とは考

「・・・とは」「・・・人とは」を思索

『骨董鑑定眼』青山二郎

骨董鑑定眼 (ランティエ叢書 (24))骨董鑑定眼 (ランティエ叢書 (24))
(1998/11)
青山 二郎

商品詳細を見る

著者は、骨董界の重鎮だった人で、小林秀雄、北大路魯山人、白洲正子などと親交がありました。

骨董の鑑識眼に優れた著者の言葉には、芸術の本質を語る内容が数多く含まれています。それらの一部をまとめてみました。



・書道というものは茶道と同様に、非常に神経の細かい一つの芸であり、たしなみの技能。眼が肥えていて趣味が良く、書き写された昔の言葉にも意味がある。こういうものは、鑑賞家の芸術。だが、その技能を手に入れれば、後は人間の問題と見るのが書道に違いない

・画家の意識は、自然の中にある意識を誘発される。画家の技能は、自然の中に発見した意識を、自分のある意識に置き換えて表現しようとする

・金持ちの骨董弄りとは、何でも手当たり次第に買い集めて悦に入っているようなもの。人が来て誉めてくれれば、自分もそれを見直して喜んでいるし、人が貶せば自分でもそんなものかと思って、好きでなくなってしまう

・発見とは、発見の前に発見すること。偶然に見つかるのも発見だが、何もなければ発見できないものを発見するのが発見

・ある人は、「美術品というものは存在しない。あるものは美だけ」と言うが、この考え方が裏返しになって、「美というものは存在しない。在るものは美術品だけ」というふうに、頭の働きよりももっと実際的な眼の働きというものを、頭が信じるようになる

・正しい眼はすべて最適な条件で、健康な肉体にかかっているというよりほかに、証明の法がない

・骨董屋の眼は、物を見たというのではなくて、それは趣味という一観念を模倣する思考の働き。眼は常に正しいからとして、模倣を強要され、我々の眼玉は信じられないほどに、段々と思考に征服されている

・「感じが来る」ところから、改めて「見えて来る」までの間が、一番骨が折れる。見えるということは、陶器の生命とするものが、人の顔のように、銘々各々が異なる様に異なる事が分かるということ

見える眼が見ているものは、物でも美でもない。物そのものの姿。物の姿とは、眼に映じた物の、それなくしては見えない人だけに見える物の形、つまり、形ある物から、見える眼のみが取りとめた形

ぜいたくな心を清算する要はない。ぜいたくに磨きをかけなければいけないのだ

自分で自分が解らない、これだけが芸術家の源動力。そして、それを理解する鍵

・美とは魂の純度の探求。他の一切のものはこれに反する

・一度茶碗を愛したら、その茶碗は自分にとける。一度人を見たら、人が自分の中にとける。自分の血の中にそれらがとけるように、精神も受けただけのものは、自分の血肉の中にとける

・大衆は肉を食うが、大衆には胃袋がない。博物館に何十万人の人が行くが、彼らには思想がない。美を汚す理想がない、批評がない。だから罪はない

美は見、魂は聞き、不要は語る

・真贋というものは、賭け碁のようなもので、直観とは別のもう一つの感情と判断を必要とする

・多くの経験ある骨董屋が、失敗するのは、彼らが経験と直観に頼りすぎるから

・未熟な芸術家の純粋な駄作は、駄作でも何でもなく、自然に消える時が来れば消えるつぼみ

・見るとは、見ることに堪えること。堪えるとは、理解することではない

・今に黙って食えるだけの金が手に入ったら、文章や画を売らないで、遊んで暮らすこと、これが生活信条

・芸術は衣食の手段にするものではない



ちょっと抽象すぎる著者の言葉の数々は、まるで禅問答。美を語るのは、それだけ難しいものです。

感覚は論理ではなかなか説明できないが、その感覚を経験した人には、わかるのかもしれません。


[ 2014/07/25 07:00 ] 芸術の本 | TB(0) | CM(0)

『メゲそうなこころを支える三十一文字』花車肇+DEN

メゲそうなこころを支える三十一文字―「世間」や「人生」がわかる庶民の処世の知恵『道歌』の事典メゲそうなこころを支える三十一文字―「世間」や「人生」がわかる庶民の処世の知恵『道歌』の事典
(1996/03)
花車 肇、DEN 他

