とは考

「・・・とは」「・・・人とは」を思索

『江戸しぐさに学ぶおつきあい術』山内あやり

江戸しぐさに学ぶ おつきあい術江戸しぐさに学ぶ おつきあい術
(2013/06/25)
山内あやり

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江戸しぐさに関する本を紹介するのは、越川禮子さんの「江戸の繁盛しぐさ」「暮らうるおう江戸しぐさ」に次いで3冊目です。著者は、その越川禮子さんのお弟子さんです。

江戸しぐさには、人との関係、社会との関係を円滑に保つ姿勢が詰まっています。今回は、以前紹介した「江戸しぐさ」を除いて、まとめてみました。



・「あいづちしぐさ」は、相手が話しやすい環境をつくることが第一、という意味。話させ上手こそ聞き上手。「間合いのいい相づちを心がける」こと

・「芳名覚えのしぐさ」は、本名をあえて聞かない交流のコツ。江戸の人々は、さまざまな身分や立場の人が集う場で、いきなり名前を聞くのは野暮で、自然に知る機会を待ち、誰かが呼んだその名前で話しかけた

・「のん気しぐさ」は、すべて努力をした後は、天の意思にまかせて前向きな心持ちでいましょうということ。江戸商人の心得は、一にやる気、二に根気、三にのん気、と言われた

・「世辞が言えて一人前」は、相手への心遣いを言葉にして伝えよ、という意味。世辞=大人らしいもの言い。世辞は社会人の挨拶として、円滑なお付き合いには欠かせない心配り

・「聞き耳しぐさ」は、聞き耳を立てるつもりはなくても、自然と耳に入ってきたことに対して、知らないふりをするやさしさのこと。江戸っ子は、“聞こえなかった”ことにして、すべてを胸の内におさめ、むやみに他言しなかった

・「三脱の教え」は、年齢・職業・地位など、人を肩書きという先入観で決めつけるのではなく、その人の本質を見極めよ、という教え

・「この際しぐさ」は、大火事や自然災害など、いざというときに備え、ここぞというときに臨機応変に対応すること。それは、物事の道理をわきまえ、規律をしっかりと身につけた者だからこそ逸脱できる業。型ある人の型破り

・「結界わきまえ」は、自分の立場や身の丈を把握し、人の領分まで侵してはならないという心得。他人と自分には、目に見えない境界線が引かれており、この“見えない一線”をどう守るかが、人付き合いでは重要と考えていた

・「けんかしぐさ」は、喧嘩のときの暗黙のルール。万が一手をあげるまで発展しても、頭や顔面はなどの急所をつく卑怯なやり方はしない。周囲の人は、どちらかに弱みが出たら、仲裁に入って止める。そして、必ず仲直り。仲直りすることまで含めて「けんかしぐさ」

・「へりくだりしぐさ」は、相手を立てることを第一に考えるという意味。相手に敬意を払わない人は、誰からも尊重してもらえない。相手を立てていれば、やがて自分も立ててもらえる。誇り高く自分をへりくだれる人には、自然と人は集まってくる

・「八度の契り」は、八回の約束を果たし合うほど、時間をかけて相手を見極めながら、ゆっくりと付き合いを深めていくのが好ましいという意味。本性を見せ、本音を言い合える相手は、そうそういないもの

・「刺し言葉・手斧言葉」は、決して人に言ってはならない言葉。話の腰を折るようなトゲのある言葉(「それで?」「それだけ?」など)と相手を不快にさせる断定的な言い回し(「所詮」「どうせ」など)、そして、乱暴な言葉(「うるさい!」「馬鹿!」など)のこと

・「陰り目しぐさ」は、こちらまで暗い気分になるような陰気な目つきのこと。商人が、目に力なく、沈んだ表情で店に立っていたら、お客さんは居心地も悪く、買う気も失せる。無意識の一瞬の暗い表情でも、意外に人に見られているので、気をつけろ、という教え

・「後ろつつき」は、気づかないうちに人に危険を与えている迷惑行為のこと。自分の視線が届かない後ろにこそ、細心の注意を払い、人への心遣いが必要という意味

・「朝飯前・傍楽・明日備」は、商家の一日の過ごし方。朝ご飯を食べる前に、簡単なことをこなし、仕事中は、人を楽にするために動き、夕刻になると、明日に備えるという意味

・「小意気・小奇麗・小確り」は、外見も内面も美しい「江戸小町」の条件。生き生きとして元気がよく、サッパリとした装いと身だしなみがお洒落で、凛々しい立ち居振る舞いのできる女性が憧れの対象だった

・「三つ心・六つ躾・九つ言葉・十二文・十五理で末決まる」は、江戸の段階的養育法。世間に出しても恥ずかしくない人間になるように、当時の成人年齢15歳を節目に段階を区切って育てた



法の支配が弱かった江戸時代、大都市で、人々が円滑な関係を築くには、法よりも道徳が必要でした。その大都市の道徳こそ「江戸しぐさ」です。

この「江戸しぐさ」の数々は、現代でも通用することばかりです。マナーとして、知っておけば、誰でも、素敵な人になれるのではないでしょうか。


[ 2014/05/09 07:00 ] 江戸の本 | TB(0) | CM(0)

『歴史の愉しみ方-忍者・合戦・幕末史に学ぶ』磯田道史

歴史の愉しみ方 - 忍者・合戦・幕末史に学ぶ (中公新書)歴史の愉しみ方 - 忍者・合戦・幕末史に学ぶ (中公新書)
(2012/10/24)
磯田 道史

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テレビの歴史番組出演や新聞への執筆などで大忙しの著者の本を紹介するのは、「日本人の叡智」に次ぎ2冊目です。

本書は、読売新聞に掲載されたエッセイなどを加筆修正したものです。本書には、古文書解読に長けた著者ならではの面白い見解が数々あります。それらをまとめてみました。



・明治維新にいたる日本人の歴史意識は頼山陽の「日本外史」が作った。ちなみに、この200年、国民歴史意識への最大影響者は、頼山陽徳富蘇峰司馬遼太郎と推移してきた

・薩摩は日本の例外。薩人は、これから起きる事態を事前に想定し、対処することに長けていた。薩人には、「もし、こうなったら」と予め考えておく「反実仮想」の習慣があった

・「反実仮想」の教育は、戦国時代は広く行われていた。文字に乏しかった戦国の日本は、粗野ながら、話し言葉で、人を教え、実践的な知恵をつける術を、しっかりと持っていた。しかし、江戸時代になると、武士の教育は四書五経の暗記のような形式主義に陥った

・幼少期に、仮想してみる頭が鍛えられることは、とても大きい。想定外が想定内になってくる。このことが、今の日本に大切である

・岩村藩はマニュアル藩といってよいほど規則の好きな藩。教科書に載る「慶安のお触れ書」は、岩村藩が農民の生活マニュアルとして領内に配ったことで全国に広がった。岩村藩にいた佐藤一斉の書いた「重職心得箇条」は、現代の日本人にも深く影響を与えている

・マニュアル(成文化された手順書)どおりに、規格的に動くあり方は、江戸中期から一層はなはだしくなる。古くからのマニュアル好きの国民性は、他に決めてもらうばかりで、自分で考えなくなるから、そこのところはよく心しなければならない

