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「・・・とは」の哲学

『江戸しぐさに学ぶおつきあい術』山内あやり

江戸しぐさに学ぶ おつきあい術江戸しぐさに学ぶ おつきあい術
(2013/06/25)
山内あやり

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江戸しぐさに関する本を紹介するのは、越川禮子さんの「江戸の繁盛しぐさ」「暮らうるおう江戸しぐさ」に次いで3冊目です。著者は、その越川禮子さんのお弟子さんです。

江戸しぐさには、人との関係、社会との関係を円滑に保つ姿勢が詰まっています。今回は、以前紹介した「江戸しぐさ」を除いて、まとめてみました。



・「あいづちしぐさ」は、相手が話しやすい環境をつくることが第一、という意味。話させ上手こそ聞き上手。「間合いのいい相づちを心がける」こと

・「芳名覚えのしぐさ」は、本名をあえて聞かない交流のコツ。江戸の人々は、さまざまな身分や立場の人が集う場で、いきなり名前を聞くのは野暮で、自然に知る機会を待ち、誰かが呼んだその名前で話しかけた

・「のん気しぐさ」は、すべて努力をした後は、天の意思にまかせて前向きな心持ちでいましょうということ。江戸商人の心得は、一にやる気、二に根気、三にのん気、と言われた

・「世辞が言えて一人前」は、相手への心遣いを言葉にして伝えよ、という意味。世辞=大人らしいもの言い。世辞は社会人の挨拶として、円滑なお付き合いには欠かせない心配り

・「聞き耳しぐさ」は、聞き耳を立てるつもりはなくても、自然と耳に入ってきたことに対して、知らないふりをするやさしさのこと。江戸っ子は、“聞こえなかった”ことにして、すべてを胸の内におさめ、むやみに他言しなかった

・「三脱の教え」は、年齢・職業・地位など、人を肩書きという先入観で決めつけるのではなく、その人の本質を見極めよ、という教え

・「この際しぐさ」は、大火事や自然災害など、いざというときに備え、ここぞというときに臨機応変に対応すること。それは、物事の道理をわきまえ、規律をしっかりと身につけた者だからこそ逸脱できる業。型ある人の型破り

・「結界わきまえ」は、自分の立場や身の丈を把握し、人の領分まで侵してはならないという心得。他人と自分には、目に見えない境界線が引かれており、この“見えない一線”をどう守るかが、人付き合いでは重要と考えていた

・「けんかしぐさ」は、喧嘩のときの暗黙のルール。万が一手をあげるまで発展しても、頭や顔面はなどの急所をつく卑怯なやり方はしない。周囲の人は、どちらかに弱みが出たら、仲裁に入って止める。そして、必ず仲直り。仲直りすることまで含めて「けんかしぐさ」

・「へりくだりしぐさ」は、相手を立てることを第一に考えるという意味。相手に敬意を払わない人は、誰からも尊重してもらえない。相手を立てていれば、やがて自分も立ててもらえる。誇り高く自分をへりくだれる人には、自然と人は集まってくる

・「八度の契り」は、八回の約束を果たし合うほど、時間をかけて相手を見極めながら、ゆっくりと付き合いを深めていくのが好ましいという意味。本性を見せ、本音を言い合える相手は、そうそういないもの

・「刺し言葉・手斧言葉」は、決して人に言ってはならない言葉。話の腰を折るようなトゲのある言葉(「それで?」「それだけ?」など)と相手を不快にさせる断定的な言い回し(「所詮」「どうせ」など)、そして、乱暴な言葉(「うるさい!」「馬鹿!」など)のこと

・「陰り目しぐさ」は、こちらまで暗い気分になるような陰気な目つきのこと。商人が、目に力なく、沈んだ表情で店に立っていたら、お客さんは居心地も悪く、買う気も失せる。無意識の一瞬の暗い表情でも、意外に人に見られているので、気をつけろ、という教え

