とは考

「・・・とは」「・・・人とは」を思索

『下りる。』ひろさちや

下りる。下りる。
(2012/08/29)
ひろ さちや

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著書の本は、このブログで10冊ほどとり上げてきました。最近の著書は、日本や日本社会に対する警笛を鳴らすものが多いように思います。

本書も、日本人が構成している社会への疑問と訴えが主な内容です。受け止めるべき提言が数々ありました。それらの一部を要約して紹介させていただきます。



・資本主義社会というのは、みんなが無駄に浪費してくれないことには維持できない。真夏に冷房かけて、しゃぶしゃぶを食べる。真冬に暖房して、冷たいビールを飲む。それでこそ、資本主義は安泰。「もったいない」「節約しよう」なんていう発想は、資本主義の敵

・「あくせく・いらいら・がつがつ」と生きてきたのに、幸せは得られなかった。これからは、「ゆったり・のんびり・ほどほど」に生きよう。でも、幸せは得られない。ゆったり・のんびり生きられることで幸せになる

・競争が不必要だとは言っていない。競争は悪だと言っている。「必要だから善、不必要だから悪」というわけではない。日本人は、「必要悪」の考え方をなかなか理解してくれない

・日本人は、物事に関して、善か悪かの判断をすることなく、必要か不必要かの判断だけをする。しかも、必要か不必要かの判断をするのは政治・経済・社会。そこで下された判断に従うほかない。その結果、必要なものはすべて善不必要なものは悪とされる

・誰が競争を必要としているのか?それは社会や会社。社会が経済発展するために、会社が利益を得るために、無理やり人を競争させている。競争させられる個人はいい迷惑

・競争原理が支配する社会では、他人はみんな敵・ライバルになってしまうから、他人を信頼できなくなる。「この社会では、気をつけないと誰かに利用されてしまう」のアンケート結果は、フィンランド25%に対して日本は80%。日本の対人信頼度は低い

・日本ではワークシェアリングが定着しない。二人に一人しか仕事がないとき、一人を残し、もう一人をリストラする。これは、「君は熊に食われろ、俺はその間に逃げる」という考え方。競争型の社会において、成功者になろうとすれば、そのようなエゴイストになる

・「人生の問題」とは、東に進むべきか、西に進むべきか、「方向性」の問題。「生活の問題」とは、その方向に、自動車で行くか、歩いて行くか、「手段」の問題。日本人は、方向性の問題を不問にしたまま、手段の問題ばかり考えてきた。そして、大きな壁にぶつかった

・いい加減に目を覚ますこと。大事なのは、生活ではなく人生。「人生」をどう生きるべきかを、今こそ、考えるべき

・古代のエジプトでは、官僚はすべて奴隷だった。貴族を官僚にすると、王を裏切る危険がある。しかし、奴隷を官僚にすれば、彼らは王に忠実に仕えるから、王は安心できる。その伝でいけば、日本の官僚も、政治家も、サラリーマンも奴隷

・われわれには「ゆったり権」(人生をゆったり・のんびり・ほどほどに暮らす権利)があることを自覚すべき。江戸に暮らす庶民は、1日に4時間くらいしか働かなかった

・国は納税者に、納税した分だけのメリットを還元する義務がある。国が納税者に相応の利益を還元しないのであれば、さっさと政治家を取り替えればいい。われわれは、国に要求だけをしていればいい。納税の義務以外に、国に尽す義務はない

・奴隷をやめて、精神的貴族になろう。その目標のために、あれこれと工夫をすること

・資本主義経済において、一番大事なものは、「欲望の生産」。いかにして、人々に欲望を持たせるか。もし、人々が欲望を持たなくなってしまったら、たちまち資本主義経済は崩壊する

・富裕層と貧困層との間に格差が生じると、低所得者層の欲望は減退する。欲しい物があっても買えなくなる。欲望を抑制するほかない。しかも、この低所得者層は、一般に年齢の低い若者。若い人たちが、欲があっても金がないなら、どんどん景気が悪くなる

・電力の浪費によって、経済がうまく循環していた。電力が高価になると、日本経済にとって致命傷。日本の経済の特色であった「無駄・贅沢・浪費」の六文字が消える

・競争は、敗者を不幸にして、勝者を傲慢にする。勝者が敗者を見下したとき、敗者をつくる社会のシステムの支持者になるということ。すなわち、競争原理の讃美者になる

・あらゆる欲望は、放っておけば、肥大化する。そして、どんどん欲が膨らむ。だから、少なくしないといけない。それが「少欲



欲望がすっかりなくなると、私たちの社会は成り立たなくなります。しかし、今のまま、欲望を肥大化させていくと、住みにくい世の中になっていきます。

それを解決するには、若い時は、欲望を持ち、歳をとっていくとともに、欲望を少しずつ減らしていくというのが、理想的な姿です。高齢者の欲望は、はしたないという共通認識が必要なのかもしれません。そういうことを考えさせてくれる書でした。


[ 2013/05/30 07:00 ] ひろさちや・本 | TB(0) | CM(0)

『老いを生きる仏教の言葉100』ひろさちや

老いを生きる仏教の言葉100 (成美文庫)老いを生きる仏教の言葉100 (成美文庫)
(2012/07/05)
ひろ さちや

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ひろさちやさんの本は、このブログで、すでに10冊以上紹介しています。最近では、「笑って死ぬヒント」「世間の捨て方」などを採り上げました。

本書は、仏教の大切な教えを、ほぼ15文字以内で簡潔に訳され、それを解説してくれるありがたい本です。内容的には、老いを生きるというより、老いに備えるといったものです。それらの中から、お気に入りの一部を紹介させていただきます。



・「騎牛求牛/碧厳録」(答えは遠くに探さない
私たちは、「幸せ」という名の牛に乗りながら、毎日を暮らしている。その事実を忘れてはいけない。いつだって、答えはすぐそこにある