・外国人は、日本の弱点をよく見ている。日本人は江戸時代の軍事官僚の政権に支配されてきた「厳しく躾けられた政府への服従に慣れた国民」で、「治める者と治められる者が同じ原理」の議会の使い方が不得意であると見られている

・英国人女性イザベラ・バードは、明治初年に日本各地を旅行し、公共事業の無駄が多いことに驚いている。「日本行政の縮図がここにある。公共のお金が大勢の役人によって喰い尽されている」「日本の官僚主義はお金に関する限りあてにならない」と言っている

・胎盤のことを古くは「胞衣(えな)」といった。日本人ほど臍の緒と胎盤に執着する民族はない。天皇の胎盤は呪術的に扱われる一国の安危に関わる重大事であった。秘かに吉田神社境内の、宇宙の中心とされる八角堂大元宮の東南東八間の地点に集中的に埋められた

・日本中の縄文遺跡から「貯蔵穴」が出てくる。食料の残量を知っておくことは、死ぬか生きるかの分かれ道になる。ドングリやら干し肉の残量を計る原始的経理が存在し、うまく計れたものが生き残ったと思われる。貯蔵穴は、我々の祖先の経理の証拠

・奈良時代になると律令国家ができて、民部省に主計寮がおかれた。職員定員は40人弱。これで朝廷の中央財政の収支決算を行った。税を扱うのは主税寮で、同じく40人弱がおかれた。主計と主税という現代の財務省の区分はこのとき明文化された

・加賀百万石には領民100万人の広域行政を行うため、150人の「御算用者」というソロバン専門家の部隊が編成されていた

・近代国家の学校制度は一種の国民総参加の「すごろく」で、「あがり」は高級官僚。エリート官僚になって階級移動をとげた人々は、自己の成功体験から学校を崇拝した

・江戸前期の急速な人口・経済成長を停止させたのは、宝永地震と富士山噴火。西日本沿岸部の干潟干拓による新田耕地増で、米が猛烈に増産され、干拓バブルが起こったが、1707年、南海トラフが動き、宝永地震が発生。西日本の低地を津波が襲い、大被害となった

・南海トラフは、100年に1度の大地震・大津波、500年に1度の大連動する超巨大地震・超巨大津波を起こす。500年に1度が最後に襲ったのは、室町時代の1498年。このとき、鎌倉大仏の大仏殿は押し流され、淡水湖の浜名湖は砂丘が破壊され、海水湖となった

・徳川家の男の子には、「乗馬と水練だけはしっかりするように」という家康が申しつけた掟がある。家康の教えは、「敵を斬り払うのは家臣の役目、大将は逃げることだけを心掛ければよい。逃げるのは他人に代わってもらえない」というもの

・関ヶ原の戦いで、島津軍は、身分ある武士もみな「腰さし鉄砲」を用意し、大量の銃で徳川の要人を死傷させた。そのことが、家康を恐怖させ、薩摩征服をあきらめさせた



歴史の裏側から、歴史の真実を見る著者の分析には、はっと驚かされ、気づかされる点が多々あります。

本書にも、歴史の真実を通して、現代を生き抜くヒントが、たくさんあったように思います。


[ 2013/12/20 07:00 ] 江戸の本 | TB(0) | CM(0)

『大江戸寺社繁昌記』鈴木一夫

大江戸寺社繁昌記 (中公文庫)大江戸寺社繁昌記 (中公文庫)
(2012/10/23)
鈴木 一夫

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ディズニーランドやUSJも人を集めていますが、古の昔より、人が集まる娯楽の場所は、「」「」「風呂」です。その中の「寺社」について、江戸時代はどのように繁昌していたかを調べた書です。

・本書には、群れ集う日本人のDNAの軌跡が記されているように思います。興味深い箇所が数多くありました。それらの一部を要約して、紹介させていただきます。



・神仏に参詣するという大義名分を果たした後、見る、聞く、味わう、買う、といった庶民の楽しみが何でも揃っていたのが門前の繁華街。昔は、「呑む」「打つ」「買う」などのちょっと危ない楽しみもあった

神仏をダシにしてうごめいた、さまざまな人々が生み出した混沌としたエネルギーが、寺社を堕落させるほどに活き活きと盛んにし、門前に活気をもたらした

・昔は、女性にとってお産は人生最大の難事の一つ。母子ともに死亡率は高かった。人口密集地江戸では、毎日たくさんの赤ん坊が生まれていたから、安産の神様が頼りにされたのは当然。安産や子育ての御利益を求めて参詣する神仏がいくつも繁昌していた

・慢性的な財政難で金欠状態にいた江戸時代の大名たちが、神仏のお金をありがたく拝借するというのは、この時代の世のならわし。お賽銭の上がりをあてにしていた

金毘羅信仰は武士にも広まった。将軍や大名も現世利益を求め、後生の平安を願って寺社詣に熱中した。武士も、武芸や学問の上達とか、出世コースに乗りたいとか、お金がほしいとかで信心に励んだ

・金毘羅社の熱心な信者の圧倒的多数は、町人、職人などの庶民。そして、鳥居建立のために寄付した人々は、貧乏に苦しんで金運をお願いした人たちではなく、むしろ、商売がうまくいって金運をつかんだ幸運な人たち。金毘羅さんがかつぎ上げた元気のいい信者

・金毘羅大権現、水天宮、妙見尊、稲荷神など、それぞれのゆかりのある神仏を邸内に祀り、門を開いて賽銭稼ぎをした。藩邸の側で手を回して、瓦版や口コミを使い、フィーバーを演出することに手を貸していた

・金毘羅さんが江戸下町の庶民の心をつかんだのは、開運福徳や家業繁昌の御利益。神紋が「金毘羅」の「金」を丸で囲んだマルキン印。マルキンはお金の符丁だから、庶民にとっては金運のシンボルのように思われた

・弁才天をもっぱら福神として敬う信仰が盛んになると、「才」の字の代わりに「財」の字をあて、弁財天と書くようになった

・「江戸名所図会」では、弁天堂を囲むように、ずらりと茶屋らしい建物が並んでいる。境内には、行楽客に酒食を出す小料理屋やラブホテルに類する出合茶屋まであった。そして、初夏には、グルメの楽しみとして、茶屋の蓮飯がここの名物となった

・江戸っ子たちは、浅草の観音参詣のついでに石像を踏みつけた。「踏みつけ」が「文付け」に通ずるところから、ラブレターを堂におさめれば願いが叶うというので評判になった

・抜け目のないのは商人や職人だけではなかった。お坊さんも結構さばけていた。浅草寺の餅屋に看板を書いてやったり、本堂の近くに店を開くことを許してやったり、願掛けのさいに必要な御利益グッズを売り出したりした

・浅草寺の境内の猥雑さが、この寺に活気をもたらし、それがまた寺だけでなく、浅草という地が人を引きつける魅力になった。寺裏から1㎞も離れていない場所に、吉原の遊郭が移ってのちは、浅草の町は、アミューズメントセンターとしての魅力を高くしていった

・昔はお酉様の熊手を買う者は、ほとんどが遊女屋・茶屋・料理屋・船宿・芝居など、縁起をかついだり、景気をつけたりすることの多い水商売の人たちに限られていた。正業の家では家内には飾らなかった

