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「・・・とは」「・・・人とは」を思索

『成功する生き方「シガーラ教誡経」の実践』アルボムッレ・スマナサーラ

成功する生き方  「シガーラ教誡経」の実践 (角川文庫)成功する生き方 「シガーラ教誡経」の実践 (角川文庫)
(2012/09/25)
アルボムッレ・スマナサーラ

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別に怪しい本ではありません。「シガーラ教誡経」とは、釈迦が、シガーラという青年にした「生き方の説法」をまとめたものです。呑気に遊んで暮らすシガーラさんへの説教(耳の痛い話)とも言えます。

著者は、本ブログに度々登場しているスリランカ上座仏教長老のアルボムッレ・スマナサーラさんです。難しい仏教の話を、わかりやすい言葉で解説してくれます。

本書の中にも、生きていく上で、大事だと思えることがたくさんありました。それらを要約して紹介させていただきます。



・仏教は、個人は自由であるという立場を厳しく保つ。たとえ間違った考えでも、自分が考えることは自由で、それは誰にも奪えない。自由は人の権利。「私の言うとおりに考えなさい」と要求しても、それは成り立たない。人は自由に考えるもの

・仏教は、自分が納得して信仰しなくては効き目がない。だから、納得したければ、いくらでも情報を与える。いくらでも説法する。その情報を、知的に、客観的に、批判的に、しっかり聞きなさいというのがやり方

・仏教は、人に命令口調で説教するよりは、対等の立場で教えるということをする。品格と理性を大事にする

・殺生しないと決めたら、何をやってもうまくいく。なぜなら、基本的に他者の生きる権利を認めているから

・人の財産は人のもので、自分のものではない。だから、人の財産を奪う権利はない。「盗まない」と決めた人は、他人の財産を認めているから、成功する。税金をごまかしたら、罪がものすごく大きいのは、それが国民の財産だから

・自分がルールを破ると、他人も自分に対してルール違反をする。そうすると、すごく不幸になる。遊ぶならば、ルールの中で遊ぶこと

・ウソは相手の信頼をふみにじる行為だから、どんな小さなウソでも汚れている

・怒りの感情で、判断したり、行為をしたりしてはいけない。もし、怒りがこみ上げてきたら、その感情が消えるまで、何も考えず、喋らず、動かず、凍ってしまったほうがよい。怒りの感情が割り込むと、どんな行為でも悪行為となって、悪い結果を生み出す

・恐れに襲われると、正しい判断ができなくなる。他人に脅かされると、言われることは何でもやってしまう。恐怖を感じる精神は弱い。日常生活を正常に行えなくなる

・酒に耽ること、夜遊びに耽ること、集まりごとに耽ること、賭け事に耽ること、悪友と仲良くすること、怠けが身につくこと、これらは、財産が消える6つの落とし穴

酒に耽ると、「お金がなくなる」「喧嘩を拡大する」「万病のもと」「名誉を損なう」「隠すべきところを露出する」「理性がなくなる」。酒に酔う習慣が身につくと、道徳を守ることや人格向上に無関心になる。智恵の完成と解脱を推薦する仏教において、酒は仇敵

・耽ると危ない集まりごとには、「踊り」「歌」「演奏会」「話芸・漫才」「手品」「打楽器演奏」の6種類がある。それらの「追っかけ」は財産が消える落とし穴

・釈迦は、「親しくつきあうとお金が消えて困る悪友」として、「賭博者」「道楽者」「大酒飲み」「詐欺師」「だまし屋」「乱暴・凶暴な人」の6種類を挙げている

・善友の皮をかぶったニセモノは、「持ち逃げ屋」「口先だけの友だち」「おだて屋」「悪いことをするときだけの友だち」なので、それを見抜かなくてはいけない

おだて屋とは、「悪いことをしようとしても、善いことをしようとしても賛成する」「会っているときは、すごく誉めてくれる」「他人のところで、こちらの悪口を言う」のが特色

・本物の善友とは、「兄のような友だち」(ダメなとき、危険なときに助けてくれる)、「双子のような友だち」(秘密を守り、決して見捨てない)、「先輩のような友だち」(悪い事をさせない、善い事をやらせる)、「姉のような友だち」(成功を一緒になって喜んでくれる)

・リーダーになるためには、四つの貢献(四摂事)、「分かちあう(布施)」「優しい言葉を語る(愛語)」「世の中のみんなに役立つことをする(利行)」「どんなときでも平等な気持ちでいる(同事)」をすること、行うこと



本書は、釈迦が青年のために、生活態度を改めれば、成功できると説いた実践的なものです。当たり前のことが、当たり前のように書かれています。

こうすれば成功できるというより、こうしなければ失敗しないといったものです。前途ある若者が、失敗しないように見守る、釈迦の温かい眼差しを感じる書ではないでしょうか。


[ 2013/04/05 07:02 ] スマナサーラ・本 | TB(0) | CM(0)

『怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉』アルボムッレ・スマナサーラ

怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉 (サンガ新書)怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉 (サンガ新書)
(2006/07/18)
アルボムッレ スマナサーラ

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スマナサーラさんの著書を紹介するのは、これで7冊目になります。前回、「怒らないこと2」を紹介しましたので、今回は、遡っての紹介となります。

スマナサーラさんは、本書にて、怒りが災いを及ぼす理由と怒りのメカニズムについて詳しく論じられており、怒りを全面否定されています。勉強になった点が多々ありました。その中の一部ですが、紹介させていただきます。



・「退屈だ」「嫌だ」などの感情があるとき、心に怒りがある。「ああ楽しい」「幸せだなあ」「わくわくしている」というときには、怒りはない。このように、「怒り」を、自分の心に生まれる感情として把握すること

・ドーサ(暗い)が強くなると、ヴェーラ(怒り)に。バーリ語の怒りの言葉は他にもある。ウバナーヒー(怨み)マッキー(軽視)パラーシー(張り合う)イッスキー(嫉妬)マッチェリー(ケチ)ドゥッバチャ(反抗)クックッチャ(後悔)ビャーバータ(激怒)