・「百花至って誰が為にか開く/碧厳録」(花の姿にわが生を学ぶ
花は誰かのために咲いているわけではない。ただ無心で咲いている

・「世間虚仮 唯仏是真/聖徳太子」(世間の声に振り回されない
世間なんてしょせん虚仮(かりそめ)のもの。世間の理屈に流されて、お金や健康に執着すると、それが不安に変わる。老後を楽しむためには、世間なんて捨てたほうがいい

・「無位の真人/臨済録」(自分を脱いで、自分になろう
自分だと思っている「自分」は、本当の自分ではない。実は、それは、世間によってつくられた「自分」。本来の自分は世間的な位など持たない自由な存在

・「放下著/従容録」(自分を空っぽにしよう)
心にある荷物は、見えないから、ついつい無理をして持ってしまう。明日の不安を解決するために抱え込んだ荷物は捨ててしまおう

・「自己をならふといふは、自己をわするるなり/道元」(世間から自分を取り戻す
私たちが知っている「自分」とは、世間によって創られた「自分」である。そんな自分なんて忘れてしまおう。その先に姿を現わすものが、あるがままの自分

・「流刑さらにうらみとすべからず/法然」(すべてチャンスと考える
75歳で流刑となった法然は、「これも地方に念仏を広めるいい機会だ」と、誰かを怨むことなく、今を生きることに徹した

・「好事も無きに如かず/碧厳録」(捨てることさえ捨ててしまう)
世間の物差しを捨て、常識を捨て、執着を捨て、「捨てよう」という意識すら捨ててしまう。そこに、どんな状況でも心安らかにいることができる境地がある

・「一切を捨離すべし/一遍」(捨てると自由がやってくる)
一切を捨離して、世の中を眺める。そこに、あるがままの世が映る

・「喫茶去/趙州録」(人生からまじめを追い出せ
趙州和尚は、僧たちが「こんなに私は頑張っているのに」と真面目に考えているのを「お茶でも飲んで、心をのびのびさせなさい。それじゃ禅は学べないよ」と教えた

・「渇愛/サンユッタ・ニカーヤ」(手を伸ばすほど心は渇く
渇愛とは、私たちの心を「もっともっと」と駆り立てる衝動。もっとお金が、もっと健康でなければ、と考えるたび、人は自由な心を失っていく

・「隻手の音声/白隠」(思い込みを心から外そう)
左右の手を打ち合せると音がするが、片手では音がしない。「片手の声を聞け」というのは、私たちがとらわれている分別や常識といったものを飛び越えてみよということ

・「牛頭を按じて草を喫せしむ/碧厳録」(押しつけの善意は迷惑だ)
満腹になっている牛の頭を押しつけて、無理やり食べさせようとしても、牛は嫌がる。同じように、いくらよかれと思っても、相手のことを考えない押しつけは迷惑にうつる

・「布施といふは不貪なり/道元」(求めないことが布施になる
自分が手に入れないことも布施であると、説いたのが道元。必要以上に求めないことが、相手に施すことになる

・「世の中は食うて稼いで寝て起きて、さてそのあとは死ぬるばかりぞ/一休」(人生の本質は単純だ)
金持ちでも、貧乏人でも、いずれはみんな死んでしまう。他人の人生なんてどうでもいい

・「門松はめいどの旅の一里塚/一休」(生まれた瞬間、死も始まる
私たちは、生まれた瞬間から、死に向かって歩いていることを、忘れてはいけない



老いを謳歌するために、どんな心がけが必要かを示したのが、先人たちの仏教の言葉です。

お金があろうとなかろうと、健康であろうとなかろうと、人と比較しないで、ただ自由な時間を楽しもうというのが、その共通した教えではないでしょうか。定年後は、くよくよ、うじうじせずに、人生の再スタートととらえることが何より大事なのかもしれません。


[ 2013/03/09 07:02 ] ひろさちや・本 | TB(0) | CM(0)

『日本仏教の創造者たち』ひろさちや

日本仏教の創造者たち (新潮選書)日本仏教の創造者たち (新潮選書)
(1994/08)
ひろ さちや

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このブログでも、過去に「仏教・東洋思想の本」を50冊近く、書評にしてきました。聖徳太子、空海、法然、親鸞、明恵、一休、白隠、良寛などをとり上げてきました。

本書に登場する「仏教の創造者」も、よく似た人物構成になっています。仏教に関わる歴史上の代表的人物の知識を得るのに役立ちます。これらの登場人物について、「本の一部」ですが、紹介させていただきます。



・「努力」をしても、その「努力」が結実せず、それが裏目に出ることさえある。そのとき、人間は自己の「無力」をまざまざと思い知らされる。そして、そのとき、人間は自分の外に絶対者・超越者をたてて、それに「祈り」を捧げる。「祈り」とは、そういうもの

・本来、仏教には努力主義的なところがある。凡夫が仏に向かって努力(修行)するのが仏教の基本構造。その意味で、仏教は、救済の宗教(キリスト教やイスラム教)ではなく、修行の宗教

・道元は、日本人流の努力主義者ではない。「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするゝなり。自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり」。自己は努力で得られる成果に執着するので、「自己を忘れる」ことを主張した

・道元の努力は、結果に執着しない努力、祈りに裏付けられた努力。つまり、宗教的な努力。今の日本人に一番必要なのは「宗教心」。努力を絶対とする生き方をやめて、人間を超えた存在を持たなければならない。そのとき、たましいの安らぎを得る

・完全にノンセンス(無意味)な「論理式」が、晩年の親鸞の思想を解く鍵となる。親鸞は、阿弥陀仏に一切合財、下駄を預けてしまった。まさに、何もかもを、阿弥陀仏にまかせてしまった