商品詳細を見る

昔の庶民が、五七五七七の三十一(みそひと)文字に表した「道歌」は、世間や人生がわかる処世の宝庫です。

この道歌を600以上集めたのが本書です。思わずうなってしまう歌が多く、「昔の人は偉かった」と感じさせられます。その一部をまとめてみました。



・「塵を呑み 芥を入るる 大海の 広さが己が 心ともがな」
塵や芥のすべてを受け入れる、あの広い海のように、人の心もあればよいのに

・「おのが目の 力で見ると 思うなよ 月の光りで 月を見るなり」
月が見えるのは、自分の目がよいからではない。月が照っていてくれるからである

・「わがばかを ばかと心の つかざれば 人のばかおば そしる世の中」
自分の愚かさを知って、その愚かさに謙虚になれない人は、他人の愚かさを攻撃したがる

・「器用さと 稽古と好きの 三つのうち 好きこそものの 上手なれ」
上手になるための三つの条件「器用さ」「稽古」「好き」の中で、好きであることが一番

・「堪忍の 袋を常に 首にかけ 破れたら縫え 破れたら縫え」
堪忍袋をいつも首にかけていよう。堪忍袋は破れやすいので、破れたままにしないこと

・「可愛くば 二つ叱って 三つ褒めて 五つ教えて 善き人にせよ」
ただ叱って教えるだけでは効果がない。二つ叱ると三つ褒め、それから五つ教えること

・「我という 垢の衣を 脱ぎぬれば 天晴れ清き 神の御姿
過去を思い切って捨て去ってしまえば、誰だって、清らかな、神にも似た姿になる

・「十人は 十色なりける 世の人の 誠は心 一つなりけり」
十人十色という諺があるが、人の心の誠は、ただ一つのものしかない

・「長者山 上りて奢る 道へ出ば もはや下れぬ 坂と知るべし」
徳の高い金持ちでも、道を間違えて「おごりの道」に出てしまうと、再び元へは戻れない

・「貧しくて 心のままに ならぬのを 憂とせぬのが 智者の清貧
俗な世間にへつらわず、そのために貧乏をしても、節操を高く生き、少しの後悔もせず、悔しい思いもしないというのが、本当に知恵のある人の生き方

・「大石に つまづくことは なしとても 小石につまづく ことな忘れそ」
大きな石は用心して、つまづくことはないが、小さな石は見過ごし、つまづいてしまう

・「用心の 良いも悪いも その家の 主ひとりの 了見にあり」
一家の主が用心深いかどうかによって、その家の繁栄するかどうかが決まる

・「美しき 花に良き実は なきものぞ 花を思わず 実の人となれ
うわべや外観だけをきれいに飾る人でなく、人間として実のある人となるべき

・「我を捨てて 人に物問い 習うこそ 智慧をもとむる 秘法なりけり」
賢くなるための秘法は簡単。自負心や我欲を捨てて、知っている人に尋ね、習うだけ

・「算盤は 嘘をおかさず 無理させず かれにまかせば 家内安全」
そろばんで、日々の暮らしを立てておれば、もうそれだけで家内安全

・「身は軽く こころ素直に 持つ者は あぶなそうでも あぶなげはなし
行動が早くて、素朴で、穏やかであれば、一見危なそうでも、危なげない日々が送れる

・「学問は 人たる道を 知るためぞ 鼻にかくるな はなが折れるぞ」
学問するのは、人の道について知ること。道から外れた学問自慢をするな

・「手を打てば 下女は茶を汲む 鳥は立つ 魚寄り来る 猿沢の池」
猿沢の池の端で、人が手を打てば、茶店の女が客が来たと茶を汲み、鳥は驚き、魚はやってくる。同じ手を打つ行為なのに、三種の反応があるということ

・「掃けば散り 払えばまたも ちりつもる 人の心も 庭の落ち葉も」
人間の心の中には、掃いても、払っても、つまらない考えが、積もっていく



以前、「道歌教訓和歌辞典」「三十一文字に学ぶビジネスと人生の極意」という書を、本ブログでとり上げました。

これらも併せて読んでもらえたら、「道歌」という面白い世界が、より一層広がってくるのではないでしょうか。


[ 2014/05/28 07:00 ] 芸術の本 | TB(0) | CM(0)

『萩原朔太郎詩集』

萩原朔太郎詩集 (新潮文庫)萩原朔太郎詩集 (新潮文庫)
(1950/12/12)
萩原 朔太郎

商品詳細を見る

萩原朔太郎は日本近代詩の創始者と言うべき人です。高村光太郎と共に、大正から昭和前期を代表する詩人です。宮沢賢治にも大きな影響を与えました。

その代表的な詩や箴言を集めたのが本書です。その中から、心に突き刺ささる言葉が印象的な詩の一節を抜粋して、紹介させていただきます。



・「」 林あり、沼あり、蒼天あり。ひとの手にはおもみを感じ、しづかに純金の亀ねむる。この光る、寂しき自然のいたみにたへ、ひとの心霊にまさぐりしづむ。亀は蒼天のふかみにしづむ

・「殺人事件」 ・・・・・みよ、遠いさびしい大理石の道を、曲者はいつさんにすべつてゆく

・「さびしい人格」 さびしい人格が私の友を呼ぶ。わが見知らぬ友よ、早くきたれ、ここの古い椅子に腰かけて、二人でしづかに話してゐよう、なにも悲しむことなく、きみと私でしづかな幸福な日をくらさう・・・・・

・「さびしい人格」 ・・・・・自然はどこでも私を苦しくする。そして人情は私を陰鬱にする。むしろ私はにぎやかな都会の公園を歩きつかれて、とある寂しい木蔭に椅子を見つけるのが好きだ。ぼんやりとした心で空を見てゐるのが好きだ・・・・・

・「見しらぬ犬」 ・・・・・ああ、どこまでも、どこまでも、この見もしらぬ犬が私のあとをついてくる。きたならしい地べたを這ひまはつて、わたしの背後で後足をひきずつてゐる病気の犬だ。とほく、ながく、かなしげにおびえながら・・・・・

・「青樹の梢をあふぎて」 ・・・・・愛をもとめる心は、かなしい孤独の長い長いつかれの後にきたる、それはなつかしい、おほきな海のやうな感情である・・・・・

・「群集の中を求めて歩く」 私はいつも都会をもとめる。都会のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる。群集はおほきな感情をもつた浪のやうなものだ、どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛欲とのぐるうぷだ・・・・・

・「遺伝」 ・・・・・お聴き!しづかにして、道路の向うで吠えてゐる。あれは犬の遠吠だよ、のをあある、とをあるる、やわあ、「犬は病んでゐるの?お母あさん。」「いいえ子供、犬は飢ゑてゐるのです。」・・・・・

・「」 ・・・・・ああ、なににあこがれもとめて、あなたはいづこへ行かうとするか。いづこへ、いづこへ、行かうとするか。あなたの感傷は夢魔に饐えて、白菊の花のくさつたやうに、ほのかに神秘なにほひをたたふ。

