坂口安吾の本を紹介するのは、これで3冊目になります。戦後すぐに、安吾は本書で、「
生きて堕ちよ」と堕落をすすめ、世に賛否両論の渦を巻き起こしました。
その本質を見極める言葉の数々は、65年経った今でも、非常に参考になります。その一部をまとめてみました。
・堕ちる道を堕ちることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。
政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である
・農村には耐乏精神だの本能的な貯蓄精神はあるが、文化の本質である進歩はない。農村にあるものは排他精神と、他へ対する不信、疑り深い魂だけで、
損得の執拗な計算が発達しているだけ。純朴などという性格もない
・農民は常に受け身である。自分の方からこうしたいとは言わず、また、言い得ない。その代わり、押しつけられた事柄を彼ら独特のずるさによって処理する。そして、その
受け身のずるさが、日本の歴史を動かしてきた
・必要は発明の母というが、その必要を求める精神を、日本では
ナマクラなどと言い、耐乏を美徳と称す。勤労精神を忘れるのは亡国のもとだという。だが、肉体の勤労に頼り、耐乏の精神によって、今日亡国の悲運を招いた
・藤原氏や将軍家にとって、最高の主権を握るよりも、天皇制は都合がよかった。彼らは自分自身が天下に号令するよりも、天皇に号令させ、自分がまず真っ先にその
号令に服従してみせることによって号令がさらによく行き渡ることを心得ていた
・藤原氏の昔から、最も
天皇を冒瀆する者が最も天皇を崇拝していた。彼らは盲目的に崇拝し、同時に天皇をもてあそび、わが身の便利の道具とし、冒瀆の限りをつくしていた
・人間の、また人性の正しい姿とは、欲するところを素直に欲し、厭なものを厭だと言う、ただそれだけのこと。大義名分だの、不義はご法度だの、義理人情というニセの着物を脱ぎ去り、
赤裸々な心になることが、人間の復活の第一条件
・美しいもの、楽しいことを愛すのは人間の自然であり、贅沢や豪奢を愛し、成金は俗悪な成金趣味を発揮するが、これが
万人の本性であって、軽蔑すべきではない。そして、人間は、美しいもの、楽しいこと、贅沢を愛するように、正しいことをも愛する
・人間が正しいもの、正義を愛す、ということは、同時にそれが美しいもの、楽しいもの、贅沢を愛し、男が美女を愛し、女が美男を愛することと並び存する。
悪いことをも欲する心と並び存するゆえに意味があるので、人間の倫理の根元はここにある
・
教訓には二つある。先人がそのために失敗したから、後人はそれをしてはならぬ、という意味のものと、先人はそのために失敗し、後人も失敗するに決まっているが、さればといって、だからするなとはいえない性質のもの
・家庭は親の愛情と犠牲によって構成された団結のようだが、実際は因習的な形式的なもので、親の子への献身などは親が妄想的に確信しているだけ、かえって子供に
服従と犠牲を要求することが多い
・
働くのは遊ぶためであり、より美しいもの便利なもの楽しいものを求めるのは人間の自然であり、それを拒み阻むべき理由はない
・江戸の精神、江戸の趣味と称する通人の魂はおおむね荷風の流儀で、俗を笑い、古きを尊び懐かしんで、新しきものを軽薄とし、
自分のみを高しとする。新しきものを憎むのは、ただその古きに似ざるがためであって、より高き真実を求める生き方、憧れに欠けている
・日本文学にとっては、大阪の商人気質、実質主義のオッチョコチョイが必要。文学本来の本質たる思想性の自覚と同時に、徹底的にオッチョコチョイな
戯作者根性が必要。鼻唄を歌いながらではいけなく、しかめっ面をしてしか文学を書けなかったということ
・人間は悲しいものだ。切ないものだ。苦しいものだ。不幸なものだ。なぜなら、死んでなくなってしまうのだから。
人間同志の関係に幸福などない。それでも、とにかく、生きるほかに手はない。生きる以上は、悪くより、よく生きなければならぬ
・死ぬ時は、ただ無に帰するのみであるという、この慎ましい人間のまことの義務に忠実でなければならぬ。これを、人間の義務とみる。
生きているだけが人間で、あとはただ、無である。そして、ただ生きることのみを知ることによって、正義、真実が生まれる
安吾は憤然と、人間の本性について、日本的組織について、日本人について、日本文学について、死について、語っています。
自分の頭で考えず、本質を見ようとしない日本人に対して、安吾は苛立ち、耐えられなかったのでしょう。それから、65年経っても、大きくは変わっていません。安吾の指摘、「恐るべし」です。