・阿弥陀仏の誓願は、言うなれば「宇宙意志」。その大きな宇宙意志に従って、人間の歴史が形成されていく。親鸞はそのように見ていた

・最澄は、本質的に真面目人間であって、自己のうちにあるマイナス要因を克服しようとする。彼は、それが仏教の修行だと考えていた。反対に、空海は、人間のうちにあるプラスの要素を引き伸ばし、発展させようとする。その意味で、空海は楽天家であった

・親鸞は他力の仏教を選び、道元は自力の仏教を選んだ。そして、二人は、それぞれが選んだ仏教の哲学を完成させた

・親鸞は、阿弥陀仏に救われている衆生の実存的状況を哲学的に教え、蓮如は、阿弥陀仏に救われている衆生がいかにすればそれを自覚できるか、その方法を教えた。親鸞は哲学者であり、蓮如は宗教家であった

・「」は、良寛において、世間と闘う武器であった。ちょうど、一休において、「」が世間と闘う武器であったように

・良寛にできることは、やがて商家やお女郎屋に売られていく子供たちと一緒に遊ぶことだけであった。その遊びを通じて、良寛は「この世は遊び人生は芝居、この世の舞台には殿様も貧乏人もいるが、芝居が終わると、みな仏の国に帰る」と村人に言って聞かせた

・法然は「阿弥陀仏に電話をかける気持ちで、『南無阿弥陀仏』のお念仏をしなさい」と教えたのだと思う

・親鸞は、生涯にわたって大きな三つの闘いをやった。「聖道門との闘い」「日本人(人間性)との闘い」「自己自身との闘い」。闘いをなし遂げたからこそ、親鸞は「自然法爾」の境地にたどりついた

・一休さんは茶目っ気の禅者。庶民の間をひょいひょいと出歩き、禅の精神を教えていた

・「およそ思想家というものは、すべて先人の思想の特異な点を採用し、その劣った点を批判した上で、各自の自説を形成するもの」。これが富永仲基の基本的な発想であり、彼の加上理論

・富永仲基は、形骸化した儒教・仏教・神道の三教を批判し、儒仏神三教の精髄は、孝悌忠恕であり、五戒十善であり、七仏通誡偈であり、清浄・質素・正直である。それらはいわば「人のあたりまえ」であり、仲基はこの基盤の上に普遍的な人間倫理を構成した

・小林一茶は、感情移入の天才だったが、ナルシズムではない。一茶の場合は、自己が「弱き存在」「憫れみの存在」と意識され、そのような自己に向かって涙した。それは「被害者意識」であった。仏にすべてまかせてしまえばいい、一茶はそのような諦観に達していた



本書には、上記以外にも、数多くの名僧高僧が登場し、貴重な言葉と、著者の見解が数多く収められています。

名僧高僧は、求道者か救済者、哲学者か宗教家に分かれます。そのどちらが気に入るかは、それぞれの人の性質、今の状況によって違います。自分に合った人物、言葉を選び出すのに、いい一冊ではないかと思います。


[ 2012/08/18 07:03 ] ひろさちや・本 | TB(0) | CM(0)

『ひろさちやの笑って死ぬヒント』

ひろさちやの笑って死ぬヒント (青春新書INTELLIGENCE)ひろさちやの笑って死ぬヒント (青春新書INTELLIGENCE)
(2010/06/02)
ひろ さちや

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ひろさちやさんの本は、このブログで、何冊も紹介してきました。今回の本のテーマは、「笑って死ぬ」ことです。

死を肯定的に考えて、どういう死を迎えるのがいいか、著者が宗教的に解説してくれます。日本人の宗教観の矛盾を明らかにし、その解決法を示してくれているので、読むと気持ちが楽になります。

なるほどと思えたポイントが数多くありました。それらを「本の一部」ですが、紹介させていただきます。



生きながらえているからこそ苦しみを感じるのであって、死ぬときは決して苦しくない

・釈迦は死後の世界の有無について一切発言していない。死後の世界について考えるなというのが釈迦の考え。これを仏教の言葉で、「無記答」「捨置記」という。釈迦が死後の世界を語らないのは、あるかないか、私たち人間がいくら考えても、分からないことだから

・自由を束縛されるのが刑罰ならば、会社はまさしく刑務所そのもの。身も心も会社に委ねているようでは、私たちは、刑務所の囚人のように生きて、囚人のように死んでいくほかない

・会社なんて牢獄の中の牢獄。でも、会社勤めをやめては食っていけなくなる。だから、牢獄に喜んで入る必要はない。渋々、いやいや入るべき

・日本人は負ける楽しみが分からないし、そんな生き方はできない。だから、健康を取り戻そうとして、必死になって、「老・病・死」に勝とうとしてしまい、悲惨で壮絶な最期を遂げてしまう

・日本人が宗教をなくしてしまった最大の責任は明治政府にある。なぜなら、明治政府は国家神道という疑似宗教をつくった結果、第二次大戦で、山のような戦死者を出し、矛盾を一気に吹き出したから。さすがに、鈍感な日本人も国家神道がインチキ宗教と気づいた

・宗教を持つ人は、安心して笑って死ぬことができる。ところが、宗教を持っていない日本人は、それができない。それで、「格好よく死にたい」などと言って、「武士道」という「美学」に逃げる

・武士というものは、本質的に暴力団と同じ。その暴力団の掟が「武士道」。家のため主君のためと、前途ある若者までも無理やり切腹させたりする。そんなものに価値はない。武士道こそが日本の教育を悪くした元凶