・「後ろつつき」は、気づかないうちに人に危険を与えている迷惑行為のこと。自分の視線が届かない後ろにこそ、細心の注意を払い、人への心遣いが必要という意味

・「朝飯前・傍楽・明日備」は、商家の一日の過ごし方。朝ご飯を食べる前に、簡単なことをこなし、仕事中は、人を楽にするために動き、夕刻になると、明日に備えるという意味

・「小意気・小奇麗・小確り」は、外見も内面も美しい「江戸小町」の条件。生き生きとして元気がよく、サッパリとした装いと身だしなみがお洒落で、凛々しい立ち居振る舞いのできる女性が憧れの対象だった

・「三つ心・六つ躾・九つ言葉・十二文・十五理で末決まる」は、江戸の段階的養育法。世間に出しても恥ずかしくない人間になるように、当時の成人年齢15歳を節目に段階を区切って育てた



法の支配が弱かった江戸時代、大都市で、人々が円滑な関係を築くには、法よりも道徳が必要でした。その大都市の道徳こそ「江戸しぐさ」です。

この「江戸しぐさ」の数々は、現代でも通用することばかりです。マナーとして、知っておけば、誰でも、素敵な人になれるのではないでしょうか。


[ 2014/05/09 07:00 ] 江戸の本 | TB(0) | CM(0)

『歴史の愉しみ方-忍者・合戦・幕末史に学ぶ』磯田道史

歴史の愉しみ方 - 忍者・合戦・幕末史に学ぶ (中公新書)歴史の愉しみ方 - 忍者・合戦・幕末史に学ぶ (中公新書)
(2012/10/24)
磯田 道史

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テレビの歴史番組出演や新聞への執筆などで大忙しの著者の本を紹介するのは、「日本人の叡智」に次ぎ2冊目です。

本書は、読売新聞に掲載されたエッセイなどを加筆修正したものです。本書には、古文書解読に長けた著者ならではの面白い見解が数々あります。それらをまとめてみました。



・明治維新にいたる日本人の歴史意識は頼山陽の「日本外史」が作った。ちなみに、この200年、国民歴史意識への最大影響者は、頼山陽徳富蘇峰司馬遼太郎と推移してきた

・薩摩は日本の例外。薩人は、これから起きる事態を事前に想定し、対処することに長けていた。薩人には、「もし、こうなったら」と予め考えておく「反実仮想」の習慣があった

・「反実仮想」の教育は、戦国時代は広く行われていた。文字に乏しかった戦国の日本は、粗野ながら、話し言葉で、人を教え、実践的な知恵をつける術を、しっかりと持っていた。しかし、江戸時代になると、武士の教育は四書五経の暗記のような形式主義に陥った

・幼少期に、仮想してみる頭が鍛えられることは、とても大きい。想定外が想定内になってくる。このことが、今の日本に大切である

・岩村藩はマニュアル藩といってよいほど規則の好きな藩。教科書に載る「慶安のお触れ書」は、岩村藩が農民の生活マニュアルとして領内に配ったことで全国に広がった。岩村藩にいた佐藤一斉の書いた「重職心得箇条」は、現代の日本人にも深く影響を与えている

・マニュアル(成文化された手順書)どおりに、規格的に動くあり方は、江戸中期から一層はなはだしくなる。古くからのマニュアル好きの国民性は、他に決めてもらうばかりで、自分で考えなくなるから、そこのところはよく心しなければならない

・外国人は、日本の弱点をよく見ている。日本人は江戸時代の軍事官僚の政権に支配されてきた「厳しく躾けられた政府への服従に慣れた国民」で、「治める者と治められる者が同じ原理」の議会の使い方が不得意であると見られている

・英国人女性イザベラ・バードは、明治初年に日本各地を旅行し、公共事業の無駄が多いことに驚いている。「日本行政の縮図がここにある。公共のお金が大勢の役人によって喰い尽されている」「日本の官僚主義はお金に関する限りあてにならない」と言っている