鼠小僧の墓を信心の対象としたのは、明治の初めころ。芝居の役者だけでなく、政府や東京府の官員から相場師、芸者、商品ブローカーといった人々に熱心な信者が多かった

信仰のフィーバーをつくり出すために、成田不動尊の霊験を物語る不思議な体験談や出来事・エピソードが口コミで巷に伝えられた。不動尊の僧侶も、ありがたい不動尊のマカ不思議な霊験を物語り、宣伝につとめていた

・閻魔王にお願いすれば地獄から救われて極楽に行くことができるというのが閻魔信仰。閻魔を信仰しなくなった現代でも、眼病治癒の御利益だけが有名になって残っている



本書は、江戸の繁昌している寺社のいわれや歴史を調べ、それを浮き彫りにしています。それはある意味、現在の純粋な信仰の妨げになるのかもしれません。

しかしながら、人々の信仰エネルギーが場のパワーに昇華されていくプロセスは、大変面白く読むことができるのではないでしょうか。


[ 2013/10/20 07:00 ] 江戸の本 | TB(0) | CM(0)

『武士マニュアル』氏家幹人

武士マニュアル (メディアファクトリー新書)武士マニュアル (メディアファクトリー新書)
(2012/04/27)
氏家幹人

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本書は、武士道といった堅いものではなく、武士の現実的な世渡り術を集めたものです。その中身は、現代のサラリーマン処世術となんら変わりありません。

むしろ、武士という身分にしがみつこうとする涙ぐましい努力に、滑稽さを感じてしまうくらいです。現代にも役立つマニュアルの一部を要約して、紹介させていただきます。



・「番頭組頭又伴頭の子供親類近付いて居よ」(番頭とその配下の組頭、さらにその下の伴頭。これら上司とうまくやっていくためには、彼らの子供や親類と親しい関係を持つこと)

・「頭衆へ見舞は月に一度なり、寒暑非常の見廻外なり」(職場の上司に対しては、月一度のご機嫌伺いのほか、寒中見舞い・暑中見舞いに参上し、さらに火事などの非常時にも見舞いを欠かせてはいけない)

・「男子をば八才以後は常袴、行儀作法を教育せよ。手習と読書の道を急ぐべし、無事無学はならぬ役人」(武士の子は、8歳になったら身なりを正し、行儀作法を躾けること。さらに、習字と読み書きを疎かにしてはいけない。無教養では、幕府の役人は務まらない)

・「十五才前の武術は無益なり。腕が弱くて術も叶わず」(武術は15歳になるまで始めてはいけない。筋肉の発達が不十分な子供に武術を鍛錬させても上達しない)

・「大用場立とき帯ゆるまりて、脇差落とす事も切々」(トイレで排泄を終えて立ち上がるとき、帯がゆるんで脇差が落ちてしまうことがあるので要注意。糞尿に浸った脇差を差しているという噂が広がったら、家の名誉も武士の面目もまるつぶれ)

・「在番は碁将棋立花俳諧に、何ぞ小細工好暮らせよ」(在番中の宿舎での退屈しのぎには、碁、将棋、華道に俳句と、趣味の模型作りなどがおすすめ)

・「下々を月に一度は暇やれ。使に出て脇よりをせず」(下々の者だからといって、月に一度くらい休暇をやらないと、使いに出されたとき、寄り道をしがちになる)

・京や大坂の者たち、なかでも風俗営業の者たちは、商売上手だから、騙されないように気をつけること。また、初めて赴任した者は先輩たちからいろいろとイジメられるもの。気にせずゆったり構えること。初対面なのに親切な人も本性が悪いから要注意(思忠志集)

・「乗下りと又あつかひの安さとて小馬を好む人は拙し」(乗り降りが容易で扱いやすいからといって、小さな馬を好むのは、駄目な武士)

・「武士の足ふみのべてあほむきに寝ては勝負に勝たぬものかな」(武士たる者は、足を伸ばして仰向きに寝てはならない。そんな緊張感のない者では勝負には勝てない)

・「人は相手によりて怒りも出来、恨みも有るものなり。手前の理暗さに、先方の思はぬ事をも我が心のひがみにて思ふらん」(理由は相手ではなく、本人の心にある。心のひがみから相手の言動を悪く勘ぐり、相手に悪意がないのに腹を立て、恨みを抱いてはいけない)

・「主人の御気に入るべきとつとむるは悪し。御気に違はず仕損なひをせぬ様にと可勤事なり」(主人に気に入られようと努めるのはよくない。気に入られようとするのではなく、機嫌を損ねたり、しくじりのないように努めるべきだ)

・「家内庭の掃除も、端々人の見ぬ所に気を付け掃除すべし。雪隠猶更きれいにするものなり」(家の中でも庭でも、人目につきにくいところまで気をつけて掃除をすべきだ。トイレはなおさらのこと。汚いところは掃除しないといっそう汚くなってしまう)

・「平士の肥満しては歩行立の用に立たずとて、強く腹帯をし固め、食に心を付ぬれば、肥満を遁れたり」(上級の武士ならともかく、歩行で務める平士の身で肥満になったら役に立たない。腹帯をきつく締め、食事に気をつけて肥満にならないように努めること)

・「衆座に禁ずべきは、食物の噂、雑務の噂、毎物巧者ぶりたる咄、色欲の噂、自慢らしき事」(多くの人がいるところで言ってならないのは、食べ物や訴訟の噂。知ったかぶりで話すのも、エッチな話題、自慢話も禁物)

・「物を問ひかけられ候時、延引にて苦しからざる儀は、追って申すべしと言ひて、よく了簡して申し遣はすべきこと」(何か質問されたときは、回答が遅れて構わない場合は、後でお答えします、と述べて、時間をかけてよく考えてから回答を伝えればいい)

・「あて言、なぶり口上などには、怯えあがるほどの一言を言て、かさ高に仕掛け、その後に遺恨を残さず二の勝を取るべきこと」(悪口や嘲笑を浴びせるときは、相手が震えあがるほど激しい言葉で、威圧的に行えば、かえって恨みを後に残さないでいい)


大企業や公務員など安定した組織に勤めるサラリーマンの悲哀が、この「武士マニュアル」に数多く記されているように思います。

昔も今も、日本人の性格や組織における行動は変わっていません。武士道精神にばかり気をとられていると、本当の武士の精神を見誤るのかもしれません。「これがエリート日本人だ!」という書ではないでしょうか。


[ 2013/09/22 07:00 ] 江戸の本 | TB(0) | CM(0)

『大名たちの構造改革』谷口研語、和崎晶

大名たちの構造改革―彼らは藩財政の危機にどう立ち向かったのか (ベスト新書)大名たちの構造改革―彼らは藩財政の危機にどう立ち向かったのか (ベスト新書)
(2001/10)
谷口 研語、和崎 晶 他

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江戸時代の後期、財政危機になる藩が多発しました。その難局を乗り越えた藩、乗り越えられなかった藩、その成功と失敗の要因を調べたのが本書です。

現代にも通じる部分が数多くあり、参考になります。それらの一部を要約して、紹介させていただきます。


・農民が豊かになれば、地主となって中間搾取する者が出る。没落すれば、耕作地が荒れ、年貢が取れない。だから、農民が富裕化しないよう、さりとて、没落もしないように生活させ、その全余剰を税として取り上げることが、幕藩領主にとって農民支配の最上の策

・農村の荒廃は、天災によるものだけではない。商品経済・貨幣経済が農村にも浸透してきた結果、農民たちが借金返済のため、田畑を質地として地主に渡すか、出奉公で貨幣を手にした。並行して、間引き・捨て子も横行し、村は人間の再生産さえ困難に陥った