・愛情を「神」、憎しみや嫉妬や怒りを「悪魔」のように、感情を人格化すると、自分の心を見ることを避けてしまう。仏教では、「人間の感情を人格化しないように気をつけて、科学的に分析しなさい」と教える

・人間というのは、いつでも「私は正しい。相手は間違っている」と思っている。それで、怒る。「相手が正しい」と思ったら、怒ることはない

・「私は正しいとは言えない。私は不完全だ。間違いだらけだ」ということが、心に入ると、その人は二度と怒らない

・精一杯努力するのは、別に悪いことではなく、むしろ良いこと。でも、それに完全な結果を求めるのは間違っている

・だいたい暗い人は、「私をののしった。私に迷惑をかけた。私をいじめた。私に勝った。私のものを奪った」など、頭の中で考えて怨み続ける

・「私は男だ」「若いのだ」「中年だ」「私は社長だ」「部長だ」。よく考えてみれば、全部大したことはない。社長だから、何なのか?そもそも「私は何々だから」と思うところから、世の中のすべての問題が生まれる

・人間は誰しも、心のどこかに「あの人は悪人だから、死んで当然」という考えを持っている。そういう理屈に従うなら、人類はいなくなってしまう。逆に、完璧な善人は、どうかと考えると、これもいない

・怒りは、人の幸福と生きがいを奪う。他人から奪っても、自分が幸福になれるわけではない。自分の苦しみを他人に巻き込んでいるだけ。だから、怒ることは、性質の悪い泥棒

・世の中で、怒る人ほど頭の悪い人はない。怒っているときの自分を観察すればわかる。そのときは、智慧も湧いてこないし、明るさもないし、適切な判断もできない。その状態は、動物以下。知識や能力、才能ある人間になりたいのなら、怒ってはいけない

・釈迦は「怒りと高慢の両方を捨てろ」と言っている。エゴを持っているから怒る。だから、「怒りと一緒にエゴを捨てろ」と言う

・怒りを治める上で、一番大事なことは「自分を観る」、ただそれだけ

・「負けず嫌い」は二種類ある。一つは、エゴとプライドで、「他人に負けたくない。負けるのは嫌だ」の気持ち。もう一つは、正しい「負けず嫌い」で、「自分に負けてたまるか」の気持ち。自分の怠け心のせいで負けたのを恥じて、戒めているのは、エゴではない

・議論をしたがる人がやってきたら、「気持ちではなく、何が問題なのか、なぜ問題なのか、そのポイントだけ話して」と言い、しばらくたって「そういう場合、こうではないかな」と言えば、納得してもらえる。つまり、相手の怒りを乗り越えること。怒ったら負け

・「笑って幸福になる」と「幸福だから笑う」の笑いは、全く違う。「私は幸福だ。お金もある。だから満足して笑っている」という人は、ひどい目にあうことが多い。なぜなら、さらなる幸福を目指すことを止めた時点で、怠けてしまうから

・笑いは強者の証明で、怒りは敗北者の烙印。怒るのは失敗を選ぶ愚か者。智慧ある人は迷わず笑う道を選ぶ

・相手の怒りを引き受けて、気落ちする必要は全くない。その人は、自分のからだに溜まったゴミを外に出しているわけだから、わざわざ、自分がゴミ箱になる必要はない



怒らないようにする、怒りを心から一掃する、相手の怒りも上手に避ける。本書を読めば、怒りは、自他ともに近寄らないのが得策のようです。

怒りが汚染物質であることを認識し、汚染されないように、汚染しないように、自らを見張っておく必要がありそうです。


[ 2012/11/14 07:01 ] スマナサーラ・本 | TB(0) | CM(0)

『怒らないこと2―役立つ初期仏教法話〈11〉』アルボムッレ・スマナサーラ

怒らないこと 2―役立つ初期仏教法話〈11〉 (サンガ新書)怒らないこと 2―役立つ初期仏教法話〈11〉 (サンガ新書)
(2010/07/29)
アルボムッレ・スマナサーラ

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著者の本を紹介するのは、これで5冊目になります。アルボムッレ・スマナサーラ氏はスリランカ仏教界の長老で、釈迦の教えに忠実な初期仏教の伝道をされています。最近は、出す本がベストセラーになるほど人気が高くなってきています。

本書は、「役立つ初期仏教法話」シリーズの11冊目になり、1冊目の「怒らないこと」の続編になります。著者の話は、仏教の原点を知ることができ、参考になる点が多々あります。「本の一部」ですが、紹介させていただきます。



・もし、「苦は楽しい」と思ったら、死んでしまう。だから、「苦は嫌だ」と思わないと生きていられない。この「嫌だ」という反応が「怒り」。つまり、怒りを持たずに生きることはできない

・生きる道は二つある。世間が歩む道と、釈迦の語る出世間の道。世間の道は怒りが増える、苦しみが増える道。私たちは、がんばればがんばるほど、怒りが増えていく道を歩んでいる

・「苦」を感じると「怒り」が起こるが、そのとき、「こうなってほしい」と希望する。この「ほしい」に焦点の当たった感情が「欲」。例えば、「何でお金がないんだ」と思っている間は怒りの感情。それが、「大金持ちになりたい」と先を意識すると、「欲」になる

・「苦」にばかり注意が向く人には、怒りが多くなる。対して、「楽」ばかりに注意が向く人は、欲が多くなる

・「怒りでやることは、何でも失敗する」。だから、「怒らないこと」が大事。怒りの結果は、必ず悪く、不幸になる

・自分が怒っているかどうかは、嫌な気分が少しでもあるかないかでわかる。「何だか楽しくない」「つまらない」「退屈だ」「嫌だ」などの感情が少しでもあれば、怒りが入っていることになる

