とは考

「・・・とは」「・・・人とは」を思索

『日本を思ふ』福田恒存

日本を思ふ (文春文庫)日本を思ふ (文春文庫)
(1995/05)
福田 恒存

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昭和の論客であった著者の本を紹介するのは、「日本への遺言」「私の幸福論」「人間・この劇的なるもの」に次いで、4冊目です。

本書は、昭和30年前後に発表された論文、エッセイ集です。今、読んでも、著者の知性、叡智、才能に感嘆させられます。その一部を要約して、紹介させていただきます。



・日本人は、初めから自分の鏡に映らぬ相手を認めようとしないし、相手の鏡に映らぬ自分を持たない。「島国根性」はおそらくそこから生まれた

多数という原理は必ず自己崩壊する。現実を見ればすぐにわかること。多数を旗印にした制度、方法で、多数のためになったものは一つもない。なぜなら、そこには必ず、それを自分だけに都合よく運用しようとするものが現れるから

・多数決といっても、結局は強弱の原理でしかない。それを覆そうとする革命理論も、要は多数決であり、強弱の原理に基づく。強弱、つまり現実への適応能力がすべてということ。すべての高邁な理論、大義名分も、その底には、この酷薄な事実が横たわっている

・現実では、勝てっこないと思った人間だけが、超自然ということを想いつく。相対の世界では、物事は決着しないと考えた人間だけが、絶対者にすがりつく

・妥協の余地のない激しい我のせめぎあいは、絶対者の調停を待つ以外に解決のしようがない。また、絶対者を味方にするのはもちろん、これを敵にまわすのも、どうしても自我の強さを必要とする

人生を統一する場が結婚。あらゆる人間関係が結婚を中心に展開される。われわれの共同生活にもし倫理が必要ならば、それは結婚の場に最も凝縮、純化された形で鍛錬される

・生という出発点において自由のない者が、死において自由であり得る訳がない。人間は与えられた条件の中に存在するだけで、その存在そのものの中にいかなる目的もない

・人間には自由がないという自覚に徹した時のみ、人間は人間としての自由を獲得する

・人間は精神の自由をすべて物質の自由に翻訳し始めた。人間は自己、すなわち人格になる努力を止めて、自己を物と合一せしめ、物になる作業に全精力を傾けだした

・人間はエゴイストであると同時に、そのエゴイストを捨てたいという欲求を持っている

・元来、民主主義とは、話し合いによって片の付かない対立を処理する方法の一つ。民主主義が相互理解のための話し合いだという誤解は、今や善意の誤解の域を脱し、現代的な偽善と感傷の風を帯びてきている

・人は絶えず人目を気にしているからこそ、劣等感に捉われる。その意味では、強者に卑屈であるよりは、それに楯突くことによって、それはさらに醜く露出する

・純粋というのは、言い換えれば、私心がないということ。が、私心がないからといって、それがどうしたというのか

・大部分の人間は、自分の内部から私心や利己心の臭気が立ち昇ることを極度に恐れている。それを他人に嗅ぎつけられることを何より恐れている

・良かれ悪しかれ、自己を頑強に肯定し、これを守り抜くというところにしか、文化は存在しない

・人々は自由を求めていたのではなく、逃げていただけのこと。強いて言えば、自由そのものを求めていたのである。何かをしたいがための自由ではなく、何かをしないための自由

・現代の自由思想は孤独を嫌う。正義はつねに全体を離脱した個人の個にある。同時に正義だけでは、どうにもならぬことを人々は知っている

・真の意味における自由とは、全体の中にあって、適切な位置を占める能力のこと。全体を否定する個性に自由はない

・私たちは、過去に対する不信から未来への信頼を生むことはできない。身近な個人に対する不信から社会に対する信頼を生むことはできない

・個人が個人の手で、あるいは人間が人間の手で、全体を調整しようとすれば、自分が勝ち、相手を滅ぼすしかない。生命の貴重や平和を口にしようと、それが当然の帰結である



著者は、評論、エッセイだけでなく、小説、戯曲も書いていました。そこが、単なる評論家と違うところです。

社会評論というよりも、社会を構成する一人一人の個人の本質から考える評論は、今でも異彩を放っているように思います。


[ 2013/07/18 07:00 ] 福田恒存・本 | TB(0) | CM(2)