・遺書というのは、日記や自分史と同じく自己満足の産物に過ぎない。要するに美学。自分をよく見せたい、あるいはよく見せていると自己満足したいだけ

・刀を持っている武士という階級の人たちは、何か不祥事が起きたら、すぐ「切腹しろ」と言われた。切腹というと偉そうに聞こえるが、要するに単なる自殺

・今、自殺者の遺族は三百万人にものぼる。親が自殺したなど一言もしゃべれない。しかし、自殺でも仏さまは受け入れてくれる。自殺者の家族も「お父さんは、浄土に行った」と思えば、生前のことを語り合える。そうすることで、残された家族が幸せになる

・日本人は宗教がないから人間努力主義に陥ってしまい、しないでもいい苦労をする。あげくのはてに、美学に酔いしれて、くだらない遺書を書いて、「衰えるのは嫌だ」と意味もない自殺をしてしまう

・子供は仏さまからの預かり物。優等生を預かっている親もいれば、劣等生を預かっている親もいる。みんな優等生にしようというのはおかしい。子供が幸せになれるように願うのが親というもの

・会社や友人に対しては、仮面をかぶって生きてきたとしても、家族の中では決して虚勢を張ったり、嘘をついてはいけない。つらいことがあっても、すべてをさらけだして、のたうちまわって生きなくてはいけない。それができて、初めて、笑って死ぬことができる

・大切なのは、社会のため、企業のために生きようなどと、愚にもつかない美学を持たずに、人間として生きようとすること。たった、それだけのことで、笑って死ぬことができる



要するに、見栄を張って、良く生きようなどと思わないことが、良き死を迎えることができるということではないでしょうか。

生きているうちに、のたうちまわっていたほうが、死ぬ間際に、のたうちまわらずにすむということかもしれません。

死を考えることが、今の生を考えることにつながります。まず、ゴールを決めて生きていたいものです。
[ 2012/04/30 07:09 ] ひろさちや・本 | TB(0) | CM(1)

『「世間」の捨て方』ひろさちや

「世間」の捨て方「世間」の捨て方
(2010/01/30)
ひろ さちや

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ひろさちやさんの本は、このブログで度々とり上げてきました。もう10冊近くになっていると思います。

ひろさちやさんは、一貫して、日本の社会、日本の会社のおかしさを指摘し、それにどう向き合うかを、本来の仏教の考え方を使って、説明されてきました。本書でも、世間を捨てたほうが、悩まなくてすむと言われています。

心の中のモヤモヤを消し去ってくれる箇所が数多くあります。「本の一部」ですが、紹介させていただきます。


・「自己中心」の反対は「世間中心」。普段、私たちは「世間中心」で生きている。無意識のうちに世間を気にしている。世間に気兼ねしている

・企業の「期待」に応えるためには、場合場合に応じて、自分を変えなければならない。自分を相手に合わさなければならない。疲れてしまい、人間失格になってしまう

・明日のことすらわからないのに、偉そうに予測や予言する人間は阿呆以外の何者でもない。そんな予測や予言の数字が出てきたら、馬鹿にしてかかることが大切

・国が滅びようがどうしようが、庶民にとっては、日々の生活がすべてであって、支配者が困ろうが嘆こうが、それは別の世界の出来事

・政治家は「パブリック・サーバント」、つまり公僕。分かりやすく言えば、国民の奴隷。仕事をしない奴隷にただメシを食わせてやることはない

・間違っても、いい世の中にしようとは思わないこと。「世のため、人のため、金のため」とか言って、好きでもない仕事をしてはいけない

・金持ちというのは、本質的に軽蔑すべき存在。間違っても、金持ちを尊敬したりしないこと

・「学道の人はすべからく貧なるべし。なまじ財多くなれば、必ずその志失う」(道元)。高い志を持っていても、下手に金を持っていると成就しない。はるか昔から宗教者たちはみな、金銭欲がもたらす害毒を説いていた

・貧しければ貧しいなりの楽しみは必ずある。今からそれを探していれば、たとえ日本が滅びようが、何の心の乱れもなく、毎日を過ごしていくことができる

・大事なのは「今したくない仕事はしない」という意識。逆にダメなのは、「将来役に立ちそうだから、この仕事をする」とか、「老後を楽しむために仕事をする」など余計なことを考えて仕事をすること。そんな下らない目的意識を持つから、楽しく生きられない

・禅宗では「即今」「当処」「自己」という三つの要素を重要視する。それぞれ、「今」「ここ」「自分自身」という意味を持つ。この三つを組み合わせて、「いまここでわたしが生きている」ことがすべてだとするのが、禅の教えの核心

・私たちは、往々にして、「今」ではなく過去や将来を、「ここ」ではなくほかの場所のことを、「わたし」ではない架空(理想)の自分の姿を、あれこれと思い描いてしまう。これが間違いの元

・「人間関係は大事」なんて絶対に思わないこと。「嫌なやつとも、うまく付き合っていかなくちゃ」という心が、出世間の妨げとなる

・家を豊かにして、強固な砦を築かなくてはならない。家こそが、私たちを守る砦。それを築けるかどうかが、日本が滅びても心豊かに生きられるかのカギを握っている

・大家族の砦がしっかりしていれば、保険も貯金も年金も必要ない。兄弟同士、親戚同士で、生活上の様々な面で助け合う心があれば、一人や二人失業しても心配ない

・「世間を捨てて生きる」とは、山奥で仙人のような生活をすることではない。都会でも、世間を捨てて生活することができる。それは、ありのままの自分を生きるということ。世のため、人のためなんて間違っても思わずに、あるがままを受け入れて生活すること

・病気になったら、病人なりの人生の楽しみ方がある。マラソンや世界旅行はできなくても、近所を散歩して写真を撮ったり、読書や音楽鑑賞をしたりなら生きていける。病人なりに生きていけばいい