・胎盤のことを古くは「胞衣(えな)」といった。日本人ほど臍の緒と胎盤に執着する民族はない。天皇の胎盤は呪術的に扱われる一国の安危に関わる重大事であった。秘かに吉田神社境内の、宇宙の中心とされる八角堂大元宮の東南東八間の地点に集中的に埋められた

・日本中の縄文遺跡から「貯蔵穴」が出てくる。食料の残量を知っておくことは、死ぬか生きるかの分かれ道になる。ドングリやら干し肉の残量を計る原始的経理が存在し、うまく計れたものが生き残ったと思われる。貯蔵穴は、我々の祖先の経理の証拠

・奈良時代になると律令国家ができて、民部省に主計寮がおかれた。職員定員は40人弱。これで朝廷の中央財政の収支決算を行った。税を扱うのは主税寮で、同じく40人弱がおかれた。主計と主税という現代の財務省の区分はこのとき明文化された

・加賀百万石には領民100万人の広域行政を行うため、150人の「御算用者」というソロバン専門家の部隊が編成されていた

・近代国家の学校制度は一種の国民総参加の「すごろく」で、「あがり」は高級官僚。エリート官僚になって階級移動をとげた人々は、自己の成功体験から学校を崇拝した

・江戸前期の急速な人口・経済成長を停止させたのは、宝永地震と富士山噴火。西日本沿岸部の干潟干拓による新田耕地増で、米が猛烈に増産され、干拓バブルが起こったが、1707年、南海トラフが動き、宝永地震が発生。西日本の低地を津波が襲い、大被害となった

・南海トラフは、100年に1度の大地震・大津波、500年に1度の大連動する超巨大地震・超巨大津波を起こす。500年に1度が最後に襲ったのは、室町時代の1498年。このとき、鎌倉大仏の大仏殿は押し流され、淡水湖の浜名湖は砂丘が破壊され、海水湖となった

・徳川家の男の子には、「乗馬と水練だけはしっかりするように」という家康が申しつけた掟がある。家康の教えは、「敵を斬り払うのは家臣の役目、大将は逃げることだけを心掛ければよい。逃げるのは他人に代わってもらえない」というもの

・関ヶ原の戦いで、島津軍は、身分ある武士もみな「腰さし鉄砲」を用意し、大量の銃で徳川の要人を死傷させた。そのことが、家康を恐怖させ、薩摩征服をあきらめさせた



歴史の裏側から、歴史の真実を見る著者の分析には、はっと驚かされ、気づかされる点が多々あります。

本書にも、歴史の真実を通して、現代を生き抜くヒントが、たくさんあったように思います。


[ 2013/12/20 07:00 ] 江戸の本 | TB(0) | CM(0)

『大江戸寺社繁昌記』鈴木一夫

大江戸寺社繁昌記 (中公文庫)大江戸寺社繁昌記 (中公文庫)
(2012/10/23)
鈴木 一夫

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ディズニーランドやUSJも人を集めていますが、古の昔より、人が集まる娯楽の場所は、「」「」「風呂」です。その中の「寺社」について、江戸時代はどのように繁昌していたかを調べた書です。

・本書には、群れ集う日本人のDNAの軌跡が記されているように思います。興味深い箇所が数多くありました。それらの一部を要約して、紹介させていただきます。



・神仏に参詣するという大義名分を果たした後、見る、聞く、味わう、買う、といった庶民の楽しみが何でも揃っていたのが門前の繁華街。昔は、「呑む」「打つ」「買う」などのちょっと危ない楽しみもあった

神仏をダシにしてうごめいた、さまざまな人々が生み出した混沌としたエネルギーが、寺社を堕落させるほどに活き活きと盛んにし、門前に活気をもたらした

・昔は、女性にとってお産は人生最大の難事の一つ。母子ともに死亡率は高かった。人口密集地江戸では、毎日たくさんの赤ん坊が生まれていたから、安産の神様が頼りにされたのは当然。安産や子育ての御利益を求めて参詣する神仏がいくつも繁昌していた