『人間・この劇的なるもの』福田恆存

人間・この劇的なるもの (新潮文庫)人間・この劇的なるもの (新潮文庫)
(2008/01)
福田 恆存

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福田恆存氏の著書を紹介するのは、「日本への遺言」「私の幸福論」に次いで3冊目です。

著者は、評論家として有名でしたが、劇作家、演出家として、劇団を主宰し、演劇活動も行われていました。

本書は、劇作家の視点で、人間や社会を評論した書です。著者の鋭い哲学的考察によって、人間や社会が次々に解剖されていくように感じます。「本の一部」ですが、紹介させていただきます。



・喜びにせよ、悲しみにせよ、私たちは行けるところまで行きつくことを望んでいる。そして、行為が完全に燃焼しきったところに無意識が訪れる。今日と明日の間に、夜の睡眠があるように

・私たちは焔であると同時に薪であらねばならないのだが、その完全燃焼のためには、二つの性の内側から発するもの以外に、なんの要因も必要としない

自然のままに生きるというが、これほど誤解された言葉もない。もともと人間は自然のままに生きることを欲していないし、それに堪えられもしない。程度の差こそあれ、誰もが、何かの役割を演じたがっている。また演じてもいる。ただそれを意識していないだけ

・個性などというものを信じてはいけない。もしそんなものがあるとすれば、それは自分が演じたい役割ということにすぎない

・生きがいとは、必然性のうちに生きているという実感から生じる。その必然性を味わうこと、それが生きがい。私たちは二重に生きている。役者が舞台の上で、常にそうであるように

・劇的に生きたいというのは、自分の生涯を、あるいは、その一定の期間を、一個の芸術作品に仕立て上げたいということにほかならない

・人間はただ生きることを欲しているのではない。生の豊かさを欲しているのでもない。人は生きると同時に、それを味わうことを欲している。現実の生活とは別の次元に、意識の生活がある。それに関わらずには、いかなる人生論も幸福論も成り立たない

・労働、奉仕、義務、約束、秩序、規則、伝統、過去、家族、他人、等々からの逃避、それを私たちは自由と呼んでいる。まず私たちは、それらのものを、堪えがたい「いやなこと」として諒解しているという事実を見逃し得ない

・自由の名において、人々は、求めていたのではなくて、逃げていただけのこと。強いて言えば、自由そのものを求めていたのである。何かをしたいための自由ではなく、何かをしないための自由

・孤独者は再び、全体への復帰を求めずにはいられなくなる。彼は生きることが全体との一致において初めて可能であることを思い知らされる

・常に自由は、下から上に向かってのしあがろうとする奴隷の哲学を母胎としてきた

・古いものが新しいものを裁くということは、それ自体としては間違っている。しかし、その原則を否定すれば、私たちはさらに間違いを犯すことになろう

自由の原理は、私たちに快楽をもたらすかもしれないが、決して幸福をもたらさない。信頼の原理は、私たちに苦痛を与えるかもしれないが、その中においてさえ、生の充実感を受け取ることができる

・個人主義にせよ、全体主義にせよ、その原理は、人間が人間を支配し得るということにある。この原理のもとには、全体は存在し得ない

・全体を調整しようとすれば、自分が勝ち、相手を滅ぼすしか道はない。生命の貴重や平和を口にしようと、それが当然の帰結

・現代のヒューマニズムにおいては、死は生の断絶、もしくは生の欠如を意味するにすぎない。言い換えれば、全体は生の側にのみあり、死とは関わらない。しかし、古代の宗教的儀式においては、生と死とは全体を構成する二つの要素であった

・私たちは、認識において、現実の資料をすべて知り尽くすことができないと同様に、行動においても、生涯、一貫した必然性を保持することはできない。一生を整え、それに必然の理由づけを附することは、個人の仕事ではあり得ないこと