・怒りが度を超えると、ただでさえ理屈の合わない感情の部分が大暴走する。怒りの破壊力は大変危険。自分も他人も破壊してしまう

・自分と相手を比較して、軽視する場合は、相手の方がレベルはちょっと上。それが我慢できない。軽視しようとしても、軽視できなくなったら、気分が悪くなり、強烈な怒りがこみ上げてくる

・後悔とは、失敗を思い出すこと。後悔の気持ちにとらわれた瞬間に行動は止まる。何もできないまま、ひどく嫌な気分のまま、成長が止まる

・「怒りを観察する」ということは、「怒りと戦うなよ」ということ。「怒りをなくしてやるぞ」と思ってはいけない

・我々は「自我」という身動きできない鎧兜で身を固めている。鎧をつけた時点で、周りはみんな敵だらけ

・世間では「感謝しよう」と言うけれど、自我というものを理解しないまま、そんなことを言われてもピンとこない。しかし、「そうか。みんなエゴイストなんだ」と正しく知れば、「それでもやってくれるのはありがたい」と自然に思える

・何かを欲しいと思ったときに、「必要」と「欲しい」の差を見極めて、必要以上に取らないようにする。それが正しい謙虚な態度

・「完全」という先入観があるゆえに、「許す」という言葉ができた。存在は不完全なものと理解できれば、「許す」という単語さえ消える

・喜びこそが「生きることは苦」という現実を緩和してくれる。何をやる上でも、喜び、充実感を感じること。達成感を感じること

・自我が成り立たない、幻覚であると発見すると、第一番目の覚り「預流果(よるか)」に達する。エゴイストでなくなったら、もう、その時点でかなり怒りがなくなる

・怒りを完全に克服したということは、すべての煩悩がなくなって、完全な智慧が現れたということ

慈しみが人生論になったら、怒りはどんどん弱くなって、ついには出てこなくなる。本性をつぶせば立派な人間になっていく



うすうす感じていましたが、怒りこそエゴの現れであることが、この書を読み、はっきりわかりました。

怒りを克服しようとするのは、難しいものです。しかし、自分を絶えず見張って、怒りに近寄らないで生きていけるようにしたいものです。

[ 2012/03/02 07:07 ] スマナサーラ・本 | TB(0) | CM(0)

『死後はどうなるの?』アルボムッレ・スマナサーラ

死後はどうなるの?死後はどうなるの?
(2005/10)
アルボムッレ スマナサーラ

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アルボムッレ・スマナサーラ氏の本を紹介するのは、「やさしいって、どういうこと?」に次ぎ、これで6冊目になります。

著者は、ブッダの教えを忠実に守る、初期仏教の長老です。本来の仏教を学ぶのに、非常にためになります。

私のような人が多いのか、最近、スマナサーラ氏の出版する本が、書店の売れ筋ランキングの上位に登場するようになってきました。

この本は、スマナサーラ氏の著作の中でも、かなり難解な部類に入ると思います。お盆を迎える季節にあたり、ブッダが説く仏教では、死後をどう考えているのかを知りたくて、時間をかけて読みました。

参考になった箇所が30ほどありました。「本の一部」ですが、紹介したいと思います。



死後の世界は、あるとも言えないし、ないとも言えない。明確に言うと、亡くなったら、そのあと、命が続くのか、続かないのか、わからないということ

・死後があろうがなかろうが、「どのように生きているか?自分の人生にどのくらいの点数をつけられるか?」ということ。このポイントさえ気をつけていれば、死後の世界があっても、なくても心配無用

・仏教では、よく仕事をするとか、家族の面倒をみているか云々とは、違う観点で評価をする。生き方について、どういう態度を持っているか、つまり、「心の持ち方」を問題にする

・どんな宗教も死後の世界を認めている。ただ、「死にたくない」という人間の希望を、「死んでも生まれ変わる」という願望で置き換えただけのこと

・仏教は輪廻転生を信じる人だけが対象ということでもない。自分の人生を体験すると、「すべては苦である」とわかる。それが理解できれば、最終的に涅槃を得られるから、輪廻を証明することに、それほど力を入れていない

・瞑想によって、集中力を育てることで、自分の過去世を見る能力がつく。しかし、その過去世は逃げ出したくなるほど恐怖に満ちていることがわかる。本当のところ、過去世とは、絶対に見たくないほど怖いもの

・私たちは、さまざまな失敗をして、ひどい目にあって、無始なる過去から輪廻してきた。どこから輪廻してきたのか調べてもキリがない。釈迦も「輪廻に始め無し」と言っている

・私たちの感情は生滅変化している。つまり、一つの心が消えなければ、新しい心は生れてこない。妄想するときも、さまざまなことを同時に妄想することはできない

・高熱を出したり、意識不明になって、前後不覚になったら、支離滅裂なことをしゃべってしまったり、いろんな幻覚が見えたりする。そんなとき、自己コントロールできずに、くだらないことやおかしなことを考えているならば、来世が心配

・「常によいことを考える」「慈悲の心を持つ」こと。怒りや嫉妬の感情は毒であるので、明るくポジティブな考え方、生命を愛する考え方、善行為を喜ぶ考え方を習慣づけること。そうなれば、死後は怖くなく、次の生まれは心配ない

臨死体験なんてものは大したことはない。体が弱くなると、心は勝手に妄想する。いままで妄想してきた癖によって、妄想するだけ。その人が実在感を抱いている世界が、その通りの現象として現れる

・初期仏教の世界では、人が死にかけている時に、坊さんが訪ねるのはごく普通。死ぬのだから、最後の心の状態を清らかな立派な状態にしてあげようとする。最後にできる親孝行とは、親が亡くなってから、天界やよい境遇に生まれ変われるように計ってあげること

・「立派な身体」をつくろうとしても、来世のために役に立たない。「立派な心」をつくることが一番大事。年をとれば醜くなってしまうので、いつでも明るく、素晴らしい、上品な、品格のある心を持たなければならない