・「絶望の逃走」 ・・・・・おれらは逃走する。どうせやけくその監獄やぶりだ。規則はおれらを捕縛するだらう。おれらは正直な無頼漢で、神様だつて信じはしない。何だつて信ずるものか。良心だつてその通り、おれらは絶望の逃走人だ。・・・・・

・「こころ」 ・・・・・こころは二人の旅びと、されど道づれのたえて物言ふことなければ、わがこころいつもかくさびしきなり。

・「静物」 静物のこころは怒り、そのうはべは哀しむ。この器物の白き瞳にうつる、窓ぎはのみどりはつめたし。

・「公園の椅子」 人気なき公園の椅子にもたれて、われの思ふことはけふも烈しきなり。・・・・・われを嘲りわらふ声は野山にみち、苦しみの叫びは心臓を破裂せり・・・・・

・「公園の椅子」 ・・・・・われは指にするどく研げるナイフをもち、葉桜のころ、さびしき椅子に「復讐」の文字を刻みたり

・「虚無の歌」 ・・・・・かつて私は、精神のことを考えてゐた。夢みる一つの意志。モラルの体熱。考へる葦のをののき。無限への思慕。エロスへの切なき祈祷。そして、ああそれが「精神」といふ名で呼ばれた、私の失はれた追憶だつた。・・・・・

・「虚無の歌」 ・・・・・かつて私は、肉体のことを考へて居た。物質と細胞とで組織され、食慾し、生殖し、不断にそれの解体を強ひるところの、無機物に対して抗争しながら、悲壮に悩んで生き長らへ、貝のやうに呼吸してゐる悲しい物を。・・・・・

・「物みなは歳日と共に亡び行く」 ・・・・・兵士の行軍の後に捨てられ、破れたる軍靴のごとくに、汝は路傍に渇けるかな。天日の下に口をあけ、汝の過去を哄笑せよ。汝の歴史を捨て去れかし。


甘酸っぱくて苦い詩ですが、情景も目に浮かび、声に出して読んでみたくなる不思議な詩です。

せつなさ、心苦しさ、哀しさなど、自己と他の差を埋めることができないという諦め、孤独と孤立を彷徨い続ける著者の気持ちに共感できました。


[ 2014/05/02 07:00 ] 芸術の本 | TB(0) | CM(0)

『骨董の言葉・一〇七七の用語と五二の成句』伊藤順一

骨董の言葉―一〇七七の用語と五二の成句骨董の言葉―一〇七七の用語と五二の成句
(2013/12)
伊藤 順一

商品詳細を見る

骨董や古美術の業界用語には、「隠語」が多いとされています。価値も値段も判断しづらく、騙し騙されが日常化されている世界です。

こういう世界で、われわれ日本人は、伝統的に、どんな言葉を使ってきたのか、興味の湧くところです。それらを少しだけですが、まとめてみました。



・「初(うぶ)」 今まで市場や店頭に出たことがなく、他人の眼に触れていない骨董・古美術品。また、新しい出土品や将来品なども、初、初いという

・「下手物(げてもの)」 大量に生産される民衆用の日用雑器の類を下手物と称する。中には質の高い工芸美を有するものがあり、柳宗悦はこれを「用の美」と言った

・「残欠(ざんけつ)」 欠け残ったもの。仏教美術において、仏像本体はないのに、その手だけ、蓮弁の一ひらなど残ったものを残欠と言う。日本人はその残欠から仏全体の優美な姿を思い、残欠の美として観賞する

・「時代付け」 新物を時代のある真物に見せるために施す手法のこと。古い時代の箱を合わせたり、漆や金属の表面に手を入れ、自然の手擦れのように見せたり、薬品で錆を作ったり、書画を茶湯に浸し、古い紙に見せたりすること

・「3D(スリーデー)」 いったんコレクターの手に納まった美術品が再び市場に出てくるのは十数年以上経過するものだが、例外は、持ち主が死亡(Death)、離婚(Divorce)、借金の形(Debt)の三つのケースで、これをオークション用語で3Dという

・「せどり」 同業者の中間に立って、注文品や探求品を聞き出し、これを捜して売買の取次をして口銭を稼ぐこと、また、それを業とする人。また、地方や新規開店の古書店から探求書などを抜き取り、他店に持ち込んでサヤを稼ぐこと、また、それを業とする人

・「飛し(とばし)」 紙本の書画を二枚に剥がし、二枚の真筆を作ること。下側の一枚は色も薄く、落款も不鮮明であるが、これを元箱に入れて売る悪徳商法の一つ。近年は、経済的損失を他に転嫁して隠蔽する手法を「とばし」と称している

・「ボツ」 陶磁器の焼成後に表面に生じた染みのこと

・「飽きやすの惚れやす」 手に入れた物をすぐに飽きてしまう人に限って、物にすぐ惚れてしまう、いつまで経っても、この繰り返しをやっている人を揶揄していう言葉

・「金惜しみ」 真正な物でも、その値段は高額すぎて不合理だと考え、とにかく安く掘り出しだけを狙い、結果として贋物を手にしてしまうこと(人)をいう

・「奇貨居くべし(きかおくべし)」 珍しい品物は機会を逃さず買っておけば後に利益になる。好機を逸してはならないというたとえ

・「玉を懐いて罪あり」 身分不相応なものを持つと、とかく災いを招きやすいもの

・「素人十倍玄人百倍」 素人は相場の十分の一くらいの値段で、玄人なら百分の一くらいの値段でよい物を手に入れたとき、それぐらいを掘り出しという。骨董業界の掘り出しの目安