・藩政改革には、有能な人材が必要だった。その新たに登用する人材を束ねる人材(名補佐役)を得ることで、名君たちは、藩政改革に着手することができた。逆に言えば、補佐役に人を得ることができなかった大名は、「名君」たりえなかった

・人材を登用して高い役職につけても、禄高が低いままでは、何かと不都合が生じる。そこで、就任させた役職に相応する禄高との差額を補てんする制度がとられた。やがて、この補てんも合わせた総計高が子孫に世襲されるようになってしまった

・江戸時代後期には、儒学から派生した経済学や政治学に近い思想を展開した「経世家」や「農政家」が現れた。彼らは派遣された藩の農業方法を指導し、農村の復興を行い、藩の殖産興業や交易に意見を述べた。二宮尊徳、海保青陵、大蔵永常、佐藤信淵などが有名

・財政再建に向けての改革は、家臣たちに耐乏生活を強いる中で行われた。藩主上杉鷹山が率先垂範したように、改革の担当者は、禁欲の中で改革にあたらなければならなかった

・徳川吉宗には、大奥に残る美女の名を書き出せと命じ、書き出された50人全員に「美女ならば引く手あまたのはず、みな大奥を出て結婚するがいい」と暇を出したという、大奥経費削減の逸話が残っている

・水野忠邦に特に目をつけられたのは、職人や商人が頻繁に出入りする諸役所。出入りの者と馴れ合い、リベートを受け取り、贈物攻勢にもはまって、工期が延びても、値段の割に材料・品質が落ちても、まったく知らん顔だと、水野忠邦は批判している

・江戸時代の侍は、「あれをするな、これをするな」と、手取り足取り、私生活の指導を受けた。経営能力がまるでなかった

・半知とは、家臣に渡った分から半分借り上げるもの。財政帳簿では、家臣へ渡す半分を藩庫に入れると書くべきものを、最初から半分の額しか記載しなくなった

・荻原重秀が行った貨幣改鋳は、通貨量不足に対応したものだが、真の目的は、質を落とした金銀貨の発行で利益を得ることだった。この貨幣改鋳により、幕府は557万両の巨利を得た。この額は、当時の幕府歳入の約7倍にあたる

・幕府の三貨(金銀銭)に対して、各藩は、藩札という一種の紙幣を発行した。藩札には、米の額や金の額または銭の額を記したものがあったが、銀経済圏の藩を中心に発行されたため、多くは銀札だった。領内限りの通用を原則とし、通用期限が定められていた

・藩財政が悪化すると、諸藩は正貨を吸収する目的で、藩札を乱発するようになる。1774年に、幕府は藩札再発行を禁じたが、まるで効き目がなかった。財政窮乏に苦しむ諸藩は、兌換の保証がないまま、幕府の許可を得ず、命令に違反した藩札を続々と発行していった

・薩摩藩などは、天保の改革のさい、かなりの偽銭を鋳造したらしい。幕末には、戦争資金として、多くの藩で金銀貨幣の鋳造が行われている

・農村が荒廃し、農村人口が減少すれば、年貢徴収率が低下する。そのため、間引きの禁止、都市から農村へのUターン政策が必要だった。寛政の改革で行った「人返し令」には、Uターンの旅費食料費や農具代の支給があったのに、応募者が少なく、失敗に終わる

・二宮尊徳の報徳仕法とは、節約と勤労で分度を守ることにある。例えば、金十両の収入があれば、九両と二分(四分で一両)を限度とする生活をし、二分を貯蓄に回した。その貯蓄を貸し付けにも回し、その利子で農具や農業の基盤整備に運用した

・薩摩藩の財政改革を担当した下級武士出身の調所広郷は、偽金づくり密貿易を行い、なりふりかまわない方法で、藩財政を立て直した。当初500万両あった負債を返済し、10年後には、営業用途費200万両のほか、藩庫に50万両の貯蓄を行った



本書を読むと、幕府や諸藩は、財政再建のために、涙ぐましい努力をしています。給料半減、首切り、不正防止のための細かな規則だけに及ばず、外部者(経営コンサルタント)を使ったリストラも行っています。

さらに、貨幣改鋳、不換紙幣の発行など、財政政策の禁じ手を行っています。また、藩によっては、偽金づくり、密貿易などの不正行為を行い、借金を返済しています。このような財政再建の歴史を知ることは、現代においても、参考になりそうです。


[ 2013/08/25 07:00 ] 江戸の本 | TB(0) | CM(0)

『江戸の性愛術』渡辺信一郎

江戸の性愛術 (新潮選書)江戸の性愛術 (新潮選書)
(2006/05/24)
渡辺 信一郎

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本書は、発禁処分になってもおかしくない内容です。禁止用語と思しき言葉も度々出てきますし、春画や枕絵、局所絵などもふんだんに使われています。つまり、江戸の性の奔放さが非常によくわかる書です。

著者は、元都立高校の校長先生です。江戸の性を学術的に研究しようとした結果、生まれた書です。少々ためらう部分もありましたが、江戸の性風俗産業に興味深い点が多々あり、その一部を要約して紹介させていただきます。



・「おさめかまいじょう」は、遊女の性技指南書(1752年作)。遊女屋として成功を収めた人が、門外不出の秘伝を記録したもの。江戸中期の性愛文化の極致

・「おさめかまいじょう」は、普段の養生から始まって、交合で男を籠絡する秘技を伝授する。体が損なわれないように注意事項もある。娼婦と男客が密室で行う交合の凄まじさも描かれ、男の放埓な要求に応じる具体的な法が説かれている

・「おさめかまいじょう」の序文終末に、「商いはんじょうは、男衆をして喜ばす事に尽きるなり。然れども、その基は、おなごをして、いろいろ習わしめ、丈夫に長持ちさせるに尽きるなり」とある

・主人の男は、「下品」「中品」「上品」のランクをつけた。女が娼婦として稼げるか否かの見極めをするのが本務で、理性的な商品鑑定を行った

・若い男は女あしらいに慣れていないので、水揚げには、経験豊富な年輩者が最適であった。適当な時期が来たら、旦那衆の好き者の年寄りに売り込んだ

・水揚げによって、女郎の器量が定まり、「天神」と「端」の階級ランク付けをした。「天神」には芸事性技を学習させ、「端」は性技だけに専念させて技巧を磨かせた。年若い「天神」には、京都の女郎屋で修業させ、京下りの女郎として売り出した

・昼間に時間客を五回取ると、それが限度であるから、その後は泊まり客を付けさせた。泊まり客は、時間的にもゆとりがあり、交合をしても激務とはならない。その気配りが重要であった

・最初は手技で快感を誘発させ、硬直したら、大きく抜き差しして揺らせ、一気に射精を誘発させた。こうすれば、男根はもう勃起することなく、もし勃起しても交合欲は起こらない。男を堪能させる技法や対応法が「端おやま、かまいの事」に詳しく書かれている