・「生きていてよかった」ではなく、「生きていたことによって、さまざまな素晴らしい善行為ができました」「立派な人間として生きることができました」と、そういう満足感で亡くなったら、善いところに行く

・知識に優れていても、あり余る財産を持っていても、心が汚れているならば、その人の人生は何の価値もない。清らかな心を作ることこそ、生命にとって唯一の財産になる

・人が行っているすべての行為は、ただ生きるためか、生きることを楽しむためか、に限られる。死ぬ時、これらは何の意味もない。生きるため、楽しむためという目的を超えて、人は清らかな心を作るため、人格を向上させるために善行為を行うべき

・人間は堕落の道を自然に歩むようにできている。成長する道は努力によってのみ成り立つ。精進することによってのみ、幸福は成り立つ

・成仏とは、成仏していない霊を納得させて、次の生をはっきりさせてあげるだけのこと。そこから、善いところに生まれ変わるためには、本人が徳を積んでおかなければいけない

・人間として一番素晴らしい喜びは、自分の子供たちが、世の中で立派に生きていること。回向とは、これと似た働き。遺族が故人の供養のために、善行為をして、功徳を積み、清らかな心を持つと、故人は喜ぶ。すると、故人に清らかな心の波動が生まれる

・自分自身が精神的に徳を積んで、清らかな波動をつくって、その波動の影響をほかの生命に与えてあげるのが、本当の供養のシステム

・もし、自分が先に死んでしまっても、布施を受けた人が生きている限り、徳を積んでいることになる。そういう業(カルマ)の法則がある

・善行為の功徳を先祖に回向して供養してあげると、その生命は大変幸福になるから、向こうからすればありがたくてしょうがない。だから、善い波動で私たちをきちんと守ってくれる。災難からも守ってくれる

・怖れを抱き、心配することで、暗い波動がさっさととりつく。それで不幸になってしまう。心の波動は効く

・輪廻転生するのだから、不道徳な生き方ほど危険なことはないと、気づくことができれば、善い人間になることが優先される。自分の境遇に不平不満を言っている暇があれば、明るい気持ちで努力すればいいこと

・どうして私はこんなに不幸なのかと、みじめに思い悩む必要もない。今の自分なんか、どうせ変わるもの。どん底からでも、どこまでも人格向上が可能になる

・仏教用語の十悪とは、「1.生命を殺す」「2.盗む」「3.邪な行為をする」「4.嘘をつく」「5.怒鳴って侮辱する」「6.陰口、中傷を言う」「7.ムダ話をする」「8.異常な欲を持つ」「9異常に怒る」「10.邪見する」こと。これらの反対が十善

・人間はどうしても罪を犯す。努めるべきは、罪を繰り返さないこと。懺悔すること、犯した罪よりたくさん善行為することによって、犯した罪が弱くなる

・人生の後半であっても生き方を改めれば、次の生まれがうまくいくと、仏教は強調する

・餓鬼の影響、幽霊の影響、先祖の影響で、不幸になるという話は、日本でよく聞く。それは、つまり、影響を受けるほど、自分が精神的に弱い、情けないということ

・三宝(仏法僧)に帰依しますと心から念じれば、ものすごく明るい心になる。勝負事で、負けっぱなしのときに三帰依すると、いきなり勝ってしまう。効果のあるお守りにもなる

・病人の意識がはっきりしなくても、「生きとし生けるものが幸せでありますように」と耳元で唱えれば、慈悲の明るい波動によって、暗い想念が打ち消される




死後の世界は、あるか、ないか、わかりませんが、あると考えたほうが、世の中も、自分も上手くいくように思います。

しかも、先祖への最高の供養は、自分が現世で善い行為を行うことと考えれば、世の中がどんどん平和になっていくのではないでしょうか。輪廻転生はあるものとして、考えないといけないのかもしれません。
[ 2011/08/12 07:14 ] スマナサーラ・本 | TB(0) | CM(0)

『「やさしい」って、どういうこと?』アルボムッレ・スマナサーラ

「やさしい」って、どういうこと?「やさしい」って、どういうこと?
(2007/09)
アルボムッレ スマナサーラ

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著者のアルボムッレ・スマナサーラ氏の本を紹介するのは、「ブッダの幸福論」など、これで5冊目になります。

いつも、わかりやすくて、心温まる仏教の講義に魅了されています。釈迦の教えを忠実に守る原始仏教は、仏教の原点なので、共感できるところが多々あります。

この本でも、ハッとさせられた箇所が20ほどありました。「本の一部」ですが、紹介したいと思います。



・「こんな世界は嫌だ」と引きこもるのは、自分のエゴの型が世間と合わないことに我慢できないから。引きこもりは他人事ではない。私たちが何かのグループに所属しているのも引きこもり。「他人と違うんだ」とバリアを張って、似た者同士の群れに引きこもっている

群れることは引きこもること。同時に、群れ以外のすべての人間を排除すること

・人間は「やさしくしてほしい」だけ。自分の希望をかなえてくれるのが一番。他人のために骨を折るのは避けたい。できれば、そういうものは無視したい

・ボランティアをすることで、「人を助けてあげた」「有意義なことをしている」という精神的な見返りを得ている。それは大変な心の栄養。ボランティアで働く人がいきいきしているのはこのため

・世間のやさしさはエゴ。自分に都合がよければやさしくて、都合が悪ければやさしくないということ。それだけのことなのに、「やさしいから良い」「やさしくないから悪い」と信じて疑わない

・人間には、いろんな「刺激」が必要。眼から耳から鼻から舌から身体から入ってくる刺激が必要。その刺激は、他の生命からもらわないとうまくいかない

・自分に心地よい刺激を与えてくれる人はとてもやさしい。自分が生きていくのに欠かせない、とてもありがたい人。やさしさという刺激は、私たちの命。だから誰かと仲良くして、しゃべったりする関係ができあがる