・大事なのは、世間なんかうっちゃって、進歩にも向上にも背を向け、今を楽しく生きること。明日できることは今日せずに。他人ができることは自分がせずに。それでいい


一生懸命に頑張る自分と怠ける自分の両方を持つことによって、人間はバランスよく生きていくことができます。

バランスよく生きれば、ストレスもなくなります。とにかく、一方に傾きすぎるのがよくありません。

本書は、会社のために、長時間、気を張り詰めて、働かれている方にこそ、読んでほしい書です。
[ 2012/02/10 07:05 ] ひろさちや・本 | TB(0) | CM(0)

『奴隷の時間、自由な時間・お金持ちから時間持ちへ』ひろさちや

奴隷の時間 自由な時間 お金持ちから時間持ちへ (朝日新書)奴隷の時間 自由な時間 お金持ちから時間持ちへ (朝日新書)
(2009/10/13)
ひろ さちや

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ひろさちや氏の本は、このブログでも数多くとり上げてきました。今回は、「時間」をテーマに、深く掘り下げた内容になっています。

著者は、日本人の時間に対する考え方に疑問を呈しておられます。日本では、常識と思われる時間の使い方も、別の角度で眺めると、異常なことばかりです。

この中で、時間について考えさせられたことが15ほどありました。「本の一部」ですが、紹介したいと思います。



・ワークシェアリングというのは、労働時間の短縮の上に成り立つ。日本人がワークシェアリングの思想を受け容れられないのは、労働時間の短縮が嫌いだから

・江戸は、ニコニコと貧乏をしていた。まるで趣味で貧乏をしているようなところだった。不況になって、仕事が半分に減ってしまったのなら、江戸のように、のんびりした生活のできる絶好のチャンスである

・前半の若いころの人生は、後半の老後の人生の準備段階。後半の老後こそ、大事な人生なのだが、日本人は逆にして、前半の若いころの人生に重きを置いて、後半の老後の人生を「おまけ」と考えてしまっている

・企業は、労働者を牛馬のごとくに扱き使おうとしている。日本の労働者はまるで奴隷並みに扱われている。そんな企業に忠誠心を尽くす必要はない

・企業の奴隷ではなく、精神的自立をして、自由人になること。自由人になったところで、表面まで変える必要はない。いや変えてはいけない。表面まで変えて、会社を首になってはたまらない。精神的自由を獲得すればいいだけ

・「人の心は金で買える」と、はっきり言われると、嫌悪感をおぼえる。ところが、その反対は「人の心を金で売る」ということ。自分の心を、働く会社に金で売っておいて、それを買う人を非難するのは不公平

・心を売らぬというのは、会社に忠誠心を持たないということ。会社と従業員は契約関係。江戸時代の殿様と家来ではない。だから、会社の悪は告発すること。犯罪を告発して会社が潰れると路頭に迷うといって黙っている人は、心を会社に売り渡して奴隷になった人

・金ではない。欲しいのは、ゆったりとした人間の心、ゆったりとした時間。そのためには、いやいやながら働く、働かざるを得ないから働く。できるだけ少なく働く、できるだけ怠け、忙しくしないでおく

・命は時間の集積。一年、一日、一時間、一秒の集積が寿命にほかならない。ならば、その一時間をじっくり味わって生きるべき。その大事な一時間を仕事のために使ってしまうなんてもったいない

・マルクスの次女と結婚したフランスの政治家ラファルグは、自著「怠ける権利」の中で、「マルクスは資本家に対して、怠ける権利を要求すべきだったのに、働く権利を要求した」と、マルクスの間違いを批判した

・金儲けのために、時間を切り売りするから、それが悪質な時間になってしまう。時間というのは、本来良質なもの。それを現代日本人は、悪質な時間にしてしまった

・仕事には二種類ある。一つは、金を稼ぐための仕事。もう一つは、人間としての大事な仕事で、「老いる仕事」「病む仕事」「死ぬ仕事」。にもかかわらず、大事な仕事を押っ放り出して、金儲けの仕事に懸命になっている人が多い

・生活費を稼ぐために過ごす時間は、一種の動物的時間。その時間は人生から差し引かなければならない。その差し引いた残りの自由時間を幸福に暮らせば、「人生の幸福」を得ることができる

・「人生の幸福」を得るためになすべきことは、一つに、「自由時間を増やすこと」、もう一つは、「自由時間をうまく生きること」、の二つ



この本を読むと、自由とは何かを改めて考えさせられます。

自由とは、生活のためにお金を稼がなくてもいいこと。そして、時間を思い通りに使えることだと思いました。

つまり、現代の多くの「日本の老人」ではないでしょうか。ということは、生きる目標は、「早く老人になりたい」ということかもしれません。

このことを頭に置きながら働き、できるだけ、早く会社を辞めることができるように、人生を過ごしていけばいいのではないでしょうか。

[ 2011/06/10 06:23 ] ひろさちや・本 | TB(0) | CM(0)

『「ずぼら」人生論』ひろさちや

「ずぼら」人生論「ずぼら」人生論
(2010/01/27)
ひろ さちや

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ひろさちやさんの本は、今回で9冊目です。最近は、日本の大企業の悪行?に対して、宗教学者としての立場から、厳しい意見を述べられることが多くなっています。

この本は、日本の大企業に勤める人たちに、会社とは何か?仕事とは何か?自分とは何か?を問う材料を提供されています。

面白かった箇所が20ほどありました。「本の一部」ですが、紹介したいと思います。



・真面目な人は、相手の期待に応えようとする。相手は個人の場合もあれば、国家だとか世間、勤務する会社の場合もある

・他人からの期待に応えてもいいが、他人からの期待に「過剰反応」してはいけない。過剰反応しないことが、「ずぼら」の「ずぼら」たるゆえん

・「しないわけにはいかない」から、「しないですむ方法を捻り出す」に変える。発想の原点をそこに据えれば、いくらでも「嘘」が湧いてくる。思いついたうまい嘘をついておけばいい