自由とは?個性とは?生きがいとは?個人主義とは?著者はそれらに幻想を抱いてはいけないと言っているように思います。

現実を直視し、全体との調和の中に、自分の人生を見出すことの大切さを述べているのではないでしょうか。

ある意味、知的に偏った人間を目覚めさせてくれる書ではないかと感じました。
[ 2012/03/30 07:00 ] 福田恒存・本 | TB(0) | CM(0)

『私の幸福論』福田恒存

私の幸福論 (ちくま文庫)私の幸福論 (ちくま文庫)
(1998/09)
福田 恒存

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この本は1979年に出版されたものが土台になっていますが、そのもとは、著者が1955年から2年間、雑誌に連載していたものです。

実に55年前の文章ですが、全く古く感じません。それは、著者の教養のなせる業だと思います。

福田恆存氏の本を紹介するのは「日本への遺言」に次ぎ2冊目です。幸福論という枠にとどまらず、著者の哲学に触れることができました。「本の一部」ですが、紹介したいと思います。


・男と女が初めて出会うとき、電車の中であろうが、路上であろうが、互いに見合った瞬間、それぞれに相手を裁いている。眼と眼を交わしたとき、それがいわば「勝負あった」瞬間である

美醜によって、好いたり嫌ったりするという事実は、残酷であり、しかもどうしようもない現実である。それを隠して、美醜など二の次だということのほうが、残酷なことのように思われる

・顔の美醜に限らず、世間に出て、金のあるものが貧乏人より、他人からちやほやされるという事実は、否定できないこと。どんな世の中でも、優者が劣者よりもてはやされることは、しかたのないこと

・まず自分の弱点を認めること。そして、それにこだわらないように努めること。その素直な努力そのものが長所を形づくっていく

・「だまされた」のは、人相と人柄の一致という原理を無視したからにほかならない。語っている人物の人相より、語られた言葉の内容のほうを信じたからにほかならない

自我意識を徹底させると、ままならないのは、家庭や社会ばかりではなく、自分自身だということに気づく。人格というのも顔の美醜と同様、簡単に変えることはできない

・失敗が続くと、どこかに失敗の原因はないかと、自分以外の場所に、その理由を探し始める。その気になりさえすれば、その理由をいくらでも拡大できる。その拡大工作が行きつく最後の地点が宿命というやつ。遺伝と環境という二つの武器

・自由とは、なにかをなしたい要求、なにかをなしうる能力、なにかをなさねばならぬ責任、この三つのものに支えられている。口先だけの自由を唱えても、その背後にこの三つの条件が欠けていたら、自由は辛いものになる

・私たちは、出発点においても、終着点においても、宿命を必要とする。言い換えれば、初めから宿命を負って生まれてきたのであり、最後には、宿命の前に屈服する。私たちはその限界内で、自由を享受し、のびのびと生きることができる

・私たちは、教育によって知識を得、文化によって教養を身につける。教育によって得られる文化的知識は、氷山の頭に関する知識であって、文化とはそれだけのものではない

・日常的でないものにぶつかったとき、即座に応用が利くということ、それが教養というもの

・ユーモアや機智は、その人の教養を物語るもの。今日、いろいろな意見の対立や勢力抗争を見ても、どこにもユーモアや機智の潤滑油が見られない。余裕を持つことが必要。相手の立場を認め、教養の限界を自覚することが真の教養人といえる

・知識のある人ほどいらいらしている実情は困ったもの。知識は余裕を伴わねば、教養のうちにとりいれられない

・理解することばかりが愛情ではない。理解し得ぬ孤独に堪えるのも愛情。愛情があれば、その孤独に堪えられるし、また相手の孤独を理解し得る

・恋愛の燃え上がりの時期において、「あなたでなければ」と言いながら、実は女でありさえすればいい。それは、恋を恋しているから。しかし、恋の手順を踏んで、最後に肉体的交渉を得ると、その時はじめて、相手は女性一般ではなく、特定の個性に転化しはじめる