・「話(ストーリー)で物を買うな」 コレクターの琴線に触れるような物語(出所や来歴、逸話など)が付いている物には往々にして贋物や安物がある。骨董買いはストーリーで買うのではなく、物そのものの価値で買うものだという骨董買いの基本をいった言葉

・「遠くのものには手を出すな」 よくわからないものは買わないほうがよい。株式投資などでも使われる言葉

・「二度目の見直し三度目の正直」 一度見ただけでは不確実、二度目見たときに見直すことがあり、三度目見てはじめて正確に観察(判断)できるもの

・「一目にて見るは二目にて見るに如かず」 個人の見解よりも多数の人の見解のほうが正しい

・「貧乏光り」 木地や金属製の骨董・古美術品を磨きすぎて、本来の見所であるせっかくの古色を落としてしまった光沢をいう

・「物は常に好む所に聚(あつ)まる」 物は必ずその物を好む人の所へ集まってくる



骨董・古美術品業界の「隠語」だったものが、われわれが日常使っている「日本語」に昇格した言葉も数多くあります。

こういう言葉を覗き見ると、人間はウソをつき、人を騙し、姑息に儲けようとする生き物だということがわかります。お金があろうと、なかろうと、それらは変わらないのかもしれません。


[ 2014/03/28 07:00 ] 芸術の本 | TB(0) | CM(0)

『蝶が飛ぶ葉っぱが飛ぶ』河井寛次郎・柳宗悦

蝶が飛ぶ 葉っぱが飛ぶ (講談社文芸文庫 (かK2))蝶が飛ぶ 葉っぱが飛ぶ (講談社文芸文庫 (かK2))
(2006/01/11)
河井 寛次郎、柳 宗悦 他

商品詳細を見る

河井寛次郎さんの本を紹介するのは、「火の誓い」に次いで2冊目です。本書は、「仕事と思想」(随筆)、「暮しと言葉」(戦後間もないころの詩)「陶芸始末」(昭和初期の陶芸製作解説)の三篇の構成になっています。

そのうち、「仕事と思想」「暮しと言葉」の中で、陶芸家、職人としての姿勢に感動させられた言葉をまとめてみました。



・土は今始めて形を得、火に会って固まる。美への志願は無用である。正しい素材従順な工程好い組織を撰ぼう

・知性だけでうんだ作品は、わりきれたもので、それではいけない。われわれの中にある、われわれのまだ知らない自分が出なくては駄目

・一生、美を追った生活に、思想上の一転機があった。世界は二つある、と考えたこと。美を追っかける世界と、美が追っかける世界と。美術の世界と、工業の世界と

・物の形は、すべて、出発点が到達点になっている。△の形、○の形をごらん

・「たいてる人が燃えてる火」。火はたいている人の魂が燃えているので、単なる物理現象ではない。精神の現象だ

・新しい材料が出てくると、それに応じて新しい技術が生まれ、前の材料と技術は美術に棚上げされて、民族はそれぞれの美を守って行くことになる

・豪華というのは、費やされた労働力が非常に殺されている

・白隠や仙厓は「私字」をやった。しかし、「私字」の中にも戯れが入った「戯字」があって、これもなかなか面白い字。同じ書の中にも「」の字と「」の字と「」の字があって、どれがいいと一つに決めるのは無用なこと。それぞれ、みなあってしかるべき

・江戸中期の学者、富永仲基の三原則とは、一、「加上」(歴史は後から膨れ上がる)。二、「異部茗字必ずしも和会しかたし」(ものは一元で決めたら間違い、多元でいい)。三、「言葉に人あり、言葉に時あり」(人によって、時代によって、言葉の内容が違ってくる)

・虫と葉っぱは、喰う喰われるという現実が、養い養われるという現実とくっついている。虫と葉っぱは「不安のままで平安」、これでいいのだ、これで結構調和しているのだ

・もし不幸が多すぎたなら人はとうに絶えたはず。不幸はちょっぴり幸福を作るための発酵素であることだけの必需品

・この世は自分を見に来るところ。何と言う素晴らしいところ。この世は喜びをさがしに来たところ。そのほかのどこでもないところ

・河原へ石さがしに行く人、自分を拾いに行く人。何という自分の発見。こんな誰が作ったかわからないものの中に自分がいたのだとは何という発見

・人は皆自分を燃やして焚いてその火でもの見る

・人、世の中に播かれた一つの生命。どう発芽するか

・こんなところに自分がいたのかと、もの見つめる

・ないものを得ようとするのではない。あるものをとり出す

・美は捨てた時が得た時。求めなければ与えられる

・喜びの足りない時が失敗

・時勢とともに歩いてはいけない。時勢とともに歩かねばならない

・美を追うのではない。美から追われているのだ。美をつかむのではない。美からつかまったのだ

・窓あけて、いのちの窓あけて、もの見る

・恵まれていない者はない。拒んでだけいる人。同じものを与えられながら別々に受け取る人間。美はいつも人をさがしている。幸福は人をさがしている



河井寛次郎さんは、陶芸家(美を追っかける世界)としての名声を捨て、職人仕事(美が追っかける世界)に身を投じ、民芸運動を立ち上げた人です。

生活の中に美を求めた純粋で素朴な活動が、文章によく表れています。本書を読むと、重ね着した服を一枚一枚はぎ取られていくような気分になります。


[ 2014/03/07 07:00 ] 芸術の本 | TB(0) | CM(0)