・慢性的な財政難で金欠状態にいた江戸時代の大名たちが、神仏のお金をありがたく拝借するというのは、この時代の世のならわし。お賽銭の上がりをあてにしていた

金毘羅信仰は武士にも広まった。将軍や大名も現世利益を求め、後生の平安を願って寺社詣に熱中した。武士も、武芸や学問の上達とか、出世コースに乗りたいとか、お金がほしいとかで信心に励んだ

・金毘羅社の熱心な信者の圧倒的多数は、町人、職人などの庶民。そして、鳥居建立のために寄付した人々は、貧乏に苦しんで金運をお願いした人たちではなく、むしろ、商売がうまくいって金運をつかんだ幸運な人たち。金毘羅さんがかつぎ上げた元気のいい信者

・金毘羅大権現、水天宮、妙見尊、稲荷神など、それぞれのゆかりのある神仏を邸内に祀り、門を開いて賽銭稼ぎをした。藩邸の側で手を回して、瓦版や口コミを使い、フィーバーを演出することに手を貸していた

・金毘羅さんが江戸下町の庶民の心をつかんだのは、開運福徳や家業繁昌の御利益。神紋が「金毘羅」の「金」を丸で囲んだマルキン印。マルキンはお金の符丁だから、庶民にとっては金運のシンボルのように思われた

・弁才天をもっぱら福神として敬う信仰が盛んになると、「才」の字の代わりに「財」の字をあて、弁財天と書くようになった

・「江戸名所図会」では、弁天堂を囲むように、ずらりと茶屋らしい建物が並んでいる。境内には、行楽客に酒食を出す小料理屋やラブホテルに類する出合茶屋まであった。そして、初夏には、グルメの楽しみとして、茶屋の蓮飯がここの名物となった

・江戸っ子たちは、浅草の観音参詣のついでに石像を踏みつけた。「踏みつけ」が「文付け」に通ずるところから、ラブレターを堂におさめれば願いが叶うというので評判になった

・抜け目のないのは商人や職人だけではなかった。お坊さんも結構さばけていた。浅草寺の餅屋に看板を書いてやったり、本堂の近くに店を開くことを許してやったり、願掛けのさいに必要な御利益グッズを売り出したりした

・浅草寺の境内の猥雑さが、この寺に活気をもたらし、それがまた寺だけでなく、浅草という地が人を引きつける魅力になった。寺裏から1㎞も離れていない場所に、吉原の遊郭が移ってのちは、浅草の町は、アミューズメントセンターとしての魅力を高くしていった

・昔はお酉様の熊手を買う者は、ほとんどが遊女屋・茶屋・料理屋・船宿・芝居など、縁起をかついだり、景気をつけたりすることの多い水商売の人たちに限られていた。正業の家では家内には飾らなかった

鼠小僧の墓を信心の対象としたのは、明治の初めころ。芝居の役者だけでなく、政府や東京府の官員から相場師、芸者、商品ブローカーといった人々に熱心な信者が多かった

信仰のフィーバーをつくり出すために、成田不動尊の霊験を物語る不思議な体験談や出来事・エピソードが口コミで巷に伝えられた。不動尊の僧侶も、ありがたい不動尊のマカ不思議な霊験を物語り、宣伝につとめていた

・閻魔王にお願いすれば地獄から救われて極楽に行くことができるというのが閻魔信仰。閻魔を信仰しなくなった現代でも、眼病治癒の御利益だけが有名になって残っている



本書は、江戸の繁昌している寺社のいわれや歴史を調べ、それを浮き彫りにしています。それはある意味、現在の純粋な信仰の妨げになるのかもしれません。

しかしながら、人々の信仰エネルギーが場のパワーに昇華されていくプロセスは、大変面白く読むことができるのではないでしょうか。


[ 2013/10/20 07:00 ] 江戸の本 | TB(0) | CM(0)