・自分の家庭の幸福のために他を顧みない場合ですら、浅薄な慈善家よりは、愛と信頼に生きている

・快楽というものをつきつめていくと、どうしてもその極限には、相手を自己の欲望充足手段としか見なさぬ生き方に辿りつく

・ユートピアの世界では、私たちは孤独になるばかり。それは、一口に言えば、摩擦のない清潔な貧しさというものである

・「不幸」というのは、「快楽」が欠けていることであり、「快楽」でないことにすぎない。私たちは、その意味の「不幸」のうちにあっても、なおかつ幸福でありうる。真の意味の幸福とはそういうもの

・究極において、人は孤独である。実は孤独を見極めた人だけが、愛したり愛されたりする資格を身につけ得たと言える



幸福とは「不幸でないこと」だと思っていましたが、著者の考える幸福とは、「不幸にたえる術」というものです。

世の幸福論とは、似ても似つかぬ、厳しく冷たいものですが、著者の考え方が、本質を捉えているように思います。

幸福について、深く考えたい人にはおすすめの書です。あまり、考えたくない人は読まないほうがいいかもしれません。
[ 2010/04/06 06:40 ] 福田恒存・本 | TB(0) | CM(0)

『日本への遺言-福田恒存語録』

日本への遺言―福田恒存語録 (文春文庫)日本への遺言―福田恒存語録 (文春文庫)
(1998/04)
福田 恒存

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福田恆存氏がなくなって、すでに15年経ちました。最近は、著者のことを知っている人が少なくなったように感じます。

福田恆存氏は、文芸評論家、政治評論家、エッセイスト、翻訳家、劇作家、劇団主宰者などの多面的な活躍をされた人です。知の巨人であり、慧眼の師であり、もっと評価されて然るべきの人だと思っています。

この本は、福田氏の作品を編集したものですが、どの頁を読んでも、哲学書のように感じます。その深い洞察力に感銘します。

この本の中で、世の本質、人間の性質を新たに学べた箇所が、30ほどありました。「本の一部」ですが、紹介したいと思います。



・自由によって、人は決して幸福になりえない。自由が内に向かうと孤独になり、外に求めれば、特権階級への昇格を目指さざるをえない

・日本の進歩主義者は、進歩主義そのもののうちに、そして自分自身のうちに、最も悪質なファシストや犯罪者におけるのと全く同質の悪が潜んでいることを自覚していない。人間の本質が二律背反にあることに、彼らは思いいたらない

・正義と過失、愛他と自愛、建設と破壊が同じ一つのエネルギーであることを理解していない。正義感、博愛主義、建設意思、それらすべてが、その反対の悪をすっかり消毒し払拭しさった後の善意と思い込んでいる

・罪や悪は、私たちが思っているほど、善良な市民生活から遠いところにあるものではない。ただ、私たちが、そのわなに陥らないのは「小心」のためであり、機会がないためである

・寛容という言葉は、使用者がそう思っているのと相反して、道徳や精神とは全く無関係のものである。ただ厭な相手に我慢し、それが滅びるのを待つという戦術用語に過ぎない

・民主主義というのは論争の政治である。それを「話合い」の政治などと微温化するところに、日本人の人の好さ、事なかれ主義、生ぬるさ、そして偽善がある

言葉の本質は意の伝達にあるのではない。そもそも意の伝達などということがあり得るのか。癌の痛みを他人に移せるかどうか考えてみるがいい。呻きは同情を誘うことができるとしても、同じ痛みを与えることはできない

・過去を限定することは、そのまま未来を限定することを意味する。愚かしい過去からの脱出と、輝かしい未来に対する期待というヒューマニズムの看板を掲げることによって、我々から過去のみならず未来をも奪い去ろうとしている

・民衆は心理的に動く。文化人は論理的にものを考える。だから、論理的に割り切って進めぬ民衆が、文化人の眼には愚昧と見え、民衆の迷いを文化や学問で救いあげてやろうという、とんでもない仏心をだす