・ふにゃ気味の半立ち男でも、交合欲や射精欲は旺盛なので、それを堪能させるには特技を要した。硬直させるために、男根以外の性感帯を刺激する秘法が幾つも書かれている

・客の男が秘具を持ち込んでいることがわかれば、女郎は女世話役を呼んで調べさせた。女郎は肉体の酷使に耐える商売であったから、体を損なう悪技は許さなかった

・女郎は、男の性的な欲望を満足させるのが職務である。そのため、交合以外の、男が喜びそうな、目で楽しませる性曲芸にも励んだ

魚の腸管袋(浮袋)の中に、麦粒を入れて、息で膨らませ、それを縛った後に、勃起した男根を入れさせた。干した魚のざらざらした皮も使った

・「まらうけとり、かまいの事」では、男根を受け入れる、交合体位四型三十六種ごとに対処法を列挙して、男の好色心を堪能させた

・江戸時代、女の自慰に供された疑似男根は「張形(はりがた)」と称した。交合に際して、男が女に使わせて、性技の補助としていた

・御殿女中たちは、性の発散をしないと、女体の健康によくないと信じていたので、処女の女は先輩から張形の使い方を指導された

・350年前、女性によって書かれた秘録「秘事作法」によれば、男との性交渉のない女の健康維持には、適度に張形を使用して、必ず「花心」から「精水」を洩らすべきと書いてある

・張形を使って快感を得るためには、様々な手法があった。「艶道日夜女宝記」(1770年頃)には、張形仕様の絵が七つ示されている

・「蠟丸」は女の性感増進薬。絶頂への到達度が遅い女の性感を誘発させるもので、男の征服欲を満たした。色道指南書の「宝文庫」(1850年頃)には、その製法が記されている



生々しい記述が多く、その部分を相当削除しましたが、それでも上記のような表現になってしまいました。しかし、本書は、我々日本人の性に関する貴重な歴史文化資料です。事実は事実として、きっちり認識することが大事ではないかと思い、紹介しました。

ある意味、日本人の研究熱心さ、探求心、好奇心といった気質が、非常によくわかる書でもあります。


[ 2013/06/16 07:00 ] 江戸の本 | TB(1) | CM(0)

『橘曙覧全歌集』

橘曙覧全歌集 (岩波文庫)橘曙覧全歌集 (岩波文庫)
(1999/07/16)
橘 曙覧

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橘曙覧を紹介するのは、「たのしみな生き方・橘曙覧の生活法」に次ぎ、2冊目です。橘曙覧は、幕末の福井で暮らした歌人です。自由を求めて、あえて清貧の道を選んだ人です。

本書には、1200首以上の短歌が収められています。その中でも、志濃夫廼舎歌集の「独楽吟」が、近代短歌の先駆けとして有名です。

今回も、独楽吟の中から、小さな幸せを感じる短歌を選び、紹介させていただきます。



・「たのしみは 艸(くさ)のいほりの 筵(むしろ)敷き ひとりこころを 静めをるとき」

・「たのしみは 珍しき書 人にかり 始め一から ひろげたる時」

・「たのしみは 紙をひろげて とる筆の 思ひの外に 能(よ)くかけし時」

・「たのしみは 百日(ももか)ひねれど 成らぬ歌の ふとおもしろく 出できぬる時」

・「たのしみは 妻子(めこ)むつまじく うちつどひ 頭ならべて 物をくふ時」

・「たのしみは 空暖かに うち晴れし 春秋の日に 出でありく時

・「たのしみは 朝おきいでて 昨日(きのふ)まで 無かりし花の 咲ける見る時

・「たのしみは 心にうかぶ はかなごと 思ひつづけて 煙艸(たばこ)すふとき」

・「たのしみは 意(こころ)にかなふ 山水の あたりしづかに 見てありくとき」

・「たのしみは 尋常(よのつね)ならぬ 書(ふみ)に画(ゑ)に うちひろげつつ 見もてゆく時」

・「たのしみは 常に見なれぬ 鳥の来て 軒遠からぬ 樹(き)に鳴きしとき」

・「たのしみは 物識(ものしり)人に 稀にあひて 古(いに)しへ今を 語りあふとき

・「たのしみは 門売りありく 魚買ひて 烹(に)る鍋の香を 鼻に嗅ぐ時

・「たのしみは まれに魚烹て 児等(こら)皆が うましうましと いひて食ふ時」

・「たのしみは そぞろ読みゆく 書の中(うち)に 我とひとしき 人をみし時」

・「たのしみは 雪ふるよさり 酒の糟(かす) あぶり食ひて 火にあたる時

・「たのしみは 世に解きがたく する書(ふみ)の 心をひとり さとり得し時

・「たのしみは 炭さしすてて おきし火の 紅(あか)くなりきて 湯の煮ゆる時」

・「たのしみは 心をおかぬ 友どちと 笑ひかたりて 腹をよるとき

・「たのしみは 昼寝せしまに 庭ぬらし ふりたる雨を さめてしる時」

・「たのしみは 昼寝目ざむる 枕べに ことことと湯の 煮えてある時」

・「たのしみは 湯わかしわかし 埋(うづ)み火を 中(うち)にさし置きて 人とかたる時」

・「たのしみは 機(はた)おりたてて 新しき ころもを縫ひて 妻が着する時

・「たのしみは 人も訪(と)ひこず 事もなく 心をいれて 書を見る時

・「たのしみは 木の芽にやして 大きなる 饅頭を一つ ほほばりしとき

・「たのしみは つねに好める 焼豆腐 うまく烹たてて 食はせけるとき」

・「たのしみは わらは墨する かたはらに 筆の運びを 思ひをる時」

・「たのしみは 好(よ)き筆をえて 先づ水に ひたしねぶりて 試みるとき」

・「たのしみは 庭にうゑたる 春秋の 花のさかりに あへる時時」



くつろぎの時間、家族との語らい、家族の笑顔、季節の変化の発見、散歩、昼寝、親友の来訪、おいしい旬の食べ物など、橘曙覧は、お金がなくても幸せを感じるときを詠っています。

お金で解決する楽しみ、人と比較する楽しみなどが、貧乏くさく思えてきます。この健全な楽しみ方こそ、一番贅沢であるのかもしれません。


[ 2012/10/19 07:01 ] 江戸の本 | TB(0) | CM(0)

『江戸時代の老いと看取り』柳谷慶子

江戸時代の老いと看取り (日本史リブレット)江戸時代の老いと看取り (日本史リブレット)
(2011/11)
柳谷 慶子

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現代の日本は、90歳に到達する人が、女性では50%、男性でも20%という時代です。高齢化が急速化しています。

これに似た時代が江戸時代です。室町時代は、60歳まで生きる人が10%にすぎなかったのが、江戸時代に入り、急激に高齢化が進みます。

そのとき、江戸時代の人々は、老いをどう考え、老いの方策をどう行ったのか、興味のあるところです。本書は、それらを当時の文献を踏まえ、明らかにしようとするものです。それらの一部を紹介させていただきます。



・幕臣の場合、病気隠居は40歳以上でなければ請願できず、老衰隠居は70歳以上になって初めて認められた

・隠居年齢を超えて、職にとどまった武士は、80歳をすぎるまで勤務を続けた例も珍しくない。江戸後期には、90歳を超える極老で現職に踏みとどまっている者も確認できる

・健康こそが武士の生き方であり、忠死をとげることよりも、死なないことのほうが、忠として質が高いと考えられていた。武芸に励むことも、健康を保つための手段の一つ

・江戸城では、70歳以上の者たちが、互いに助け合いながら、仕事の負担を軽くする習わしがあった

・江戸後期には、老衰で役勤めが実質的に困難な役人に対して、「乍勤(つとめながら)隠居」、すなわち、在役のままの隠居を許した

・幕末には、20年以上勤務した50歳以上の役人(布衣以上)には、年々金100両ずつを隠居料として給付することが示達された。この時代、一気に隠居年齢が50歳まで引き下げられ、これ以上の年齢の者は、現役をおろされた