『群れない生き方・「常識人間」を捨てる44の法則』絹谷幸二

群れない生き方群れない生き方
(2011/11/24)
絹谷 幸二

商品詳細を見る

著者は、数々の芸術賞を受賞している洋画家です。東京芸大の教授も務められていました。

「孤独に生きる」のは、社会と隔絶しないといけませんが、「群れないで生きる」のなら、社会と共存できそうに思います。群れないノウハウが満載の本書を、以下のようにまとめてみました。



・「群れる」という行為は、とてもラクだし、その誘惑も常にある。だが、一度その波にのまれてしまうと、自分を取り巻く環境に甘えて、自分をごまかす生き方をすることになる

・日本の近ごろの沈滞は、「学校や会社に尽くす」という美名のもとに、それぞれの仕事の中でサボタージュを決め込み、それに気づいていながら、お互いにかばい合って、真実に迫ろうとしない勇気のなさにある

・流行を追いかけ、個性的になろうとした結果、個性を失ってしまっている

・社会は、「中位の数字のとれそうなところ」で大きなスモッグが発生している。そして、その先に出るに出られない閉塞感が、すべてを同様の顔にしている

・異端や下手くそを認めず、かといって高級品と下級品の違いがわかるわけではない。口あたりのよい甘さにべっとりとからまれて、中級品が社会を動かしていく先は、推して知るべきジリ貧の結果となって現れる

・努力せずともよかったころの居心地のよさに浸り切っていると、予期しないものが現れ、足をすくわれる

・コンプレックスはあるうちが花。コンプレックスは使いようで、毒にも薬にもなる代物

・甘すぎる誘いも、渋い話も、まずは舌で転がして、鵜呑みにはせず口に含む。これでよしとなれば、まず咀嚼する。そして、もしその中の劇薬や痺れ、小石や骨などが入っていれば、腹には入れず、そっと吐き出せばよい

・絵を描いている人にとっては、日々が「孤独と個性捻出の戦い」である

・「死んだらおしまい」。人は「潔く生きることを心がけ、あの世は死んでからはない」と知るべき

・人間は個体ごとに生き死にはするが、その心というか細胞は幾重にも重なり、古代から連綿と続いている

・バランスが偏っていると、時代が変わったり、相手が異なったり、場所を移動したり、人員が変化したときに通用しなくなる

・絵描きは「積み上げと描き込み」の対極に、常に「破壊と削りとり」の用意をあらかじめ秘めておかなければならない

・口あたりのよい、中途半端な人が社会や会社を牛耳っていては、その人物の狭い器量の幅でしか世界が見えない

・片方の手に夢と平和を、もう一方の手には現実と戦いを。双眼で同時に見る目を養っておかなければならない

・絵かきというものは、名刺などをやたら振りかざしてはならず、売るのは顔

・あらゆる楽しげなモノやカネ、または名誉などという落とし穴を自ら避けて通る勇気が必要

・子供に尊敬される「遊び人」とは、知恵があり、生きるためのエサを日々の不安なく運んでくれる運動能力採集能力のある大人

・死んでしまえば、仏の言う極楽浄土、キリストの天国は、信じない人にはない。今日広大な宇宙の中で水があり、花が咲くのはこの地球だけ。この地球こそが極楽浄土であり、そこに生を受けたことこそが億万分の一の幸せということ



安全な道を選んだつもりが、苦難の道になるということもしばしばです。

著者は、苦難に立ち向かう気力と根性があれば、道は何であれ、成功への道となるということを述べられています。立ち向かう生き方こそ「群れない生き方」なのかもしれません。


[ 2014/02/14 07:00 ] 芸術の本 | TB(0) | CM(2)

『ニッポン・ヨーロッパ人の眼で見た』ブルーノ・タウト

ニッポン ヨーロッパ人の眼で見た (講談社学術文庫)ニッポン ヨーロッパ人の眼で見た (講談社学術文庫)
(1991/12/05)
森 とし郎、ブルーノ・タウト 他

商品詳細を見る

ブルーノ・タウトは、ドイツの建築家です。日本に滞在し、伊勢神宮、桂離宮などを見学して、それをヒントに、モダニズムを提唱し、世界の現代建築に大きな影響を与えた人物です。現代の日本建築も、その「逆輸入」のモダニズムに影響を大きく受けています。

日本の建築美、構造美を発見した記録が本書に載っています。本書の初版は1950年ですが、何度も版を重ねている書です。ヨーロッパ人から見た日本の美を知る上で、興味深い点が多々ありました。それらの一部を要約して、紹介させていただきます。



・日本がこれまで世界に与えた一切のものの源泉、まったく独自な日本文化をひらく鍵、完成させる形のゆえに全世界の賛美する日本の根原。それは外宮、内宮、及び荒祭宮をもつ伊勢である

・日本人は伊勢神宮の神殿を日本国民の最高の象徴として尊崇している。まことに伊勢神宮こそ真の結晶物である。構造はこのうえもなく透明清澄であり、また極めて明白単純なるが故に、形式は直ちに構造そのものとなる

・古典的偉大を具現している桂離宮が、実際にもあらゆる日本的なものの標準になっているという事実を多くの識者に確かめ得て、非常な喜びを感じた

・現代の建築家は、桂離宮がこのうえもなく現代的であることに驚異をさえ感じるであろう。実にこの建築物は種々の要求を極めて簡明直截に充たしている

・生活の要求のみが問題となるところでも、単に実用的だけに片付けられていない。建築物で営まれる日常生活は、これを使用する人々の自然な動きによって、特殊な機能を形成するが、桂離宮がかかる機能をも極めて些細な点にいたるまで見事に充足している

・桂離宮の御庭の諸部分は著しく分化していながら、すべてが相集まって一個の統一を形成している。ここに達成した美は、装飾的なものではなく、精神的意味における機能的な美。この美は、眼をいわば思考への変圧器にする。即ち、眼は見ながらにして思考する

