ディズニーランドやUSJも人を集めていますが、古の昔より、人が集まる娯楽の場所は、「
花」「
寺」「
風呂」です。その中の「寺社」について、江戸時代はどのように繁昌していたかを調べた書です。
・本書には、群れ集う日本人のDNAの軌跡が記されているように思います。興味深い箇所が数多くありました。それらの一部を要約して、紹介させていただきます。
・神仏に参詣するという大義名分を果たした後、見る、聞く、味わう、買う、といった庶民の楽しみが何でも揃っていたのが
門前の繁華街。昔は、「呑む」「打つ」「買う」などのちょっと危ない楽しみもあった
・
神仏をダシにしてうごめいた、さまざまな人々が生み出した混沌としたエネルギーが、寺社を堕落させるほどに活き活きと盛んにし、門前に活気をもたらした
・昔は、女性にとってお産は人生最大の難事の一つ。母子ともに死亡率は高かった。人口密集地江戸では、毎日たくさんの赤ん坊が生まれていたから、
安産の神様が頼りにされたのは当然。安産や子育ての御利益を求めて参詣する神仏がいくつも繁昌していた
・慢性的な財政難で金欠状態にいた江戸時代の大名たちが、神仏のお金をありがたく拝借するというのは、この時代の世のならわし。
お賽銭の上がりをあてにしていた
・
金毘羅信仰は武士にも広まった。将軍や大名も現世利益を求め、後生の平安を願って寺社詣に熱中した。武士も、武芸や学問の上達とか、出世コースに乗りたいとか、
お金がほしいとかで信心に励んだ
・金毘羅社の熱心な信者の圧倒的多数は、町人、職人などの庶民。そして、鳥居建立のために寄付した人々は、貧乏に苦しんで金運をお願いした人たちではなく、むしろ、商売がうまくいって
金運をつかんだ幸運な人たち。金毘羅さんがかつぎ上げた元気のいい信者
・金毘羅大権現、水天宮、妙見尊、稲荷神など、それぞれのゆかりのある神仏を邸内に祀り、門を開いて
賽銭稼ぎをした。藩邸の側で手を回して、瓦版や口コミを使い、フィーバーを演出することに手を貸していた
・金毘羅さんが江戸下町の庶民の心をつかんだのは、開運福徳や家業繁昌の御利益。神紋が「金毘羅」の「金」を丸で囲んだ
マルキン印。マルキンはお金の符丁だから、庶民にとっては金運のシンボルのように思われた
・弁才天をもっぱら福神として敬う信仰が盛んになると、「才」の字の代わりに「財」の字をあて、
弁財天と書くようになった
・「江戸名所図会」では、弁天堂を囲むように、ずらりと茶屋らしい建物が並んでいる。境内には、行楽客に酒食を出す
小料理屋やラブホテルに類する
出合茶屋まであった。そして、初夏には、グルメの楽しみとして、茶屋の蓮飯がここの名物となった
・江戸っ子たちは、浅草の観音参詣のついでに石像を踏みつけた。「踏みつけ」が「文付け」に通ずるところから、
ラブレターを堂におさめれば願いが叶うというので評判になった
・抜け目のないのは商人や職人だけではなかった。お坊さんも結構さばけていた。浅草寺の餅屋に看板を書いてやったり、本堂の近くに店を開くことを許してやったり、願掛けのさいに必要な
御利益グッズを売り出したりした
・浅草寺の
境内の猥雑さが、この寺に活気をもたらし、それがまた寺だけでなく、浅草という地が人を引きつける魅力になった。寺裏から1㎞も離れていない場所に、吉原の遊郭が移ってのちは、浅草の町は、アミューズメントセンターとしての魅力を高くしていった
・昔はお
酉様の熊手を買う者は、ほとんどが遊女屋・茶屋・料理屋・船宿・芝居など、縁起をかついだり、景気をつけたりすることの多い水商売の人たちに限られていた。正業の家では家内には飾らなかった
・
鼠小僧の墓を信心の対象としたのは、明治の初めころ。芝居の役者だけでなく、政府や東京府の官員から相場師、芸者、商品ブローカーといった人々に熱心な信者が多かった
・
信仰のフィーバーをつくり出すために、成田不動尊の霊験を物語る不思議な体験談や出来事・エピソードが口コミで巷に伝えられた。不動尊の僧侶も、ありがたい不動尊のマカ不思議な霊験を物語り、宣伝につとめていた
・閻魔王にお願いすれば地獄から救われて極楽に行くことができるというのが
閻魔信仰。閻魔を信仰しなくなった現代でも、眼病治癒の御利益だけが有名になって残っている
本書は、江戸の繁昌している寺社のいわれや歴史を調べ、それを浮き彫りにしています。それはある意味、現在の純粋な信仰の妨げになるのかもしれません。
しかしながら、人々の信仰エネルギーが場のパワーに昇華されていくプロセスは、大変面白く読むことができるのではないでしょうか。