・「つきあいたくないやつとはつきあわない」。まず、その決意を固めること。それが揺るがなければ、道はおのずから開けてくる

・日本人は、「必要なものは善、不必要なものは悪」という価値観で物事が判断する。「必要悪(不必要善)」という価値観が抜け落ちている

・「必要不必要」ではなく、「善悪」の物差しで競争を考え、競争は悪だということを根底に据えると、社会全体の見え方が変わってくる。会社の中で、出世だ、昇給だと、競争に血道を上げていることのバカらしさがわかってくる

・幸せな人は損ができる。不幸であったら、お金にも、地位にも執着がある。不幸の源は執着にある。そこから解き放たれていたら、幸せ

・「清貧に生きたい」ということ自体が、すでにこだわっている。こだわりもなく、とらわれもせず、あるがままに自然に生きて、それが周囲に清貧と映ったら、それでいいし、映らなければそれもまたいい

・なぜ、ケチにならないのか、なれないのか、がわからない。必要がないものを求めない、要らないものを持たない。それだけのこと

・欲しいものはないのに、給料がもっと欲しいと考えるのは、お金に対する欲以外のなにものでもない。日本の社会には「誰もが欲に振り回される」しかけが仕組まれている

・生活のためには仕事をしなければならないが、間違っても頑張らない。常にほどほどにやる。頑張れば頑張るほど、奴隷として飼いならされていくのが見えないといけない

・世の中の奴隷、会社の奴隷の道をまっしぐら。そんなハメに陥らないためには、人生をついでに生きるしかない。「生まれてきたついでに生きている」

・リストラしたらそれでおしまい。経営状態がよくなっても、できるだけ給料の安い人材を雇い入れて、復職させないのは、日本企業だけ。アメリカの企業は、経営が持ち直し、雇用が増えたら、クビを切った人間を雇わなければならない

・短所だと思うから、悩んだり、嫌いになったりする。個性だとわかったら、おおらかに自分らしく生きられる

・宗教を持っていない人は、美学で生きようとする。宗教を持っている人は、ずぼらにのんびり生きさせてもらえる

・リストラが不安だという人は、実際にリストラされていない。親の介護が不安だという人も、現実には介護をしていない。不安を持とうが持つまいが、ものごとはすべて「なるようにしかならない

・原理原則が、何かを考えるときの基本、行動するさいの規範になるのだとしたら、一面性しか見ないまま硬直化している現状は危険。相反する二つの面を包み込む懐の深さがあってはじめて、原理原則たりえる

・リストラは生活の危機。生活の危機を人生の危機と取り違え、人生の危機を何たるかを知らないままに生きている

・働くということは、いくら理由をつけたところで、所詮は金稼ぎ。生活の糧を得るための手段。そういう正しい発想を持てるようになったら、仕事六分目の力加減も自然とわかってくる



著者の言うとおり、生きるとは「死ぬついで」。働くとは「金稼ぎ」だと思います。

ただ、それだけのことなのに、意味や講釈をつけたがるのが人間です。また、つけないと生きていけないのが人間です。

この本は、世の中をバカにしながら生きていけば、楽になることを教えてくれる良書です。
[ 2010/12/20 06:27 ] ひろさちや・本 | TB(0) | CM(0)

『ひろさちやのあきらめ力』

ひろさちやの あきらめ力ひろさちやの あきらめ力
(2009/01/29)
ひろさちや

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ひろさちやさんの本は、このブログでも何冊も紹介しています。最近は、日本の会社型資本主義に警笛を鳴らされています。

この本にも、日本人が人間らしく生きるために必要なことがいっぱい書かれています。

今回、この本を読んで共感できた箇所が15ほどありました。「本の一部」ですが、紹介したいと思います。



・信用できないものを信じよう、期待できないものに期待しようとしても、無意味。希望なんて持とうとするから、とたんに苦しくなる。希望とは欲望だから

・いざとなれば自作自演で戦争でも何でも引き起こすのが国家。その国家が掲げる「正義」なんてものを信用するのは、もうやめにしたほうがいい

・昔は日本人も収入の範囲で生活する、という基本に沿った生き方をしていた。お金が貯まったから家を買うというのが当たり前だった。借金して何かを手に入れるという発想はなかった。それが人間としての自然な生き方

・過酷な労働を強いられていたとされる農民でも、日が暮れれば仕事はできないし、農閑期もある。平均すれば、一日の労働時間は4時間程度だった

・私たちが生きている三界(欲界、色界、無色界)には、安心などなく、不安に満ち満ちていて、さながら火宅(炎に巻かれ燃えさかる家)のようなものだと法華経は言う。世の中は、そこに生きている人にとって「良いもの」であったためしはない

・収入の範囲で生活するという基本を忘れずにいたら、頑張る必要などないし、火宅に取り込まれることもない。その基本を忘れた結果、あえいでいるというのが、この時代の風景

・何でもかんでも会社と衝突して「我を通す」のは賢い行動ではないが、表明すらしないのは問題。言うべきは言う。要求すべきは要求する、というのがいい意味の「利己主義」

・束縛から自由になるための一番の武器は、人生に意味はない、生きがいなどない、という達観の地点に立つこと

・道徳的な教えは、強者には適用されず、弱者にだけ適用される。そこがわかれば、道徳に縛られる必要がないことがわかり、「利己的な生き方」に一歩近づける

・「生きがいは仕事です」「仕事が好きです」という人たちは押し付けがましい。本来なら、「仕事を生きがいなどにしてしまって、申し訳ありません。どうかご勘弁ください」と謙虚にひっそりと生きるべき