・日本の歴史的建築物について、天皇の御趣味と将軍の趣味との著しい相違を観察するのは、まことに興味深い。桂離宮や修学院離宮その他は、世界における唯一無比の趣味文化を表現している。建築物は何一つ建築的な装飾をもっていない、木骨構造自体だけである

・昔の将軍たちの居館は、実に酷しい。そこに見られるものは豪華の限りをつくした浮麗の美のみ。建物には到るところに高価な彫刻や絵画を嵌めこみ、建築的構造がまったく埋却せられている。これらが、日本的でないのは、様式全体がシナからの輸入だからである

・天皇対将軍という大きな反立は同時にまた神道対仏教の反立である。日本の宗教的感情を複雑微細な点まで理解することは容易ではないが、神道が日本人とその国土とを独自の仕方で結合しているという一事は、極めて明瞭。神道自体が日本と完全に融合している

・神道は日本人を美わしい国土と一体に結合しているばかりでなく、全国民を社会的な意味におけるこの国土の一部分として互いに結びつけている

・日本人が庭園に石を配し、小池を造って写景する理由は、日本家屋の部屋や台所などの神棚に安置された小社殿と同じく、日本人がその国土をいわば常に自分と一緒に持ち廻っているということと同一の現れ方である

・田畑に一本の雑草をも見ないという事実は、ヨーロッパ人の眼には実に驚くべきこと。こういう性質は、国民の生活態度にもまた家屋の様子や手入れにも、実によく現れている。こう観ると、日本の農家も農民も風俗や慣習も、やはり天皇と神道という主題に帰着する

・肉塊をもって相打つ角技の力士にも、ある種の洗練と立合いの気品とが肝要とされている。これは柔道や剣道、あるいは弓道のような武技についてもまったく同様。つまり、大切なのは常に立派な態度であって、徒に相手を打ち負かそうとする興奮ではない

・日本家屋は、常に清潔を保っている点にかけて世界無比。玄関で靴を脱ぐ習慣が、家の中に泥や塵埃を持ち込まないこともあるが、絶えず部屋を清掃していないと、用材の清潔はもとより、室内の整頓も乱れる。このような清潔は、日本のどんな貧しい住宅にもある

・桂離宮の造営についての三箇の条件とは、第一は「建築主は竣工以前に来り見てはならない」。第二は「竣工の期日を定めてはならない」。第三は「工費に制限を加えてはならない」ということ。当時のすぐれた創造的精神は今日でもなお死滅していない

・日本は近代技術の一様化的影響をも摂取して、日本的なものに改容して日本文化の血肉に化するであろう。そして、そのとき日本は、再び世界に新しい大きな富を贈る



タウトが日本に来たのは1933年です。わずか2カ月余りですが、実に多くの日本文化を貪欲に摂取しました。しかも、個々の建築物の本質を理解するだけでなく日本文化の真髄を短期間に理解しています。まことに驚くばかりです。

本書によって、戦前のヨーロッパ人の日本文化観を知ることができます。80年経った今、日本文化が衰退しているとしたら、その原因は本書に載っているのではないでしょうか。

[ 2014/01/31 07:00 ] 芸術の本 | TB(0) | CM(0)

『俺の後ろに立つな-さいとう・たかを劇画一代』さいとうたかを

俺の後ろに立つな―さいとう・たかを劇画一代俺の後ろに立つな―さいとう・たかを劇画一代
(2010/06)
さいとう たかを

商品詳細を見る

著者は、言わずと知れた、「ゴルゴ13」の作者です。45年もの長きに渡り、連載されています。他にも数々の代表作があります。

本書には、著者の劇画論、映画論、人生論などが展開されています。著者の作品が、長い人気を博している理由を知ることができます。読み応えのある一冊の一部をまとめてみました。



映画は娯楽であるという認識から始めなければならない。そこで多くの映画ファンを獲得したら、娯楽だけではないさまざまな映画を製作すればいい。娯楽映画は文芸作品より劣る、そうした価値規準が映画人の意識下にある限り、日本映画の復興はありえない

・アメリカ映画はハッピーエンドや、善玉と悪玉がはっきりし過ぎて面白くないという人もいるが、難解で不可解を覚える映画よりは、はるかにいい。不可解を覚える映画とは、テクニックが稚拙であり、観客の心理を無視した作り手側の独りよがりにすぎない

贅沢な生活を手に入れたとしても、それを羨ましがる者とは生活レベルが違ってしまい、むしろ眼につくのは、自分より贅沢三昧に生きる人。つまり、昇っても昇ってもきりがなく、半永久的に幸福感を得られない

・そもそも、無償の愛など、親が子供に対する本能の愛以外にはあり得ない。それを赤の他人に求めるのはお門違い

・あるコーヒーを飲んで、美味いと満足するか、またはもっとおいしいコーヒーがあるのではないかと考えるかによって、その人の幸福感は違ってくる。ここにヒントが隠されている。幸福になるためには、そのコーヒーで満足できればいい

・精神的にも肉体的にも心地よさを感じるか否かで幸福かどうかが決まる。それを実践するためには自分自身の価値観をもつことが必要。テレビや本、雑誌、人の考え方に左右されない自分だけの価値観がなければ、いつまでたっても幸福を味わうことはできない