・他人にやさしさを求めることは、自分の要求を満たしてくれと、他人に頼むこと。つまり、やさしさは、他人を自分のために使用すること

・エゴが強い凶暴な人は、自分のために他人をとことん支配する。支配者側は搾取し、支配される側は搾取される。少数が満足してやさしさを味わうのと引き換えに、大勢の人々が苦しむ。やさしさを求めるあまり、弱肉強食の世界になってしまっている

・自分は、独立して存在しているのではない。生命のネットワークの中の一項目、一つの中継点。生命のネットワークの一員である一個の生命は、他の生命と正しい関係を維持しなければならない

・「やさしくいる」ことは、そんなに難しいことではない。自我を張らず、余計なことを考えないで、自然の流れで生きていれば、その人はやさしい。誰にも迷惑をかけない。誰も損をしない。弱肉強食ではなく共存主義。これが「あるべきやさしさ」

・ネットワークが自然で、無理がないと、社会はうまく成り立つ。それぞれが自分の仕事をすればいい、それだけの話。そこに「欲しい」という欲が割り込むと、ネットワークがダメージを受ける

・現代人は誰も「必要」と「欲しい」をきちんと区別していない。必要のレベルを軽々と超えて、「もっと欲しい」というところまでいってしまう。むしろ「欲しい」だけで生きている。「欲しい」という欲の感情に振り回されている

・生命のネットワークの中で、「もっと、もっと」ということは成り立たない。初めからそんな自由はない。自分がいるネットワークのパーツとして振る舞わないと、ネットワークには迷惑な存在になる

・「これはこの人がすべき仕事だ」ということはない。どうやって能率、効率よくするのかを考えて、そのときに上手くできる人がさっさと動くだけでいい

本当のやさしさは、自然のネットワークの中で、空気のごとく、水のごとく、「私がない」状態でいること

・生命のネットワークでは、生命を殺してはいけない。いじめてはいけない。侮辱してはいけない。自分を含めたあらゆる生命がネットワークの部品だから、当然のこと

エゴがない人は、「私がやってやるぞ」の「私」というエゴがない。だから、常に客観的な立場で、「この仕事は誰がやると一番いいか」ということを知っている

・まわりの生命も、「幸福になりたい」「悩み苦しみは嫌だ」「努力は実ってほしい」と願っている

・自分が競争で負けた相手にも別に何の引っかかりもない人は人間を超越している。釈迦は「その人はとっくに神になっている」と言う。西洋では神に願ったり、恐れたりするが、仏教では、いとも簡単に「神になっている」と言う

・成功する人は、自分のことを我がことのように喜んでくれる人を、とても大事にする。彼らは社会で成功していて、人に恵みを与える能力があるので、真っ先に、他人の成功を我がことのように喜べる人に、恵みを与える



この本は、本当の意味のやさしさを知る上で、欠かせない書だと思いました。

著者が言うように、自分も生命のネットワークのパーツに過ぎないと考える癖がついてきたら、謙虚になれます。

つまり、やさしさとは、生かされているという気持ちの表れなのかもしれません。
[ 2011/04/22 08:05 ] スマナサーラ・本 | TB(0) | CM(2)

『いまここに生きる智慧』アルボムッレ・スマナサーラ、鈴木秀子

いまここに生きる智慧―シスターが長老に聞きたかったこといまここに生きる智慧―シスターが長老に聞きたかったこと
(2007/11)
アルボムッレ スマナサーラ鈴木 秀子

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スマナサーラ長老の本を紹介するのは、「ブッダの幸福論」「結局は自分のことを何もしらない」「ブッダ大人になる道」に次ぎ、今回で4冊目です。

この本は、スマナサーラ長老と鈴木秀子シスターの対談集です。「原始仏教」と「カトリック」で立場は違えども、目指しているところは同じところにあるように感じました。

この対談は、大きな視点で考えると、釈迦とキリストの対談のようなものです。お二人の対談で面白い話や考え方が20ほどありました。「本の一部」ですが、紹介したいと思います。


(スマナサーラ長老述)

・その都度その都度、やらなくてはいけないことをやりながら生きている。目的があって、その目的を目指して生きているわけではない。命が自然に流れていく

・生きることは「苦」以外、何もないからこそ、人間が「幸福」を目指す。しかし、「これが幸福です」と具体的に言えないはず

・智慧というのは、そのときにぴったり正しいことをやること

・「あなたは何者でもない」。丁寧に言えば「自我を捨てなさい」ということ。「自分は巨大な自然の法則の中の一部なのだから、偉そうなことを言うなよ」ということ

・自分の身体を実況中継していると、身体という物体を心が動かしていることが明確に見えてくる

・偉そうに命令するのは、その人の人権を侵害していること。お互いの人権侵害を増進するシステムを作ったら、関係が崩れてしまう

自分を捨てるということは宗教の世界ではよくあることで、わざとものすごい苦行をしたりするが、それはただの自己いじめ。苦行はエゴがないとできないこと

嫌いな相手であっても「相手は一生懸命頑張っている。我が身を一番可愛いと思っている生命ではないか」と観察して、自分を強く戒めると、嫌な気持ちが消えてしまう

・「金・地位・名誉・権力」などと人生の目的を調和させるには、「道具のために仕事するのではなく、仕事を上手にこなすために道具を使う」こと

・「愛・慈しみ」こそが、ものに価値を作る。慈しみがない場合は、財産などは単なる地球の土。助けてあげないといけない人がいるとき、金に価値がある

・金などの道具に支配されると、人は欲・怒り・憎しみ・嫉妬・悩み・悲しみという原動力に頼らなくてはいけなくなる。金などはみんな仲良く平和で幸福に生きるための道具に過ぎないと思うと、その人の生き方は「愛・慈しみ」に支配される


(鈴木秀子シスター述)