・「利己主義」の反対は「滅私奉公」。滅私奉公は、個人の利益より会社や上司の利益を優先する、権力者が満足すれば、個人は不幸になってもいいという考え方

・インドでは人生の段階を「学生期」(青年までの真理を学ぶ)「家住期」(職業に専念する)「林住期」(職業から離れて引退する)「遊行期」(悠々自適を送る)の四つに分ける。家住期には子に教育する。林住期には孫に知恵を授ける。子育てを人生の中心に据えている

・アメリカ、日本、中国、イスラエルの四つの国に共通するのが、家族制度を崩壊させたこと。強い絆で結束している家族は、人が人間らしく、安心して自由に生きるための砦。そんな家族を崩壊させた代償は、取り返しがつかないほど大きい



日本は、人間を中心に社会が構成されるべきなのに、会社を中心に社会が構成されています。

後の世になって、江戸時代の農民のように、平成のサラリーマンが会社から搾取されていたと歴史の史実として残るようにも思います。

本当は、おかしいことなのに、当たり前に思ってしまっていることに疑問を呈する貴重な1冊です。


[ 2010/11/18 08:42 ] ひろさちや・本 | TB(0) | CM(0)

『けちのすすめ・仏教が教える少欲知足』ひろさちや

けちのすすめ 仏教が教える少欲知足けちのすすめ 仏教が教える少欲知足
(2009/03/19)
ひろさちや

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著者の本を紹介するのは、7冊目になりました。70歳を過ぎ、著者の文章は、ますます過激になってきています。

しかし、それは純粋な気持ちから生まれたものなので、その過激な「提言」の数多くに感銘させられます。

この本を読んで、感銘した箇所が25ほどありました。「本の一部」ですが、紹介したいと思います。



・多くの日本人が今持っている欲望というのは、人間本来の欲望ではなく、持たされている欲望、押しつけられた欲望

・「けちになろう」これまでの既成概念の「けちけちしている」のけちではない。欲望を減らし、不安や苦悩から解放された「人間らしい生き方」を営むための必要哲学

・あらゆる不安に「前提を持つ」というのが、不安との付き合い方

・貧困を抱える人や雇用を切られた人への寄付金を募るのは本末転倒。日本には納税の義務がある。そのお金を上手に使って、雇用を維持させる、ホームレスを出さない、貧困をつくらないのが国や政治家の役割

・今の日本のコミュニティと呼ばれるものは、他人を監視する「お目付役

・年賀状を出したのに、相手から音沙汰がなかったら「なんと無礼な!」と言って腹を立てる。逆にこちらから出さなかった相手から年賀状が届いてしまったら「こりゃいかん!」と言って慌てて出す。日本人の言う「友だち」とはそのレベルのもの

損得抜きに成立する、人と人との交わりは、家族をおいて他にない

・けちになって、友だちを減らし、見栄や欲望を減らし、そして不安や悩みを減らして、身軽になる。そんな自分になって、その空いた時間を「家族」と呼ぶべき人と費やしていくことが大事

・人間は「欲望の奴隷」になると、まず良心がなくなる。そして、良心のなくなった隙間に入り込んでくるのが「競争原理」。競争原理は勝ち組をつくるのではなく、負け組を不幸にさせる。これはもう「悪魔」である

・市場経済は、自由競争の上に成り立っているわけだが、本来、自由化してはいけない「人」まで自由化した。労働者をなるべく安い市場で需要に合わせて必要なときに必要なときだけ集めて、必要がなくなれば「ポイ捨て」する仕組みを生んだ

・砂漠の遊牧民は、誰と協力しなくても一人で牧畜ができる。ところが農耕社会で治水事業をするには、共同でやらないとできない。「お隣さんはいないと困るけど嫌なやつ」これが日本人の我田引水型の思考

・日本人は終身雇用が素晴らしいと信じている。これは企業が植えつけた論理。終身雇用は、飼い殺し、奴隷になるということ

・生まれて、ただ食べて、それなりに田畑で働き、老いて死んでいくというのが、実は一番幸せ

・企業という王様のもとで、従業員という商人たちがやっきになってモノを作り、モノを売り、消費者たちが「欲望」という名の悪魔に衝き動かされている

・ヨーロッパではプロテスタントの「けちの思想」から生まれて、「金を使え、消費しろ」とアメリカによってテコ入れされ、そして「人間なんてどうでもいい」「会社が大事」という日本型資本主義が育まれ、最終的に行き着いた先が「市場経済」という墓場

・資本主義は資本の投下はするが、さすがに借金は売りださない。ところが、「プラスだろうがマイナスだろうが関係ない」といって、借金を売り出すのが金融主義。こんなものは資本主義でもなんでもない

・けちになって「人から善く思われたい」という欲望を減らして、嫌われればいい。嫌われれば、自然と世間から遠ざかる。世間から遠くなれば、縛られてきた鎖が切れて、心は楽になる。つまり「けちの哲学」を持って、世間を敵に回す覚悟があれば、何も恐くない

・世間体とは、社会の監視の目。生きがいとは、世間が押しつけた幻

・出世することはいいこと、若々しいことは素晴らしいと言って、そのために身の丈以上の欲を持つ。だから、出世の道が閉ざされると悲しくなり、歳をとることに不安を感じる

・「人生に意味を求めること自体、意味のないこと」と思った方がいい。「あるがままに生きる」、それが人生

・人は悩むために生きている、老いるために生きている、死ぬために生きている、苦しむために生きている。悩んだら、とことんしっかり悩む。それが大切

・「人生の危機」とは、「人間は何のために生きているのか」が分からなくなったとき。多くの人は「お金の不安」による「生活の危機」のときだと思っている

年賀状を出さない飲み会を遠慮するなど、損すると言われることを実行すれば、当然友だちは少なくなる。それは、世間で言う損だが、世間の損はほとけさまの得(ただし、この得はほとけさましか分かってくれない得)。世の中すごく面白くなるし、楽になる