・養生に対する関心の高さは、武士社会の一般的な風潮であり、隠居後に自らの経験をもとに、養生書を書き残した武士も少なくない

・隠居慣行のあった地域で家産に余裕のある家では、隠居夫婦が家産の中から隠居料を確保し、家督夫婦の家から独立した隠居屋で暮らした。隠居料は、土地として確保された他に、米や金銭、塩、味噌、薪などの現物給付の方法もとられた

女性の旅は、19世紀に入って、飛躍的に増加し、60代での旅も少なくない。老いの身で、ようやく念願の旅をかなえた女性たちが記した旅日記(伊勢参詣・善光寺詣・西国巡礼・江戸見物など)が多く残されている

・高齢者の年寿に際して、杖(鳩杖、銀杖)を贈ることは、奈良時代の朝廷に始まった慣例。江戸後期になると、鳩杖の下賜は、大名と家臣だけでなく、領民にまで広げられた

・18世紀半ば以降、長命であることは、領主の称揚の対象となり、高齢まで働く庶民や武士が褒賞されるようになる。「養老式」「年長祝い」の名のもとに、領内の高齢者を一斉に城や役所に召喚し、藩主自ら酒食で饗応する催しが行われている

・孝行としての看取りは、常に親のそばにいることとともに、親の身体に触れることが大事な行為とされていた。なかでも、排泄の介助は重視される行為とされていた。子が親の排泄介助に携わった姿は、孝行褒賞の記録に多くとどめられている

・1786年に林子平が著わした「父兄訓」では、老親の食事について細かく言及している。歯が抜けたり弱って噛む力を欠いていることへの配慮や、壮健者と同じ調理をすることの戒めなどの老いを養う方法を指摘している

・武士が身内の病気や臨終に付き添うことができたのは、「看病断(ことわり)」の制度が設けられていたから

・財力のある上層の庶民や武家では、看取りを家族以外の者に委ねることもあった。雇用する下男・下女らに、常時の付添いや、食事、施薬、排泄の世話などが、仕事として任された

・養子は家を相続するための常套策であったが、それだけにとどまらず、独り身の高齢者が、新たな家族の中で、生存を保障される手段として推進された側面もある

・17世紀末から18世紀初頭の京都では、貧困や病気を苦にした下層民の老人の自殺があとを絶たなかった。大都市ばかりでなく、地方の城下町や宿場町でも、相互扶助の関係性は弱かった



本書には、江戸時代の定年制度、隠居制度、年金制度、介護制度、長寿者褒賞制度などが、詳しく記されています。現代に通じることも多く、江戸時代にそれらの基ができていたことがわかります。

また、老後の楽しみであった旅行や、長生きするための健康法など、老人の嗜好は、今とまったく変わりません。

本書を読めば、高齢化で起こる現実を、再確認できるのではないでしょうか。


[ 2012/08/04 07:03 ] 江戸の本 | TB(0) | CM(0)

『大江戸えころじー事情』石川英輔

大江戸えころじー事情 (講談社文庫)大江戸えころじー事情 (講談社文庫)
(2003/12/12)
石川 英輔

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著者の大江戸シリーズを紹介するのは、「大江戸えねるぎー事情」に次いで2冊目です。

本書には、江戸時代、燃料やエネルギーをいかに無駄なく、賢く使っていたかが掲載されています。また、当時の挿絵も豊富に載せられていますので、当時の状況が目に浮かびます。

生活面で、気づかされる点が多々ありました。「本の一部」ですが、紹介させていただきます。



・時代が進むにつれて下肥はますます貴重になり、18世紀後半には、3~5倍に高騰した。下肥が慢性不足状態だったため、農民は町で汲み取れる限りの全量を集めた。町へ農作物を運んだ帰りの船や馬を使い、肥料を持ち帰ったので、運搬にも無駄がなかった

厩肥は、家畜小屋に敷きわらとして使い、充分に家畜の排泄物を吸収させたところで、堆肥と同じように積み上げて発酵させて作る。完熟した厩肥は、くさいどころか香ばしい匂いがして、最高級の肥料になった

・わらの3分の1は燃料にした。わらは燃えやすく火力は弱いが、量が充分にあれば、風呂を沸かし、炊飯もできた。また、薪に火が着くまでの焚きつけとして利用することも多かった。わらを燃やしてできるわら灰は、上質のカリ肥料になった

・日本の田圃は、肥料が全くなくても70%くらいの収穫がある。その秘密は、山林から流れる自然の肥料。稲作は、麦やじゃがいもより少ない肥料でできる効率の良い農業。山の多い国土で、3000万人の大人口を維持できたのは、主食が米だったから

・絶えず新しい水が流れているために、稲作では連作障害が起こらない。連作障害の原因は、微量要素不足、有害成分過剰、害虫繁殖だが、水田には、いつも自然の有機肥料分や微量要素が流れ込み、有害成分を流し去るため、同じ場所で千年続けることができた

・屎尿をすべて肥料にしていた都市では、川にごくわずかな生活排水しか流れ込まないため、江戸や大坂の大都市にも清潔な水が流れていた。現に、川の水を飲んでいた大坂で、特別な病気が流行することもなかった

・燃料の需要が大きい都市の近くには、必ず燃料用の林業が盛んな地域があり、大量の薪や木炭を市中に供給した。江戸時代の日本では、町での薪炭の需要によって、林業が盛んになり、すすきの原が人工林になるという良い循環が起きていた

・洋服に比べ、着物は単純な構造で、一反(幅36㎝×長さ11.4m)の細長い布から、左右の袖、前身頃、後身頃、左右の衽、共襟、襟の八つの部分を直線に仕立てる。曲線裁断のある洋服(布の10%以上むだになる)のような、半端な裁ち落とし部分が全くない

・江戸時代中期になると「米安の諸色高」になった。米価が安値で安定する一方で、諸色(米以外の商品)が高値で安定するようになった。気候風土に合って儲かる商品作物(穀物、茶、桑、漆、楮、麻、紅花、藍、綿、菜種、煙草など)に力を注いだのは当然だった

・江戸時代の農民は四公六民(年貢率40%)といっても、それは、米、麦、大豆などの作物を米に換算した量だけにかかるので、商品作物、養蚕、機織り、出稼ぎなどの収入は対象外だったから、実際には税率は10%~20%くらいだった

・216品種の物産を列記した「大日本産物相撲」や132種類の「諸国名物類衆」を見れば、全国各地に多種多様な産物が育っている。これだけの産物があれば、国内の特産品の交易だけでも、かなりの利益を生み、よその国に植民地を作らなくても十分にやっていけた

・冷凍保存できなかった時代、「川活け」という夏場の鮮魚供給方法を利用した。獲った魚を、船の生簀に入れて生かしおき、それを海岸にある活船という大型の生簀に入れて飼い、早朝に出荷して、生きのいい状態で運んだ