・自分の心の中にわっと感情が湧きおこってきたら、それをもう一人の自分が見て、実況中継するとよい

・期待を持つというのは、「いま、ここ」に生きていないで、将来を生きること。期待を消せばいい

・悩みや苦しみの多くは、過去のことを後悔して自分を責める、人のせいにして他人を責めることからくる。あるいは、起こってもいない将来を不安に思うとか、人が自分を悪く思っていないかと勘ぐることからくる

・一番幸せになるコツは、とてもシンプルで単純。たった一つ「いまこのときに、するべきことをする」こと

・人間の苦しみは、自分でないものになろうとすること。人からよく思われようとして、本音でないことを言ったり、繕ってみたりする。でも、それがかえって人から好かれなくする

・お母さんがよく子供に「あなたのためを思って言うのだから」と言って怒る。でも、それは、自分が子供にこうしてほしいという「欲」



お二人の話に共通していたことは、「今ここに生きる」「心の実況中継」「慈悲の精神」ということです。

これを優しい言葉に言い換えると、「悩まず、怒らず、ニコニコと」ということかもしれません。

この本は、生きる上で、大切なことを凝縮して学べる1冊ではないでしょうか。
[ 2010/08/08 10:30 ] スマナサーラ・本 | TB(0) | CM(0)

『ブッダ-大人になる道』アルボムッレ・スマナサーラ

ブッダ―大人になる道 (ちくまプリマー新書)ブッダ―大人になる道 (ちくまプリマー新書)
(2006/11)
アルボムッレ スマナサーラ

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日本は大乗仏教文化の国ですが、著者が生まれたスリランカは、大乗仏教ではなく、テーラワーダ仏教(上座仏教)が信仰されています。

テーラワーダ仏教は、ブッダの教えを忠実に守る仏教です。スリランカの他に、タイ、ミャンマー、ラオス、カンボジアなどがテーラワーダ仏教の国です。

ここ数年、ブッダの教えに、深い興味があったので、著者の本を何冊か読むようになりました。このブログで紹介するのは、「ブッダの幸福論」「結局は自分のことを何もしらない」に次ぎ、3冊目です。

裕福な家庭で育ったブッダの教えは、経済的に豊かなはずの日本のような国に、最も適した思想、哲学だと思うのですが、実際は、ブッダの教えと逆方向に進んでいるような感じがします。

著者の文章は、毎回参考になります。今回も「本の一部」ですが、紹介したいと思います。


・仏教とは、人が「自分のことを自分にできる」ようにしてあげて、独立する、自立する、自由になる手助けをする教えである

・人間というのは、親に依存し、友達に依存し、会社に依存し、社会に依存し、酒やタバコに依存し、ゲームや娯楽に依存し、犬猫にも依存したがり、そして神様仏様に依存する。これは惨めな生き方。「独立する」ということの意味さえも理解していない

・人にはそれぞれ自由があるから「人の役に立つ」のは難しい。生きることへの深い理解がなければ、「人の役に立つ」ことは実行できない

・「人間全員に短所と長所がある」と認めると、他人が嫌なこと、悪いことをしても、「人間は不完全だから」「まあ、いいや」となって、カンカンに怒らなくても済む。得るべきところは得て、そうでないところは放っておくという生き方になれば、結構うまくいく

・「勉強をして大人になる」というのは「不完全なところを一つ一つなくしていく」こと。それが人間の正しい生き方。短所、欠点、至らないことを直していこうとすると「誰の協力を受けた方がよいか」わかってくる

・「人間には自由がある」ということは、「みなプライドを持っている」ということ。だから、世の中では、人にアドバイスしても、逆にアドバイスされてもうまくいかない。他人に言われると腹が立ってくるもの

・ブッダは「人間の行為は三つ」と言った。最も大きな行為は「考える(意)」。次に「喋る(口、語)」。そしてもう一つは「身体でいろいろなことをする(身)」。この三つに私たちの行為のすべてが入り、それ以外はない

・言葉を喋る前に考えて、考えたことを喋る。何かをする前に考えて、考えたことをする。つまり、人の考えがすべての元締め。何か考える時、その考えが「自分の役に立つか、周りの役に立つか、すべての生命に役に立つか」と注意を払わなくてはいけない

・親しい人々と別れること、嫌な人と過ごさなければいけないこと、生まれること、死んでしまうこと、年を取ること、病気になること、期待が外れること、それらは人間の普遍的な苦しみであると、ブッダは説いた

・人間は苦しんでいるから、「幸福になりたい」という夢を見ている

・人間の苦しみは、事実を認めない心の問題

・子供は大人になる過程で、教育と称して、いろいろ固定概念を叩き込まれる。そうして「知り得る能力」を失ってしまう。その後は「○○の立場」から物事を見るようになる

・「知り得る能力」を失うことは大きな損失。「知り得る能力」を取り戻すためには、「ただありのままに見る」ところに戻らなければいけない

・「心は元気に回転しているだろうか、それともガタガタと回転しているだろうか」とチェックする。心が明るく元気に回転していると気分がいい。それを「幸福」という

・「自分がいる」と思うから、喧嘩が絶えない。「もともと何もない。その時その時の反応」と解れば、自由になれる。過去のことで悩んだり、将来が不安になったりなんて、どうでもいい。今をしっかり生きればいいことが解かる

・人間が学ぶべきは心の問題。だから仏教では、「嫉妬、憎しみ、怒り、落ち込みはやめよう」「興奮することもやめよう」「集中力を育てて優しい心でいよう」と心を育てる方法を教える

・ブッダは「怒りには優しい心を返しなさい。憎しみには優しい心を返しなさい。憎んではいけない」と言う。とにかく「自分からみんなに笑顔を見せよう。怒っている人にも笑顔を見せよう」というモットーで生きれば、世界が変わっていく

・心の問題を解決したければ、「私が思う、ゆえに正しい」という考えをなくすこと。おいしい物を食べて、「これ、おいしい」と思うだけでいい。「あなた、これ、おいしいよ」という押し付けをやめること