・「きっちり損をする智慧」を持っていれば、たとえ自分が落ちぶれたり、不幸になったときでも「ああ、面白い。おつなものだな」と人生を味わうことができる

・関心があるから腹が立つ。関心があるから欲望が生まれる。関心があるから他人と比較してしまう。他人に関心を持つとろくなことがない。だからこそ「他人は他人、自分は自分」と割り切る智慧を持つことが大切



けちになると、見栄や欲望が減る。仲間や友だちも減るが、不安や悩みも減る。つまり、けちになれば、身軽になり、心が楽になる。次に、会社に費やした時間を、家族との時間に振り替える。そうすれば、人間らしい生き方ができると著者は説かれています。

また、著者は、この本の中で、社員を社畜、奴隷にしてしまった日本の会社の横暴、策略を厳しく批判されています。

しかし、エリート社員のみんなが、自分たちが奴隷であると意識し、それを恥と思わない限り、この体制は変わりません。奴隷解放してくれるリンカーンも現われてきそうにもありません。

それならば、自らの手で、繋がれた足枷、鎖を断ち切るしかないように思います。その足枷、鎖を切断する道具が「けち」ということではないでしょうか。
[ 2010/08/13 08:48 ] ひろさちや・本 | TB(0) | CM(0)

『ほとけさまの「ひとりを生きる」智恵-人生の不安をとりのぞく22講』ひろさちや

ほとけさまの「ひとりを生きる」智恵―人生の不安をとりのぞく22講ほとけさまの「ひとりを生きる」智恵―人生の不安をとりのぞく22講
(2007/01)
ひろ さちや

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ひろさちや氏の本を紹介するのは、今回で6冊目です。この本は、「会社に頼らない生き方」がテーマになっています。

日本のサラリーマンは、会社に上手に利用され、蟻地獄の中に閉じ込められています。

しっかりとした意思がなければ、この蟻地獄からは脱出できません。その意識改革になる智恵が、この本には満載です。「本の一部」ですが、紹介したいと思います。



・世間を信用するなどというおめでたい民族は、世界のどこを探してもない。政治家や大企業を信用しないというのは、どこの国でも常識以前の当たり前

・一神教であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教では「神だけは裏切らない」という考えのもとに成り立っている。この考えは、裏返せば「世間を信じない」ということに他ならない。むやみやたらに他人を信じないというのが宗教者の基本

・幸福に生きようと思ったら、「世間は虚仮」だと思うことが大切。他人が何を買おうが、何をしようが放っておけばいい。それが「精神の亡命」の基本

・宗教と道徳はまったく違う。道徳というのは、強者が弱者を縛るための教え

・「共生」という考え方は、単なる「平等」とは違う。共生というのは、強いものが強い環境に住んで、弱い者には弱い者にふさわしい場所を譲るという発想。だからこそ「棲み分け」になる

・サル山のサルは、敗者が負けを認めれば、勝者は相手を許して、絶対にそれ以上の攻撃をしない。敗者にも棲む場所がきちんと用意されている。つまり、強い者と弱い者の関係ができあがって、強い者が弱い者を保護するシステムができあがっている

・「零細企業の取り分」という棲み分けを考えずに、「自由競争なんだから」と、儲かるものに何でも手を出すのは、企業倫理の低い大企業の悪い癖。

・競争原理こそが正しい考え方だと、いつのまにか信じ込まされている。しかし、それも結局は政府や大企業に騙されている。競争原理は、学校にいじめを生み、企業倫理の低下をもたらし、日本社会をめちゃくちゃにしようとしている

・本当のエリートとは、自分の能力を人々の幸せのために使い、いざとなれば命を投げ出す覚悟でいる人のこと。だからこそ、普段はいい給料をもらっていい暮らしをさせてもらっている

・優れたエリートを育てるためには、徹底的な競争が必要。そうした競争が求められるのは人口の5%くらい。彼らは必死になって国の行く末や国民の幸せを考える。残りの95%の人間は、競争などしないで、のんびり生きる。そういう社会をつくるべき

・現代社会は、競争をしたくない者までもが駆り出され、結局は大企業や政府の得になっている。例えて言えば、麻雀の強い人も弱い人も無理やり一緒の卓を囲んでゲームをさせられて、麻雀店の店主だけががっぽり儲けているようなもの

・職場で仲間や友人が求められないのは、日本の職場が競争原理で成り立っているからに他ならない。競争原理で動いているのだから、会社の同僚はみなライバル

・現代の会社は刑務所であり、同僚は囚人同士であるという認識を持つこと。決して、仲間や生きがいを会社に求めてはいけない。そうした強い意志を持たないと、いつのまにか会社に洗脳されてしまう

・会社を利用するだけ利用して、騙せるだけ騙さなくてはならない。会社が従業員を無理やり転勤させたり、いきなり給与をカットすることに比べたら、はるかにかわいいもの

・明治維新、終戦、そして高度成長が始まる1960年。結局この3つの分岐点において、日本人は家族を崩壊させることによって、金持ちの国にするという選択をしてしまった

・会社は肉体的な居場所にするのは仕方ないにしても、決して精神的な居場所にしてはいけない

・ただ金を持っているだけでは、立派な金持ちではない。金を持つことに伴う責任を感じ、国民を代表して、国民のために使うという意識を持っていないといけない。その考え方を端的に表すのが「ノブレスオブリージュ(高貴なる者の義務)」という言葉



日本のサラリーマンが会社の奴隷となり、その状態から脱け出せないのは、著者が言うように、刑務所の囚人と同じ状態になっているからかもしれません。

囚人と言っても、夜は自宅に帰れます。帰宅できる家族を大切にすることで、囚人状態を脱け出すことができます。

会社と個人と家族の関係を改めて問うのに、役に立つ本です。
[ 2010/07/18 09:17 ] ひろさちや・本 | TB(0) | CM(0)