・反権力的抵抗者としての知識階級は、自分達の敵とする権力者もまた知識階級であることを忘れている

・論理の面からは不合理であっても、心理的には合理的であるという例が、この日本にははなはだ多い

・世の中には危機感を食い物にする人種がいる。新聞雑誌ジャーナリズムを始め、それに依存している知識人がそれである

・われわれが敵として何を選んだかによって、そしてそれといかに闘うかによって、はじめて自己は表現せられる

・教育において可能なのは、知識と技術の伝達あるのみ。「教育好き」はそれ以上の欲望を起こす。つまり、相手の人間を造ってやろうとするが、どうしてそんなことが教師に可能か

・アランは「教育論」で訓練を重要視している。訓練とは子供が厭がることを強制することであり、子供の意識に媚びぬことである

・自分というものの扱いにくさは、それを表現することの難しさにあるのではなく、それを隠すことの難しさに拠るものである

・縦ばかりではなく、横の距離を保とうとする心の働きが敬語の主要な機能である。敬語によって冷酷に相手をしりぞけ、突き放すことができる。日本人に稀薄と言われる「自我意識」「自他対立の意識」が確立できる

・日本人、あるいはアジア民族は、物質的経済条件に支配されやすい民族であって、精神主義というものが、この国に根づいたためしは一度もない

・態度は現実的であり、本質は理想主義であり、明らかに理想を持っているというのが、人間の本当の生き方

・自然と歴史と言葉、この三者は知識としては教育の対象ではあるが、それ以上の教師であることを忘れてはならない

・遊びを「道」にしてしまわなければ、安心して遊んでいられない何かが日本人にはある。あるいは何かが欠けている。欠けていると見れば、そこに貧しさが窺われてくる

・上の者は下の者の面倒を見、下の者の過失を庇うべきというのは、封建的な縦の人間関係に基づく考え方と言える

・一家の仲間うちの争いを嫌う日本人は、仲間そとに対して、その逆に出る。仲間うちのごたごたに耐えられなくて、その結果、外に向かうということもあり得る

・便利は暇を生むと同時に、その暇を食い潰すものをも生む

・人間のうちには、善意と悪意の二つの心の働きがあるのではなく、ただ生きたいという一つの心の働きがある

・私たちが堪えられないのは、受苦そのものではなく、無意味な受苦、偶然の受苦、とばっちりの受苦、自分の本質にとって必然でない受苦、それが堪えられないのだ

エゴイスティックな人間は信用しないと言う人のほうが危険。なぜなら、自分のエゴイズムに気づいていないから。エゴイストが真に危険であるのは、自分のエゴイズムに気づいていないとき

・シェイクスピアから私たちが受け取るものは、作者の精神でもなければ、主人公の主張でもない。シャイクスピアは何かを与えようとしているのではなく、ひとつの世界に招きいれようとしている

・人間は生きることの平凡さに疲れきっている。だから幸福ではなく、ただ変化を、それのみの理由によって、求めたがる。はなはだしきは、万人の幸福が、自分の目的だと思ったりする

・道徳の根本は自己犠牲という観念をおいて他にない。自己犠牲も観念なら、利己心も観念、そして道徳も観念である。言い換えれば、すべては言葉に過ぎない。あるいは夢だと言ってもいい

・私たちは他人と接触する場合、何より自分の美意識と感覚とを頼りにしなければならない。同時に、自分が他人の眼に、その外形を通じてしか受け入れられないということも覚悟していなければならない

・日本では仏教は貴族の狭い世界に閉じ込められ、その中で美的に作用し、儒教のように広く教育的な効果を持ち得なかった。仏教の方が儒教よりも、はるかに深い世界認識を持ち、純粋度が高いので、容易に政治や教育に利用されにくかったということ

・フィクションは芸術の特権ではない。人生や現実も、自然や歴史も、すべてがフィクションである。人生観なしに人生は存在し得ない。どんな人間でもその人なりの人生観を持っており、それを杖にして人生を生きている



少し難しい表現も多いですが、じっくり読めば、深い味わいを感じる文章ばかりです。本当の意味の賢さに近づきたい方には、おすすめです。

薬にも毒にもなる書ですが、自分を大きくしていくのに必要な書ではないでしょうか。
[ 2010/03/19 09:10 ] 福田恒存・本 | TB(0) | CM(0)