・もし嫌われてしまったなら、嫌われている環境から別の場所に行けばいい。「自分が咲く場所」は必ずどこかにある

・「人を嫌う」ということは「自分が狭い」ということ。自分が嫌われたら、「どうぞご自由に、ご勝手に」という態度でいればいい

・人の悪いところしか見えないメガネをかけたら、一生、人生は暗い。でも、人のいいところが見えるメガネをかけると、どんなに悪い人を見ても、「この人にもこんないいところがある」と、いいところしか見えなくなる

・人の愛情はタダでは得られない。自分が仕事をして得るもの。仕事とは、自分が先に笑ってあげる、お辞儀をしてあげるなど、何か助けになることをしてあげること

・ブッダは「人間が智慧を開発するためにどうすればいいのか?」と聞かれたとき、たったひと言「質問しなさい」と答えた。人にあれこれ質問すると、いい人間関係ができるし、自分の頭の中も整理される



この本は、著者が高校で講演したものがもとになっています。したがって、わかりやすく、読みやすい内容です。

若者に身近な問題も多く取り上げられています。ブッダの教えである初期仏教に、興味を持たれた方には、入門書の1冊になるかもしれません。
[ 2010/04/23 07:36 ] スマナサーラ・本 | TB(0) | CM(0)

『結局は自分のことを何もしらない-役立つ初期仏教法話』スマナサーラ

結局は自分のことを何もしらない―役立つ初期仏教法話〈6〉 (サンガ新書)結局は自分のことを何もしらない―役立つ初期仏教法話〈6〉 (サンガ新書)
(2008/01)
アルボムッレ スマナサーラ

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スリランカ初期仏教長老で、日本で活動されているアルボムッレ・スマナサーラ氏の本を紹介するのは、「ブッダの幸福論」に次いで2冊目です。

この書は講演録ですので、わかりやすい言葉で書かれています。しかし、一言一言が哲学的な深い内容です。じっくり読んでいきたい本でもあります。

今回、役に立った話が15ほどありました。「本の一部」ですが、紹介したいと思います。



・自分のことを言われると嫌で腹が立つ。他人のことなら何の躊躇もなく、遠慮もなく、言いたくなる。この生き方を省略して表現すれば、「悪いのは私ではなく、あなたです」ということ

・目的がある場合は元気に頑張れる。嫌だと思ったり、「どうしてこんな人生なのだ」と悩むことはあまりない

・仕事がない人は、仕事がないという苦しみを、仕事を見つけることで紛らわす。でも、仕事をすれば、それはそれで仕事が苦しい。仕事がないことも苦しいし、仕事があることも苦しい。これが人生。苦しみをごまかすことが人生

・生きることは、苦を回転させて和らげること。これこそ真理、事実である

・生命は、高次元でも、低次元でも関係なく、ことごとく動く。なぜ動くのか?というと、生きることの中に苦痛というもの、「苦」が入っているから

・幸福は苦がつくってくれるもの。苦がなければ幸福はない。しかし、それは本物の幸福ではない。一つの苦を、別の苦に置き換えただけ。釈迦は「幸福も苦である」と教える

・肉体には、もともと苦がある。皆、それを知っているから動く。つまり、「苦という感覚」があると同時に、「苦しいと知っている」わけである

・「動き」とは、心が引き起こす身体の動き、物体の動き。そして「知る」ということは精神の動き。「動き」には心の動き身体の動きの二つがある

・ものごとは何でも、変わって、変わって、変わっていく。釈迦は「すべてのものごとは無常である」とこの事実を語っている。この教えは「すべてのものごとは、絶えず変化している。絶えず動いている」ということ

・生きることは「動く」こと、生きることは「知る」こと。そのベースには、「生きることは苦である」という真理がある

・認識は三種類に判別される
1.「好き」=自分の命を支えるもの。欲しいもの
2.「嫌い」=自分の命に障害、危険を与えるもの。嫌なもの
3.「面白くない」=自分の命に関係ないもの。無関心なもの

・私たちは「好き」「嫌い」「面白くない」と思ってしまうと、対象のせいにしてしまう。そして、世界は自分の思い通りにならないのに、世界を変えようとして苦しみを増やす

・苦しみをなくすことを目的に生きることが真の幸福への道である

・生きる上で大切な心がけは「慈しみ」

・釈迦がいちばん推薦する能力は、怒りをなくす能力、欲をなくす能力、嫉妬を消す能力、人を憎むことをなくす能力、敵であっても「幸せであってほしい」と思える能力。これらは心を清らかにする能力

・瞬間、瞬間に入ってくる外のデータに、「私」を入れないで、気づいて、気づいていく。「私」というのは、認知に基づいた幻覚。あるのは、瞬間、瞬間の事実。「私」を入れない気づきの先に、大いなる心の平安、幸福、悟りが開けていく



仏教法話の世界は、難解と言えば難解。平易と言えば平易。聴く人によって、如何様にもとれるものかもしれません。

ある程度、年齢や経験を重ねられた方は、その意味が理解できるのではないでしょうか。そういう方には、おすすめの1冊です。
[ 2010/02/26 07:20 ] スマナサーラ・本 | TB(0) | CM(0)

『ブッダの幸福論』アルボムッレ・スマナサーラ

ブッダの幸福論 (ちくまプリマー新書)ブッダの幸福論 (ちくまプリマー新書)
(2008/02)
アルボムッレ スマナサーラ

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著者はスリランカ仏教界の長老です。1945年生まれ、13歳で出家得度、1980年に来日。現在は、日本の仏教協会で、初期仏教の伝道と瞑想指導に従事されています。日本語の著書も数多くあります。

この著書は、ブッダが説いた真理を分かりやすくまとめています。ブッダの教えを、日本人が書くと、哲学書のようにとかく重くなりがちです。しかし、この本は読みやすくて、さっと流し読みすることもできます。

