日、民衆の中に
何が一番欠けているか。考えてみることは先ずこれである
・人間が理智的になってきている。遠い過去の中には、今日にあってほしいような強さ、強靭な神経、もっと希望と力を持って歩いていくというような生活力、といったものがあったはず。それが今日はかなり稀薄になっている
・社会史なんか見ても、根底の野性というものの力が重要な役割を果たしている。
野性の生命力が、後に咲く花の球根の役をしている。近代で言えば、野性と人間の叡智、科学と結び着いたものが、人間の中の生命体として瑞々しいものを持つ
・どうも人間は誰でも、自分が少し励んでいると、おれはかくの如くやっていると、すぐ自負してしまうところがある。それが何事においても
修業の止まりとなってしまう
・伊達政宗の詩にもあるように、「青年馬上に棲む」といった気持ち、常に戦場に馳駆し、奔走する気持ち、そこには
ハチ切れるばかりの精気と、活気と、それから余裕とが充ちあふれる
・武蔵は処世下手でも、世にすねたり、逆剣をつかう人ではなかった。独行道の冒頭に「
世々の道に反かず」と書いているのを見ても窺われる。彼の孤独と不遇を、生涯、彼に持ち続けさせたものは、やはり「道」のためだった。求道一筋への犠牲だった
・歌人や俳人の遍歴は、人間を避けて自然の懐を慕うが、武蔵のそれは、行雲流水のうちに身をおいても、その視界は
人間の中にあった。人間が解決できない生死の問題に、その焦点があった。その究極の目的として、形にとっているものが、つまり彼の「剣」である
・武蔵が「我れ事に於て後悔せず」書いてあるのは、彼がいかにかつては悔い、また
悔いては日々悔を重ねてきたかを、言葉の裏に語っている
・五輪書中、武蔵が最も力を注いでいるのは、最後の「空の巻」。ここに至って、この書は、世の通念的な兵法書ではなく、
精密なる哲学書になった。仏典、儒学、天文、諸芸諸道に参究して、そして、身一つを犠牲にして体得した、武蔵独自の哲学
・現代の女性は驚くべき表現を自覚してきた。それだけ、女性の生存もせちがらくなってきたに違いない。生存の激しさから女性美が発達する。女性美も産業である
・女性の採点率には多くの場合、男性としては弱点というものが加算されている。ずいぶん男性を観ている女性は却って男性がわからないし、婆さんになってからやっと間に合わない事を少しずつ解ってくる
・女性は、初めから完全に自分のものになりそうな男性を求めるから間違う。全部をもって恋愛に投じてくる男などに生涯を寄せようとするのは大きな危険。
女のものになりきれる男を仮につかんでみたところで、それが女性の幸福感に何であるのか
・
デザイン過剰は、行き詰まりの混乱、末期神経のあえぎ。整理のない繁茂はあり得ない。
いいものほど、ほとんどは単調。民衆の素朴さは、それゆえに尊いし、健全だと言える
・「
食えないから」は、一般庶民の生態には一理由になるが、宗教家の言いわけにはならない。飢餓にぶつかるときこそ、庶民は「いのち」の支えを探す。その彷徨混乱に伍して、依然たる布施経済の習性を持ち続けようとするのは無理。いや、あまりにも無慈悲
・古いものすべてがかびるのではない。永遠な「いのち」あるもののみが、常に新鮮なのである
本書には、吉川英治氏の人生論、文学論、宮本武蔵論、女性論、宗教論が記されています。なかでも、宮本武蔵論からは、著者の哲学を多くうかがい知ることができます。
宮本武蔵は「剣」によって、人生を悟っていきましたが、吉川英治は「宮本武蔵」という小説によって、人生を悟られたのかもしれません。