『武士マニュアル』氏家幹人

武士マニュアル (メディアファクトリー新書)武士マニュアル (メディアファクトリー新書)
(2012/04/27)
氏家幹人

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本書は、武士道といった堅いものではなく、武士の現実的な世渡り術を集めたものです。その中身は、現代のサラリーマン処世術となんら変わりありません。

むしろ、武士という身分にしがみつこうとする涙ぐましい努力に、滑稽さを感じてしまうくらいです。現代にも役立つマニュアルの一部を要約して、紹介させていただきます。



・「番頭組頭又伴頭の子供親類近付いて居よ」(番頭とその配下の組頭、さらにその下の伴頭。これら上司とうまくやっていくためには、彼らの子供や親類と親しい関係を持つこと)

・「頭衆へ見舞は月に一度なり、寒暑非常の見廻外なり」(職場の上司に対しては、月一度のご機嫌伺いのほか、寒中見舞い・暑中見舞いに参上し、さらに火事などの非常時にも見舞いを欠かせてはいけない)

・「男子をば八才以後は常袴、行儀作法を教育せよ。手習と読書の道を急ぐべし、無事無学はならぬ役人」(武士の子は、8歳になったら身なりを正し、行儀作法を躾けること。さらに、習字と読み書きを疎かにしてはいけない。無教養では、幕府の役人は務まらない)

・「十五才前の武術は無益なり。腕が弱くて術も叶わず」(武術は15歳になるまで始めてはいけない。筋肉の発達が不十分な子供に武術を鍛錬させても上達しない)

・「大用場立とき帯ゆるまりて、脇差落とす事も切々」(トイレで排泄を終えて立ち上がるとき、帯がゆるんで脇差が落ちてしまうことがあるので要注意。糞尿に浸った脇差を差しているという噂が広がったら、家の名誉も武士の面目もまるつぶれ)

・「在番は碁将棋立花俳諧に、何ぞ小細工好暮らせよ」(在番中の宿舎での退屈しのぎには、碁、将棋、華道に俳句と、趣味の模型作りなどがおすすめ)

・「下々を月に一度は暇やれ。使に出て脇よりをせず」(下々の者だからといって、月に一度くらい休暇をやらないと、使いに出されたとき、寄り道をしがちになる)

・京や大坂の者たち、なかでも風俗営業の者たちは、商売上手だから、騙されないように気をつけること。また、初めて赴任した者は先輩たちからいろいろとイジメられるもの。気にせずゆったり構えること。初対面なのに親切な人も本性が悪いから要注意(思忠志集)

・「乗下りと又あつかひの安さとて小馬を好む人は拙し」(乗り降りが容易で扱いやすいからといって、小さな馬を好むのは、駄目な武士)

・「武士の足ふみのべてあほむきに寝ては勝負に勝たぬものかな」(武士たる者は、足を伸ばして仰向きに寝てはならない。そんな緊張感のない者では勝負には勝てない)

・「人は相手によりて怒りも出来、恨みも有るものなり。手前の理暗さに、先方の思はぬ事をも我が心のひがみにて思ふらん」(理由は相手ではなく、本人の心にある。心のひがみから相手の言動を悪く勘ぐり、相手に悪意がないのに腹を立て、恨みを抱いてはいけない)

・「主人の御気に入るべきとつとむるは悪し。御気に違はず仕損なひをせぬ様にと可勤事なり」(主人に気に入られようと努めるのはよくない。気に入られようとするのではなく、機嫌を損ねたり、しくじりのないように努めるべきだ)

・「家内庭の掃除も、端々人の見ぬ所に気を付け掃除すべし。雪隠猶更きれいにするものなり」(家の中でも庭でも、人目につきにくいところまで気をつけて掃除をすべきだ。トイレはなおさらのこと。汚いところは掃除しないといっそう汚くなってしまう)

・「平士の肥満しては歩行立の用に立たずとて、強く腹帯をし固め、食に心を付ぬれば、肥満を遁れたり」(上級の武士ならともかく、歩行で務める平士の身で肥満になったら役に立たない。腹帯をきつく締め、食事に気をつけて肥満にならないように努めること)