ブッダが唱えた生き方でためになった箇所が25ありました。「本の一部」ですが、紹介したいと思います。



・ブッダの教える道は、「物に依存しない生き方」「世の中の評価に依存しない生き方」

・世の中の大人たちは、一部の人がたまたま宝くじに当たったような感じで実現したことに「幸せ」と名前をつけている。それらは、私たちが目指す「生き方・生きる道」にはならない

・私たちが生きる道、幸福の境地は、どんな生命にも、どんな人間にも達することが可能なものでなければならない。それが、差別思考を捨てた「ブッダの幸福論」の基本的考え方

・世の中でもてはやすような、稀な人にしか達成できない夢が「人生の夢」になってはならない。そういう人生を目指すのではなく、自分が持っている能力をフルに生かしながら、なおかつ「幸せに生きる」ということが大事

・世の中で言う「大人になる」という言葉の意味は「楽しく生きることを早く辞めろ」ということ。「真面目に勉強しろよ」「しっかりやりなさいよ」とかライバル意識など暗い感情を煽って叩き込み、結果として、神経質で怯えた暗い人間にしてしまっている

・世界中のどんな人間であっても、人間には人間の生き方があって、それは「学ぶ」「仕事をする」「社会と関係する」という三つの行為の中に収まる

・子供がわがままを起こして、勉強はつまらないから学校に行きたくないというのは、生命の法則を破っている。魚の群れも「魚として生きるために学ぶべきこと」は、文句を言わずに学んでいる。人間も学ぶべきことは学ばなくてはいけない

・生命の関係には二種類ある。第一は「命を支えてくれる関係」、第二は「関係ないという関係」。生命はお互いの生命を支え合っている。危険な生き物は殺してしまえという発想はナンセンス。危険な関係を持たないでいる態度が必要

・自然の摂理で、ひとつの種が突出して増えてしまうと困る。なぜなら、生命は他の生命がないと成り立たないから。一種の生命だけが増えてしまうと、生命のシステムがぜんぶ壊れてしまう

・ひとつの行為には、すべての人間との関係があるとわかる人は、とても行儀のいい美しい生き方をするようになる

・人間に生まれたら、その時点で人間としての義務が成立する。私たちは、その義務を否定する権利はない。だから、いきなり「これは好き、これは嫌い」と決め付けることはできない。好き嫌いが激しい人は、社会から追い出される可能性が高く、結果として嫌われる

・「勉強なんか嫌い」という権利は誰にもない。しかし、「何を勉強するのか?」という希望は社会が聞いてくれる。その選択肢の中から選ぶ場合、自分の好き嫌いがはたらいたっていい

・「好きな仕事ができれば最高に幸せだ」と言うが、それは正しくない考え方。好きな仕事を社会がくれても、本人が上手くやれないなら幸福にはなれない。どんな仕事なら自分は満点でできるのかと考えて仕事を選ぶ必要がある

・「好きを仕事に」とよく言うが、そうではなく「できるから楽しくなる、好きになる」というのが本当。好きな仕事があとから嫌になって苦しんでいる人も結構いる。だから、「できることを仕事に」が、一番うまくいく方法

・調べても調べても、なかなか見つからないのが「生きる意味」。調べて見つからないということは、ないということ。誰も見つけていないものは、ないと思ったほうがいい

・誰一人も、生きるために、みじめな思いをする必要はない。私ができることをやっているのだと、それを自慢できればOK

・生きる意味を問う必要はない。「しっかり生きているのか?」ということが、私たちの考える問題

・戒律とは生き方のこと。戒律には五つの項目がある。仏教用語で五戒と呼ばれる
1.不殺生(生命を殺さないこと。一つ一つの生命に生きる権利がある)
2.不偸盗(盗まないこと。「一人分」で生きること)
3.不邪淫(性欲を控えること。食欲と違い、性欲は限りがない)
4.不妄語(ウソを言わないこと。騙すことは人をバカにすること)
5.不飲酒(酒を飲まないこと。酒は大切な脳を壊す)

・やってほしいことは4項目。仏教用語で四摂事という
1.布施(社会のためになることをしてあげる)
2.愛語(聞く人が喜びを感じる言葉をわかりやすく語る)
3.利他(役に立つ人間になる)
4.平等(差別しない人は尊敬される)

・自分が生きるということは、他に生かされているということ。他の生命にも何かしてあげなければいけない。それが生命の基本。仏教では、それを「愛」ではなく「慈しみ」という。「慈しみ」こそが幸福に生きるための秘訣

・「みな、幸福でよかった。それで私も幸福だよ」という慈しみの心を私たちは育てなくてはならない。それが確実に幸福になる秘訣

・慈しみだけでなく、もう一つ育てるべき心がある。不幸に出会っている人々、苦しんでいる人々を見て、その苦しみがなくなってほしい、うまくいってほしいと期待すること。仏教では、悲(カルナー)と言う

・生命は平等であるということをしっかり感じる人は、多くの人々を助けることができるし、動植物も助けてあげることができる

・死の危険というのは、人生の中で、絶えず障害として出てくる。それを何とか避けること。それが生きること

・ただ生きて、年をとって死ぬ。それだけだったら面白くない。ブッダの提案は「智慧を開発すること」。つまり心を完全にきれいにすること。ブッダは悟りに達することが、死に打ち勝つことだと説かれている



「ブッダの幸福論」は、仏教の本なのですが、日本人の仏教観と違うところが多く、新鮮な気持ちで、仏教の基本的な考え方に触れることができました。

仏教の原点を、さらっと、知りたい方にはおすすめです。

さらに、生きることに、少し悩んでいたら、この本を読めば、今だけなく、これからずっと、悩まずに生きていくことができるのではないでしょうか。
[ 2010/01/22 08:13 ] スマナサーラ・本 | TB(0) | CM(0)