福田恆存氏がなくなって、すでに15年経ちました。最近は、著者のことを知っている人が少なくなったように感じます。
福田恆存氏は、文芸評論家、政治評論家、エッセイスト、翻訳家、劇作家、劇団主宰者などの多面的な活躍をされた人です。
知の巨人であり、
慧眼の師であり、もっと評価されて然るべきの人だと思っています。
この本は、福田氏の作品を編集したものですが、どの頁を読んでも、哲学書のように感じます。その深い洞察力に感銘します。
この本の中で、世の本質、人間の性質を新たに学べた箇所が、30ほどありました。「本の一部」ですが、紹介したいと思います。
・自由によって、人は決して幸福になりえない。自由が内に向かうと孤独になり、外に求めれば、特権階級への昇格を目指さざるをえない
・日本の進歩主義者は、進歩主義そのもののうちに、そして自分自身のうちに、最も悪質なファシストや犯罪者におけるのと全く同質の悪が潜んでいることを自覚していない。人間の本質が
二律背反にあることに、彼らは思いいたらない
・正義と過失、愛他と自愛、建設と破壊が同じ一つのエネルギーであることを理解していない。正義感、博愛主義、建設意思、それらすべてが、その反対の悪をすっかり消毒し払拭しさった後の善意と思い込んでいる
・罪や悪は、私たちが思っているほど、善良な市民生活から遠いところにあるものではない。ただ、私たちが、そのわなに陥らないのは「小心」のためであり、機会がないためである
・寛容という言葉は、使用者がそう思っているのと相反して、道徳や精神とは全く無関係のものである。ただ厭な相手に我慢し、それが滅びるのを待つという
戦術用語に過ぎない
・民主主義というのは
論争の政治である。それを「話合い」の政治などと微温化するところに、日本人の人の好さ、事なかれ主義、生ぬるさ、そして偽善がある
・
言葉の本質は意の伝達にあるのではない。そもそも意の伝達などということがあり得るのか。癌の痛みを他人に移せるかどうか考えてみるがいい。呻きは同情を誘うことができるとしても、同じ痛みを与えることはできない
・過去を限定することは、そのまま未来を限定することを意味する。愚かしい過去からの脱出と、
輝かしい未来に対する期待というヒューマニズムの看板を掲げることによって、我々から過去のみならず未来をも奪い去ろうとしている
・民衆は心理的に動く。文化人は論理的にものを考える。だから、論理的に割り切って進めぬ民衆が、文化人の眼には
愚昧と見え、民衆の迷いを文化や学問で救いあげてやろうという、とんでもない
仏心をだす
・反権力的抵抗者としての知識階級は、自分達の敵とする権力者もまた
知識階級であることを忘れている
・論理の面からは不合理であっても、心理的には合理的であるという例が、この日本にははなはだ多い
・世の中には危機感を
食い物にする人種がいる。新聞雑誌ジャーナリズムを始め、それに依存している知識人がそれである
・われわれが敵として何を選んだかによって、そしてそれといかに闘うかによって、はじめて自己は表現せられる
・教育において可能なのは、知識と技術の伝達あるのみ。「
教育好き」はそれ以上の欲望を起こす。つまり、相手の人間を造ってやろうとするが、どうしてそんなことが教師に可能か
・アランは「教育論」で訓練を重要視している。訓練とは子供が厭がることを強制することであり、子供の意識に媚びぬことである
・自分というものの扱いにくさは、それを表現することの難しさにあるのではなく、それを隠すことの難しさに拠るものである
・縦ばかりではなく、横の距離を保とうとする心の働きが敬語の主要な機能である。敬語によって冷酷に相手をしりぞけ、突き放すことができる。日本人に稀薄と言われる「
自我意識」「
自他対立の意識」が確立できる
・日本人、あるいはアジア民族は、物質的
経済条件に支配されやすい民族であって、精神主義というものが、この国に根づいたためしは一度もない
・態度は現実的であり、本質は理想主義であり、明らかに理想を持っているというのが、人間の
本当の生き方・自然と歴史と言葉、この三者は知識としては教育の対象ではあるが、それ以上の教師であることを忘れてはならない
・遊びを「道」にしてしまわなければ、安心して遊んでいられない何かが日本人にはある。あるいは何かが欠けている。欠けていると見れば、そこに貧しさが窺われてくる
・上の者は下の者の面倒を見、下の者の
過失を庇うべきというのは、封建的な縦の人間関係に基づく考え方と言える
・一家の
仲間うちの争いを嫌う日本人は、
仲間そとに対して、その逆に出る。仲間うちのごたごたに耐えられなくて、その結果、外に向かうということもあり得る
・便利は暇を生むと同時に、その
暇を食い潰すものをも生む
・人間のうちには、善意と悪意の二つの心の働きがあるのではなく、ただ生きたいという一つの心の働きがある
・私たちが堪えられないのは、
受苦そのものではなく、無意味な受苦、偶然の受苦、とばっちりの受苦、自分の本質にとって必然でない受苦、それが堪えられないのだ
・
エゴイスティックな人間は信用しないと言う人のほうが危険。なぜなら、自分のエゴイズムに気づいていないから。エゴイストが真に危険であるのは、自分のエゴイズムに気づいていないとき
・シェイクスピアから私たちが受け取るものは、作者の精神でもなければ、主人公の主張でもない。シャイクスピアは何かを与えようとしているのではなく、ひとつの世界に招きいれようとしている
・人間は生きることの平凡さに疲れきっている。だから幸福ではなく、ただ変化を、それのみの理由によって、求めたがる。はなはだしきは、
万人の幸福が、自分の目的だと思ったりする
・道徳の根本は自己犠牲という観念をおいて他にない。自己犠牲も観念なら、利己心も観念、そして道徳も観念である。言い換えれば、すべては言葉に過ぎない。あるいは夢だと言ってもいい
・私たちは他人と接触する場合、何より自分の美意識と感覚とを頼りにしなければならない。同時に、自分が他人の眼に、その外形を通じてしか受け入れられないということも覚悟していなければならない
・日本では仏教は貴族の狭い世界に閉じ込められ、その中で美的に作用し、儒教のように広く教育的な効果を持ち得なかった。仏教の方が儒教よりも、はるかに
深い世界認識を持ち、
純粋度が高いので、容易に政治や教育に利用されにくかったということ
・フィクションは芸術の特権ではない。人生や現実も、自然や歴史も、すべてがフィクションである。人生観なしに人生は存在し得ない。どんな人間でもその人なりの人生観を持っており、それを杖にして人生を生きている
少し難しい表現も多いですが、じっくり読めば、深い味わいを感じる文章ばかりです。本当の意味の賢さに近づきたい方には、おすすめです。
薬にも毒にもなる書ですが、自分を大きくしていくのに必要な書ではないでしょうか。