・子供は、血肉を分けた母親の動物本能的な愛情と、ちょっと距離を置いた父親の人間愛(打算のない純粋な愛情)の間で、うまい具合に育っていく仕組みになっている

・父親というのは、たとえ娘に嫌われても構わないという覚悟を決めて、娘に対峙している。それこそまさしく人間愛の成せる業

・男が強いなんてイメージは母親が作ったもの。つまりメスから「男は強くなければならない」と子供のことから教育され続け、男は家族を守るものと錯覚しているだけ

・自分自身の価値観で獲得したものに囲まれているのが一番心地よい。権威や権力とは無縁のところに身を置き、自分自身に忠実に生きている人は、実に気楽に、快適に人生を謳歌できる

・地位を確保した人間はやたらと自分のやり方に固執する傾向がある。「これはこうするものだ」式のマニュアル人間に成り下がる。傍から見ればマニュアルどおりなのに、「これが私の個性」と言い張る。こういう手合いは、若い人の斬新なアイデアを生かせない

・勉強というのは、自分が見聞きし、身体全体で学ぶもの。それなのに、今の学校はただ単に便宜方法を教えるだけの場所と化している。歴史でも、なぜ権力は入れ替わるのか、時代はどのように移り変わってきたのかという根本ではなく、表層ばかり教えている

・権力は、高圧的で強制力を発揮し、個を傷つけたりする。一つの権力が生まれれば、それに群がる者もいれば、アンチテーゼの狼煙を上げる者もいる。したがって、権力を維持するためには、それを守る組織が誕生する

・権力は必ず、力と力がぶつかって生まれてきたが、どんな権力もいつかは必ず滅びるときを迎え、新しい権力にとって替わられる。まさに諸行無常の響きあり

・地球規模で対立してきた一方の権力が敗れたからといって、地球が一つの権力のもとで平和になるはずがない。必ず相反する権力が登場する。権力闘争に終わりはない

利権に群がる輩は相変わらず権力の周辺をうろつき、それが国家を蝕む。それを是正するには、これからも先、手を焼く。なぜなら、それを一掃するのも権力だから

・「出たい人よりも出したい人を」というのは、実にナンセンス。選挙に出て政治を行うのだから、「出たい人」でいい。「出したい人」を何のために出したいのか、きっと、出す側に利益があるから



本書を読み、さいとうたかを氏の作品の人気の秘密は、自身が培ってきた価値観にあるように思いました。

仕事に関する価値観だけでなく、政治、文化、教育、人生など実にさまざまな価値観を有しておられます。それが作品に滲んでくるのではないでしょうか。本書は、著者の価値観を発表する場であったのかもしれません。


[ 2014/01/17 07:00 ] 芸術の本 | TB(0) | CM(0)

『名人は危うきに遊ぶ』白洲正子

名人は危うきに遊ぶ (新潮文庫)名人は危うきに遊ぶ (新潮文庫)
(1999/05/28)
白洲 正子

商品詳細を見る

骨董を愛し、芸術への優れた審美眼の持ち主であった著者の随筆には、度々ハッとさせられます。

現場に出かけ、その地の匂いをかいで得た審美眼だからこそ、そう感じさせてくれるのかもしれません。本書にも、心に響く文章が数々載っています。その一部をまとめてみました。



動こうとして動かずにいる緊張感が天平の観音の魅力。平安時代には、観音さまは女性的になり、「遊び足」といって、こちらのほうへ一歩踏み出す気配が表れる。さらに時代が下がると、意識的に「遊び足」を用いるようになる。それは、もはや堕落の一歩手前

・人間は誰でも矛盾だらけでつかみ所のないパラドックスをしょいこんでいるが、大抵は苦し紛れにいい加減な所で妥協してしまう。だが、西行は一生そこから目を放たず、正直に、力強く、持ってうまれた不徹底な人生を生き抜き、その苦しみを歌に詠んだ

・西行の真似がしたかったのではない。自由に生きることがどんなにつらいことか、その孤独な魂に共感されるものがあった

・「名人は危うきに遊ぶ」という、その危険な「遊び」がないところに真の美しさも生まれない

・形をしっかり身につけておけば、内容はおのずから外に現れる。時には自分が思っている以上のものが現れることもある。何も考えず、無心に徹するからこの世のものならぬ美しさを表現できる

・無心といった、そういう空な状態を造り出すために、お能は600年もかけて工夫に工夫を重ねてきた

・「人間は自由によって何一つしていない」とロダンは言った。また「鳩が空を飛べるのは、空気のせいだ」とは、カントの言葉。見かけ倒しの自由の中に道を失った現代人は、もう一度、本当の自由とは何であるかを見直してみるべき

・人間として知っておくべき基本の生き方を身につけた上で、個性は造られるのであって、野性と自由が異なるように、生まれつきの素質と個性は違う。個性は、自分自身が見出して、育てるもの

・森林浴だの、緑のキャンペーンだの、そんな言葉を信用しない。私たちに必要なのは、自然を敬い、神を畏れる心から発した、生者の魂を鎮めることにある

・はやるということはいいことだから、それについてとやかく言いたくはない。ただ、はやりすぎると、芸が荒っぽくなるのを怖れているのであって、書きすぎると、筆が荒れるのとそれは同じこと

・「監督の仕事は、見つける、育てる、生かす、の三つに尽きる」(野村克也)。人間でも、焼きものでも同じ。先ず「見つける」ことの難しさ、次に「育てる」ことの愉しみは、使っている間によくなること。最後の「生かす」は、活用の道を発見するところにある

余技に生きることが人間の本当の在り方。日本の芸術一般には、素人的なところがあり、それが作品に余裕を与えるとともに、使う人たちを参加させる余地を残す。不完全な言葉がより合って連歌を作るように、不完全な道具が集まってお茶の世界を形づくる