・「野菜は四里四方」、土地によっては二里四方という場合もある。人がかついで運ぶか、馬で運んでいた時代、消費者のいる場所から馬を引いて2、3時間でいける片道二里か三里(8~12㎞)以内の農村でなくては新鮮な野菜を供給できなかった

・初物の値段が高くなりすぎたため、生椎茸は正月以後、タケノコは四月以後、なすは五月以後などというように、町奉行所が初物の売出し時期を制限した

・江戸時代には石鹸を工業生産していなかった。洗剤として昔から使っていたのは、木灰を水に溶かした上澄み液の灰汁や、ムクロジ、トチなどの実、フノリや野菜の煮汁だった


燃料がないならないで、工夫して代用品を上手に開発していたのが、江戸時代の人々です。しかも、それらの品は、すべて自然のモノでした。

鎖国していたからこそ、知恵がわいたのかもしれません。頭の良さは逆境に反比例して発揮されるものだと、この本を読んで感じました。

そういう意味で、貧乏を楽しむ余裕があったのが、江戸時代であったということではないでしょうか。
[ 2012/06/16 07:02 ] 江戸の本 | TB(-) | CM(0)

『江戸川柳便覧』佐藤要人

三省堂 江戸川柳便覧三省堂 江戸川柳便覧
(1998/09)
佐藤 要人

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江戸の庶民の日常や人情の機微を知るのに、一番役立つのが川柳だと思います。江戸の庶民が何を考え、何を思っていたのか。今と変わらない心情とは何か。

それらを確かめるために、本書を手に取りました。この本には、江戸の代表的な川柳が700収められています。その中から、江戸庶民のお金に関わる心情を中心に、紹介させていただきます。


・「水茶屋へ来ては輪を吹(ふき)日をくらし」
水茶屋では茶汲み女に奮発しないともてないのに、茶を飲み、煙草をふかして、一日中、ねばっている

・「盗人にあへばとなりでけなるがり」
隣りの家が、盗人に入られて金品をとられた。うちも盗人に狙われるような身分になりたいものだと、羨ましがっている

・「新見世(しんみせ)といへばわづかな欲を買(かい)」
新規開店の店が、記念の景品をくれるというので、欲にかられて買いに行くという、今も昔も変わらぬ人情

・「役人のほねつぽいのは猪牙(ちょき)に乗せ」
清廉潔白な役人で、こちらの思うように動いてくれないのは、猪牙舟に乗せて、吉原に連れ出し、女性関係を持たせる

・「かるたの絵我敷島の道ならで」
貧しい京都の公卿たちは、家計の足しに、かるたの絵描きに専念した。敷島の道(歌道)に精進すべきなのに、かるたの絵描きに熱中しなければいけない生活に同情を寄せている

・「枕めし嫁がしやくしの取はじめ」
姑が亡くなり、その枕に供える枕飯を盛りつけるのが、その家の家計の実権を握る初め

・「みつものを下女は直斗(ねばかり)聞て見る」
お金のない下女は、古着を、買おうという段になると、しきりに値段ばかり聞いてくる

・「ごみごみの中の白かべしち屋なり」
ごみごみした貧しげな家並みの中に、白壁の土蔵が際立って見える。これは、質屋で、この町の貧しい人たちを相手に商売して、家産を増やしている

・「またぐらをぱつかり明けて是が勝」
丁半賭博に、女が混じり、立膝をつかれると、男の勘が狂ってしまい、場銭をさらわれる

・「相しやうは聞たし年はかくしたし」
相性を見るには、年頃の娘でも、自分の生まれた年月を正直に言わなければならない

・「ごふく屋で色の黒いはしよつて出る」
大きな呉服店に並んでいる手代たちは、店の中に居て、日射しに当たらないから、みな色白。色の黒いのは、呉服を背負って、得意先を回る外回りの手代

・「あご斗(ばかり)のきに残ると人はちり」
アンコウを吊るして、包丁一本でおろしていく。面白いので、通行人は寄りかたまるが、全部おろし終えて顎ばかりになると、人々は散って行く

・「はずかしさいしやへ鰹の値が知れる」
鰹にあたって医者を呼ぶはめに。医者に、状況を聞き出され、値段の安い古いものを買って食べたことを白状しなければならない

・「見ましたは細おもてだともめる也」
見合いの替え玉はよくある手で、不徳な仲人の常習手段であった

・「蚊や釣った夜はめづらしく子があそび」
初めて蚊帳を吊った夜、新鮮な感じで、いい気分になるが、子供が寝つこうとしない

・「おのれまあいつこかしたと土用干」
土用干し(箪笥の中の衣服を全部出して風を通す)で、母親が息子の衣料が少なくなっていることに気づき、いつの間に質入れしたと詰問している。息子は今遊び盛りの年頃

・「大わらい富場でしやくしおつことし」
杓子持参(富がつくという俗言)で富札(宝くじ)を買いに行ったら、懐の杓子を落としてしまい、「欲の深い野郎」だと、その場の人たちから大笑いされた

・「なきなきもよい方をとるかたみわけ」
泣きながらも、形見分けをもらう段になると、少しでも値打ちのありそうなものを選ぶ



われわれの祖先も、人間の欲やお金への執着心に取り憑かれていたことを思うと、滑稽でもあり、当然のこととも思われます。

川柳は、江戸時代の庶民の悲しき性を知ることができます。つまり、本書を読むと、愚かな自分を慰める材料になるのではないでしょうか。
[ 2012/04/07 07:01 ] 江戸の本 | TB(0) | CM(0)

『江戸秘伝・職養道のすすめ』佐藤六龍

江戸秘伝 職養道のすすめ (講談社プラスアルファ新書)江戸秘伝 職養道のすすめ (講談社プラスアルファ新書)
(2007/10/19)
佐藤 六龍

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江戸時代、「九流之術師」と呼ばれていた医師、易者などの職業(人間の精神的な部分に働きかけ、目に見えない技量を売り込み、信用を得る職業)には、秘伝の「職養道」という仕事上の心得(アピール能力、ビジネス感覚など)があったそうです。

著者は、占術家であり、漢方専門薬局の経営者でもあります。古くから、占術の世界に飛び込み、師匠から職養道を伝授された方です。

職養道という江戸ビジネスの教えは、現代にも十分に通用するものばかりです。「本の一部」ですが、紹介させていただきます。


・「同業者の悪口は言うなかれ」(第一条)

ライバル業者が話題になったら、まずは相手のことをほめる。大事なポイントは、言葉の最後の語勢をスーッと弱めていき、お客に裏腹のもの(疑念)を感じとってもらうこと

反目し合って悪口を言い合っていたら、喜ぶのは、ニュースにありつける一部のマスコミだけ。やがて、そっぽを向かれ、それぞれの人気は衰退する

・「一切の弁解をするなかれ」(第二条)

お客が文句を言うのは、まだ「縁」があるから。もう一度頼みたいという心のつながりが残っている。頼まないなら、文句も言わない。この縁を大切にするには弁解しないこと

・「思いやりは全身全霊で見せろ」(第三条) 

相手の心を震わせ、病気や心の患いや貧困を蹴散らす力を与えるのは、全身全霊を傾けた思いやり。心からの捨て身の共感を見せることによって、人間の閉ざされた心は開く

・「嘘はついてもだますなかれ」(第五条)

相手を納得させるためには、嘘、ハッタリ、ごまかしなどの手段を使うが、だましてはいけない。だますことは、信頼を失うということ

・「仏壇を見よ」(第六条)

