高瀬広居さんの本を紹介するのは、「
仏音」に次ぎ、2冊目です。6年ほど前に亡くなられましたが、僧侶でありながら、テレビでキャスターなどを務められていました。
本書は、仏教の視点から、老人を見つめていこうとするものです。よき老人になるための発見が多々ありました。それらを、一部要約して、紹介させていただきます。
・老いのうちに、迷妄と沈痛さをみとるか、賢明さと人間の条理・不条理のすべてが集約された純粋さをみてとるか、それは、その人自身の
老いへの態度によって決まる
・「知識」も「経験」も「財力」も、老人の切り札であるが、その一つが欠けていても、「
徳力」があれば、悠々と権威を保つことができる
・サイフや腕力で子供に恐れられていた親は、やがて同じ力で
復讐される。そうでない親は、老いても支配力を持つ
年寄りの「
くどさ」には二つある。一つは、自己主張の「くどさ」。もう一つは、釈明と弁明の「くどさ」。「くどさ」は、老いを孤独に追い込む
・人間が何かを苦とするのは、苦でない状態を知っているから。それを遠い過去に求めることは愚かである。未来と現在に発見してこそ、現実からの上昇がやってくる
・人間を外側からのみとらえる人は、「かかわり」に左右される。若い人がそうで、流行やブームなど現象に動かされ、相手の言動に一喜一憂する。
目の奥でものを見ない人たちは「何故」という疑問をもたず、本質をえぐろうとしないから、極端に偏る
・「
深い目」は老人の特権。うつろいゆく世の底辺に在る人生の根本、無常の哲理、因果論で割り切れない人間の不思議さ、迷いの原因、もやに霞んだ生きがいのありか、それを掘り出し示すのが、この目の力
・仏教に「定散」という言葉がある。老人はじっとしているので「定」、若者は駆け回るので「散」。
定の人は、たえず心を澄ませて事の本質と道理を睨む。画一的、形式的思考をぶち破る「
智目」で、子供を観、世間を眺め。その力を後継世代に与えようとする
・老人は「間」を楽しみ、遊びを人生に持つ。ヒマだからではない。限られた条件のなかで、そのゆとりを見出す
・「
随喜」とは、喜びにしたがう心。他人の喜びをわがことのように喜ぶ心。嫉妬し、羨望せずに、
素直に祝福する心の尊さ、それが、どれくらい人々にとって嬉しいことか、老人は知っているはず
・信念のない人ほど頼りにされず、バカにされる。
一本の信条に突き進んでこそ、道は開かれる。老人は、その現実を歴史と社会から学んできている。ガンコさの根はそこにある
・老人は「
得失一如」「信謗不二」の理を人生のうちから読み取った人。自由が不自由により、得が失により、信は誹謗を裏にもつことで成り立つ、という物事の両面を吸収し、その両者が一体となって絡み合っているところに、人間生活の原点があることを自覚した人
・おじいさんの優美さとは「
知性」、おばあさんの美しさとは「
情愛」のこまやかさ。敬愛される老人の役割はこれにつきる。どちらも「
感じのよさ」を与えてくれる
・美しい老人は、第一にわがままではない。一徹であっても、我欲心で行動しない。第二に
負ける心をもっている。柔よく剛を制すというように、柔和な芯の強さを備えている
・
清濁併せ呑めない人は、人間を利口とバカに区別する。古さと新しさに杭を打ち込む。苦手を嫌い、同好の人だけ集めたがる。
偏向と
派閥にいつの間にかひきずりこまれていく
・博覧強記型と創造型は両立しない。年を取れば、記憶力は下降してくるのだから、論理的・創造的・哲学的・総合的な判断力の円熟さこそ大いに磨くべき
・老いには、
偉ぶらない威厳が必要だが、そこにユーモアが加われば、トゲトゲしさがなくなる。自分を客観視して、時に笑ってみるのも大切
・人を人と思わぬ粗雑な神経の持ち主には「
はにかみ」がない。「はにかみ」はケジメのあるしつけを受けた人に備わる。四十の坂にかかったら、「ユーモア」と「はにかみ」の二つを、身につけようとすること
・「美しく死ぬことよりも、
美しく老いるほうが難しい」。美しい老いとは、精神の美学と高貴性をもつということ
老害にならないために、どう準備するか。それが、長い定年後生活の行方を決めていくように思います。
美しく老いるということを、中年以降の人生の最大の目標とするべきなのかもしれません。