・「衆座に禁ずべきは、食物の噂、雑務の噂、毎物巧者ぶりたる咄、色欲の噂、自慢らしき事」(多くの人がいるところで言ってならないのは、食べ物や訴訟の噂。知ったかぶりで話すのも、エッチな話題、自慢話も禁物)

・「物を問ひかけられ候時、延引にて苦しからざる儀は、追って申すべしと言ひて、よく了簡して申し遣はすべきこと」(何か質問されたときは、回答が遅れて構わない場合は、後でお答えします、と述べて、時間をかけてよく考えてから回答を伝えればいい)

・「あて言、なぶり口上などには、怯えあがるほどの一言を言て、かさ高に仕掛け、その後に遺恨を残さず二の勝を取るべきこと」(悪口や嘲笑を浴びせるときは、相手が震えあがるほど激しい言葉で、威圧的に行えば、かえって恨みを後に残さないでいい)


大企業や公務員など安定した組織に勤めるサラリーマンの悲哀が、この「武士マニュアル」に数多く記されているように思います。

昔も今も、日本人の性格や組織における行動は変わっていません。武士道精神にばかり気をとられていると、本当の武士の精神を見誤るのかもしれません。「これがエリート日本人だ!」という書ではないでしょうか。


[ 2013/09/22 07:00 ] 江戸の本 | TB(0) | CM(0)

『大名たちの構造改革』谷口研語、和崎晶

大名たちの構造改革―彼らは藩財政の危機にどう立ち向かったのか (ベスト新書)大名たちの構造改革―彼らは藩財政の危機にどう立ち向かったのか (ベスト新書)
(2001/10)
谷口 研語、和崎 晶 他

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江戸時代の後期、財政危機になる藩が多発しました。その難局を乗り越えた藩、乗り越えられなかった藩、その成功と失敗の要因を調べたのが本書です。

現代にも通じる部分が数多くあり、参考になります。それらの一部を要約して、紹介させていただきます。


・農民が豊かになれば、地主となって中間搾取する者が出る。没落すれば、耕作地が荒れ、年貢が取れない。だから、農民が富裕化しないよう、さりとて、没落もしないように生活させ、その全余剰を税として取り上げることが、幕藩領主にとって農民支配の最上の策

・農村の荒廃は、天災によるものだけではない。商品経済・貨幣経済が農村にも浸透してきた結果、農民たちが借金返済のため、田畑を質地として地主に渡すか、出奉公で貨幣を手にした。並行して、間引き・捨て子も横行し、村は人間の再生産さえ困難に陥った

・藩政改革には、有能な人材が必要だった。その新たに登用する人材を束ねる人材(名補佐役)を得ることで、名君たちは、藩政改革に着手することができた。逆に言えば、補佐役に人を得ることができなかった大名は、「名君」たりえなかった

・人材を登用して高い役職につけても、禄高が低いままでは、何かと不都合が生じる。そこで、就任させた役職に相応する禄高との差額を補てんする制度がとられた。やがて、この補てんも合わせた総計高が子孫に世襲されるようになってしまった

・江戸時代後期には、儒学から派生した経済学や政治学に近い思想を展開した「経世家」や「農政家」が現れた。彼らは派遣された藩の農業方法を指導し、農村の復興を行い、藩の殖産興業や交易に意見を述べた。二宮尊徳、海保青陵、大蔵永常、佐藤信淵などが有名

・財政再建に向けての改革は、家臣たちに耐乏生活を強いる中で行われた。藩主上杉鷹山が率先垂範したように、改革の担当者は、禁欲の中で改革にあたらなければならなかった

・徳川吉宗には、大奥に残る美女の名を書き出せと命じ、書き出された50人全員に「美女ならば引く手あまたのはず、みな大奥を出て結婚するがいい」と暇を出したという、大奥経費削減の逸話が残っている