・今になってみると、無為にすごした旅が懐かしい。小林秀雄さんは「人間は遊んでいる時に育つ」と言っていたが、仕事をするだけが人生ではないと、近ごろしきりに思う

・国際的という理想はおおかた達せられたように見えるが、中身は依然として昔ながらの日本人であり、一歩も前進していない。むしろ退歩したように感じるのは、それまで大切にしてきた文化を惜しげもなく捨てたからで、鹿鳴館の亡霊はいまだに巷を彷徨っている

・一つの国には、それを造り上げてきた長い歴史と文化があり、一朝一夕で変わるものではないのは自明のことだと思うが、絢爛豪華な外国文明に眩惑された明治政府の役人は、いとも簡単に、外国のものはいい、日本のものはダメだ、と短絡的に決めてしまった

・「放っておけば、風とか空気とか太陽などが自然に治してくれる。ただし、私がそこにいなくてはダメ。そこにいて、何もせず待っているだけ。待つのもつらくはない。患者が治る楽しみがあるから。ただし、これは自分のやり方で、人に強いることはない」(河合隼雄)

・「狐や狸や犬のせいにしとけば助かる。それが昔の人の智恵。今は自分が悪いからノイローゼになる。直すのは自分自身しかない、と思い込んでいるから本当に可哀想」(河合隼雄)



素晴らしい自然に出会い、素晴らしい芸術作品に出合い、素晴らしい人に出会い、それらに醸し出され、培われたものが、この著述になっているように思いました。

まさに、一流に育てられた結果としての一流の文章ではないでしょうか。


[ 2014/01/01 07:00 ] 芸術の本 | TB(0) | CM(0)

『火の誓い』河井寛次郎

火の誓い (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)火の誓い (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)
(1996/06/10)
河井 寛次郎、壽岳 文章 他

商品詳細を見る

先月、京都の河井寛次郎記念館へ行ってきました。作品の数々、住居、仕事場、登り窯など、当時のまま残されており、その生前の生きざまを肌で感じることができました。

この本は、そこで買いました。陶芸家としてだけでなく、造形作家詩人随筆家としても活躍された足跡を知ることができます。その一部を要約して、紹介させていただきます。


<棟方志功君とその仕事>

・君はこれ迄の仏画から出発したのではなくて、君から新しい仏画が出発したのだから仕方がない。これ迄の立派な仏画に宿るものが形を変えて君の絵に籠っているのだから仕方がない

・人は誰でも素晴らしいものをもつにも拘わらず出さないものだ。出せば出る。君は今それを出して来た。君の絵の前に立って、その出したものは何かと考える。さらけ出された君の本然のものの前に立って思う。本能とは、公明な私なき働き、ではないかと思われる

・君は人間の着物を剥ぐどころか、身ぐるみとっていく強盗だ。魂だけ残していく強盗だ。君のような強盗が出て来ないと、人間は一番大切なものに気が附かないのだ

<いのちの窓>

祈らない祈り、仕事は祈り

・誰が動いているのだこれこの手、動かせば何か出て来る、身体動かす

まっすぐなものしかまがれない。まがったものしかまっすぐになれない

・怒りとは、怒らないものの上に出来たおでき。悲しみとは、悲しまないものの上に出来たかび

・何もない、見ればある。ないものはない、見るだけしかない

見ないのに見ている。持たないのに持っている。行かないのに行っている

向こうの自分が呼んでいる自分。知らない自分が待っている自分。何処かにいるのだ未だ見ぬ自分

・この世は自分をさがしに来たところ。この世は自分を見に来たところ。どんな自分が見付かるか自分。どこかに自分がいるのだ、出て歩く。新しい自分が見たいのだ、仕事する

仕事が仕事をしています。仕事は毎日元気です。出来ない事のない仕事。どんな事でも仕事はします。いやな事でも進んでします。進む事しか知らない仕事。びっくりする程力出す。知らない事のない仕事。聞けば何でも教えます。頼めば何でもはたします

・美はすべての人を愛している。美はすべての人に愛されたがっている。美はすべての人のものになりたがっている

追えば逃げる美。追わねば追う美。美を追わない仕事。仕事の後から追って来る美

・ひとりの仕事でありながら、ひとりの仕事でない仕事

・自分でない自分、第二の自分。人は二つの自分を持つ。にも拘わらず、第一の自分しか認めようとはしない。二つなんか持っていないと思っている。にも拘わらず、二つを持つ。自分だと思っている自分と、自分でない自分とを

・時にいない人、処にいない人、時と処にいない人。ない時にない処にいない人がいる。そういう人がいる。確かにいる。誰の中にもいる。ない自分を掴まえているない自分

・道を歩かない人、歩いたあとが道になる人。時は場所へ、人という場所へつねに新しい土地を与える。昨日で今日を拓く事は出来ない。嘗て耕された事のない地面に人はいつも立っている。はてしない土地、新しい世界、身体

・葉っぱは虫に食われ、虫が葉っぱを食っているにも拘わらず、虫は葉っぱに養われ、葉っぱは虫を養っている

・模様は人にだけしか作れない精神なのだ。模様は人にだけしか持てない悲願なのだ。模様の国という国は、あらゆるものが愛と美とをしか出せない処。汚れたものや、醜いものは一切出せない処。すべてのものが幸福にしかなれない処。そういう此処は第二の世界



自分を見ている自分、自分の中にいる自分、自分が自由自在に、時空を駆け巡っているように感じる詩を書かれたのは、河井寛次郎さんが本物の芸術家だったからだと思います。

最初に棟方志功を発見したのも、河井寛次郎さんの心眼のなせる技だったのではないでしょうか。


[ 2013/11/24 07:00 ] 芸術の本 | TB(0) | CM(0)