仏壇によって、信仰の種類や深さ、経済状態、その家の信条がわかる。そのあたりが飲み込めれば、相手にすすめる商品の等級や種類がわかる。今なら、ガレージの車、玄関に飾っている絵などの知識があり、それで会話ができれば、全幅の信頼を寄せてくれる

・「笑顔は売り物と心得よ」(第九条)

誇りを持つということが自信のある顔をつくり出す。誇りの持てないことをやっても「いい顔」はできない

お客が「では」と腰を浮かしたタイミングで、何か一言、いいことを言ってあげて、にっこり笑ってあげる。この帰り際の一言が効く

易者仲間では、相手の表情が変わったら要注意と言われている。人間の顔の変化は「滅に進むもの」、変わったなと感じたら悪い方向に行く。顔から得るもの、失うものは自分が考える以上に大きい。人に接するとき、顔のチェックは忘れないように

・「恩は売り買いするものにあらず」(第十条)

師の恩は恩と感謝しても、こと仕事に関してはライバル同士。シビアな関係を保ち、お互い切磋琢磨していくこと。情が移るのは商売の邪魔。親類縁者とのつき合いも制限

・「妖気ある人物とつき合え」(第十二条) 

成功をおさめた人は、若い時分に、妖気をたたえた(オーラのようなもの)人物との出会いがある。波長が合う妖気漂う人の近くにいれば、自分の身体にもそれが浸透する

・「仕事の成否は段取り次第」(第十五条)

見かけを演出するための小道具を用意。ちょっとしたタイミングを見計らって、それらを取り出す。何かを確認する素振りを見せると、さすがプロとばかり、相手の態度も変わる

・「客を集めてこその職養である」(第二十条)

街占の易者で、通りすがりの人を呼び止める名人は、これはという客を見つけたら、遠くからでも相手を目でとらえ、ずっと見続ける。相手がこの視線に気づけば、目があった瞬間に「にっこり」して、これで決まり


これらの職養道は、証明できないことも多いのですが、ほぼ当たっているように思います。また、弟子たちが、師匠からの教えを守って成功を収めてきたことを考えると、職養道は、信じるに値するように思います。

特に、人と接して、付加価値の高い商売をされている方は、本書が参考になるのではないでしょうか。
[ 2012/04/04 07:00 ] 江戸の本 | TB(0) | CM(0)

『江戸のお金の物語』鈴木浩三

江戸のお金の物語 (日経プレミアシリーズ)江戸のお金の物語 (日経プレミアシリーズ)
(2011/03/09)
鈴木 浩三

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江戸の生活と物価に関する本は数多く出版されていますが、江戸時代の貨幣制度や貿易など、経済学的側面に真面目に切り込んだ一般書は、少ないように思います。

この本は、そういう意味で、真面目すぎる本なのかもしれません。気になった箇所が数多くありました。「本の一部」ですが、紹介させていただきます。


・「東の金遣い、西の銀遣い」と言われるように、大坂・京都などの上方や、日本海沿岸、中国・九州地方では主に銀が通用していた。関東や東国は金の通貨圏であった。日本列島は大きく金と銀の経済圏に二分されていた。ただし、銭は全国共通で通用していた

・金貨・銀貨・銭がそれぞれ対等の本位貨幣として通用することを三貨制と言う。このような例は世界でも珍しい。しかも、金は額面通りで通用する計数貨幣、銀は秤量貨幣だったので、カネの勘定方法も上方と関東では異なった

・江戸では銀相場が安いとき(金高銀安)に上方から商品を買うのが有利だった。逆に、大坂では金相場が安いとき(金安銀高)に江戸方面に売却すると得になった。だから、大きな商人ほど金銀相場銭相場の動向に敏感だった

・一文銭貨96枚をさし(銭の穴に通す麻や藁で作った縄)で通したものが百文として通用していた。そうした名残りで、現在の50円と5円硬貨も伝統的に穴が空いている

・金、銀、銭が同時に流通する市場の中で、三貨のバランス調整とともに、物価対策を行うための通貨供給量のコントロールを行っていた

・井原西鶴の「世間胸算用」では、「銀が銀儲くることばかりなり」と記されているように、お金を溜め込むだけでなく、カネがカネを生み出すこと、つまり貨幣は資本なのだという認識が人々の常識になっていた

・大坂の両替商は、手形の決済業務も盛んに行われていた。両替商同士で互いに手形を振り出し合って相互に決済することも一般的だった

・不渡手形を発行した両替商には入牢などの罰則、手形に偽印を使用した者は斬罪にするなど、幕府(大坂の東西町奉行所)も信用制度の保護に努めた。また、手形訴訟についても、他の訴訟と異なり、スピード審理を制度化していた

・享保八年(1723)には、1000石以内の先物取引が解禁され、翌年には禁止していた空米取引の黙認、1730年には、空米取引が公認された

・株の譲渡は、単なる営業権の移転にとどまらず、事業のノウハウや得意先、場合によっては従業員も含む一つのまとまった経営単位を対象とした取引だった。そうしたことが日常的に行われていた江戸時代は、M&Aの時代であった

・田沼意次の時代になると、営業の独占を幕府が保証する代わりに、冥加金運上といった間接税を幕府に納めるようになった。しかし、これが、次第に利益擁護の機能を強め、販売価格を一方的に決め、新規参入を妨げるようになった

・松平定信が行った寛政改革の一環として設立された「七分積金」の制度は、江戸の庶民向けの備荒貯穀=囲籾や、土地を担保にした低利融資の原資、低所得者向けの生活保護の財源になった

・三井高利が書いた「町人考見録」の中で、借金踏み倒しの常習犯だったのが、肥後の細川家。「細川家は前々から不埒なる御家柄にて、度々町人の借金断りこれあり」と名指ししている。「信用度ゼロの細川家」だった

・江戸の質屋の利率が最初に公定されたのが元禄十四年(1701)。このとき銭百文は年利50%、金二両以下は年利32%、金百両以上は年利20%と定められた

・享保期(1716~36)になると、領主が米の増産に努めても貨幣収入は増えなかった。作れば作るほど、米余りになって、米価は下がって物価は高騰した。これが「米価安の諸色高

・田沼意次は、貿易赤字を黒字に転換するための輸出品を全国で組織的に生産させるだけでなく、そこで得られた清国銀貨を国内通貨の原料にするなど、国内生産と海外貿易をリンクさせた「成長戦略」をとったのが特徴

・元禄の貨幣改鋳の狙いの一つは、長崎貿易での金銀流出を抑えることであった。オランダ人が慶長小判をバタビア(インドネシアのジャカルタ)に運ぶと20%の利益になったのが、元禄小判では逆に19%の赤字となった

・大名たちにとって、明治維新の新政権は、とてもありがたい政府だった。というのは、一定の身分保証とともに、夢にまで見た債務の帳消しどころか、石高の10%を家禄として保証されたから


いつの世もお金と人間に関する話はつきないものです。でも、江戸時代のお金に関する諸制度は、今の時代とほとんど変わらない、高度なシステムで運営されていたことがわかります。

ある意味、日本の金融制度は、江戸時代からほとんど発展していないのかもしれません。そういった思いを喚起させてくれる本でした。
[ 2012/03/13 07:08 ] 江戸の本 | TB(1) | CM(0)