・水野忠邦に特に目をつけられたのは、職人や商人が頻繁に出入りする諸役所。出入りの者と馴れ合い、リベートを受け取り、贈物攻勢にもはまって、工期が延びても、値段の割に材料・品質が落ちても、まったく知らん顔だと、水野忠邦は批判している

・江戸時代の侍は、「あれをするな、これをするな」と、手取り足取り、私生活の指導を受けた。経営能力がまるでなかった

・半知とは、家臣に渡った分から半分借り上げるもの。財政帳簿では、家臣へ渡す半分を藩庫に入れると書くべきものを、最初から半分の額しか記載しなくなった

・荻原重秀が行った貨幣改鋳は、通貨量不足に対応したものだが、真の目的は、質を落とした金銀貨の発行で利益を得ることだった。この貨幣改鋳により、幕府は557万両の巨利を得た。この額は、当時の幕府歳入の約7倍にあたる

・幕府の三貨(金銀銭)に対して、各藩は、藩札という一種の紙幣を発行した。藩札には、米の額や金の額または銭の額を記したものがあったが、銀経済圏の藩を中心に発行されたため、多くは銀札だった。領内限りの通用を原則とし、通用期限が定められていた

・藩財政が悪化すると、諸藩は正貨を吸収する目的で、藩札を乱発するようになる。1774年に、幕府は藩札再発行を禁じたが、まるで効き目がなかった。財政窮乏に苦しむ諸藩は、兌換の保証がないまま、幕府の許可を得ず、命令に違反した藩札を続々と発行していった

・薩摩藩などは、天保の改革のさい、かなりの偽銭を鋳造したらしい。幕末には、戦争資金として、多くの藩で金銀貨幣の鋳造が行われている

・農村が荒廃し、農村人口が減少すれば、年貢徴収率が低下する。そのため、間引きの禁止、都市から農村へのUターン政策が必要だった。寛政の改革で行った「人返し令」には、Uターンの旅費食料費や農具代の支給があったのに、応募者が少なく、失敗に終わる

・二宮尊徳の報徳仕法とは、節約と勤労で分度を守ることにある。例えば、金十両の収入があれば、九両と二分(四分で一両)を限度とする生活をし、二分を貯蓄に回した。その貯蓄を貸し付けにも回し、その利子で農具や農業の基盤整備に運用した

・薩摩藩の財政改革を担当した下級武士出身の調所広郷は、偽金づくり密貿易を行い、なりふりかまわない方法で、藩財政を立て直した。当初500万両あった負債を返済し、10年後には、営業用途費200万両のほか、藩庫に50万両の貯蓄を行った



本書を読むと、幕府や諸藩は、財政再建のために、涙ぐましい努力をしています。給料半減、首切り、不正防止のための細かな規則だけに及ばず、外部者(経営コンサルタント)を使ったリストラも行っています。

さらに、貨幣改鋳、不換紙幣の発行など、財政政策の禁じ手を行っています。また、藩によっては、偽金づくり、密貿易などの不正行為を行い、借金を返済しています。このような財政再建の歴史を知ることは、現代においても、参考になりそうです。


[ 2013/08/25 07:00 ] 江戸の本 | TB(0) | CM(0)

『江戸の性愛術』渡辺信一郎

江戸の性愛術 (新潮選書)江戸の性愛術 (新潮選書)
(2006/05/24)
渡辺 信一郎

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本書は、発禁処分になってもおかしくない内容です。禁止用語と思しき言葉も度々出てきますし、春画や枕絵、局所絵などもふんだんに使われています。つまり、江戸の性の奔放さが非常によくわかる書です。

著者は、元都立高校の校長先生です。江戸の性を学術的に研究しようとした結果、生まれた書です。少々ためらう部分もありましたが、江戸の性風俗産業に興味深い点が多々あり、その一部を要約して紹介させていただきます。



・「おさめかまいじょう」は、遊女の性技指南書(1752年作)。遊女屋として成功を収めた人が、門外不出の秘伝を記録したもの。江戸中期の性愛文化の極致

・「おさめかまいじょう」は、普段の養生から始まって、交合で男を籠絡する秘技を伝授する。体が損なわれないように注意事項もある。娼婦と男客が密室で行う交合の凄まじさも描かれ、男の放埓な要求に応じる具体的な法が説かれている

・「おさめかまいじょう」の序文終末に、「商いはんじょうは、男衆をして喜ばす事に尽きるなり。然れども、その基は、おなごをして、いろいろ習わしめ、丈夫に長持ちさせるに尽きるなり」とある

・主人の男は、「下品」「中品」「上品」のランクをつけた。女が娼婦として稼げるか否かの見極めをするのが本務で、理性的な商品鑑定を行った

・若い男は女あしらいに慣れていないので、水揚げには、経験豊富な年輩者が最適であった。適当な時期が来たら、旦那衆の好き者の年寄りに売り込んだ

・水揚げによって、女郎の器量が定まり、「天神」と「端」の階級ランク付けをした。「天神」には芸事性技を学習させ、「端」は性技だけに専念させて技巧を磨かせた。年若い「天神」には、京都の女郎屋で修業させ、京下りの女郎として売り出した

・昼間に時間客を五回取ると、それが限度であるから、その後は泊まり客を付けさせた。泊まり客は、時間的にもゆとりがあり、交合をしても激務とはならない。その気配りが重要であった

・最初は手技で快感を誘発させ、硬直したら、大きく抜き差しして揺らせ、一気に射精を誘発させた。こうすれば、男根はもう勃起することなく、もし勃起しても交合欲は起こらない。男を堪能させる技法や対応法が「端おやま、かまいの事」に詳しく書かれている

・ふにゃ気味の半立ち男でも、交合欲や射精欲は旺盛なので、それを堪能させるには特技を要した。硬直させるために、男根以外の性感帯を刺激する秘法が幾つも書かれている

・客の男が秘具を持ち込んでいることがわかれば、女郎は女世話役を呼んで調べさせた。女郎は肉体の酷使に耐える商売であったから、体を損なう悪技は許さなかった

・女郎は、男の性的な欲望を満足させるのが職務である。そのため、交合以外の、男が喜びそうな、目で楽しませる性曲芸にも励んだ

魚の腸管袋(浮袋)の中に、麦粒を入れて、息で膨らませ、それを縛った後に、勃起した男根を入れさせた。干した魚のざらざらした皮も使った

・「まらうけとり、かまいの事」では、男根を受け入れる、交合体位四型三十六種ごとに対処法を列挙して、男の好色心を堪能させた

・江戸時代、女の自慰に供された疑似男根は「張形(はりがた)」と称した。交合に際して、男が女に使わせて、性技の補助としていた

・御殿女中たちは、性の発散をしないと、女体の健康によくないと信じていたので、処女の女は先輩から張形の使い方を指導された

・350年前、女性によって書かれた秘録「秘事作法」によれば、男との性交渉のない女の健康維持には、適度に張形を使用して、必ず「花心」から「精水」を洩らすべきと書いてある

・張形を使って快感を得るためには、様々な手法があった。「艶道日夜女宝記」(1770年頃)には、張形仕様の絵が七つ示されている

・「蠟丸」は女の性感増進薬。絶頂への到達度が遅い女の性感を誘発させるもので、男の征服欲を満たした。色道指南書の「宝文庫」(1850年頃)には、その製法が記されている



生々しい記述が多く、その部分を相当削除しましたが、それでも上記のような表現になってしまいました。しかし、本書は、我々日本人の性に関する貴重な歴史文化資料です。事実は事実として、きっちり認識することが大事ではないかと思い、紹介しました。

ある意味、日本人の研究熱心さ、探求心、好奇心といった気質が、非常によくわかる書でもあります。


[ 2013/06/16 07:00 ] 江戸の本 | TB(1) | CM(0)