福沢諭吉の本を紹介するのは、「
福翁百話」に次ぎ、2冊目です。本書は、明治初期に出版された「学問のすすめ」の現代語訳です。
読みやすく、編集されていますので、福沢諭吉の学問に対する熱い思いが、今にも伝わってきます。その思いの一部を要約して、紹介させていただきます。
・人は生まれたときには、貴賎や貧富の区別はない。ただ、しっかり学問をして、物事をよく知っている者は、社会的地位が高く、豊かな人になり、
学ばない人は、貧乏で地位の低い人になるということ
・士農工商それぞれの責務を尽していくことが大事。それぞれの家業を営むことで、
個人的に独立し、家も独立し、国家も独立することができる
・自由とわがままの境目は、
他人の害となるかならないか。自分のお金を使って自由に、やりたい放題やっていいわけではない。
やりたい放題は、他の人の悪い手本になって、やがては世の中の空気を乱してしまい、人の教育の害にもなる。その罪は許されない
・中国人は、自国より国がないように思い、外国人を見れば、「夷狄」と呼び、これを嫌い、自分の力も客観的に把握せずに追い払おうとし、かえって「夷狄」に苦しめられている。その現実は、国として身のほどを知らないところからきている
・国民がみな学問を志して、物事の筋道を知って、文明を身につけるようになれば、法律もまた寛容になっていく。法律が厳しかったり寛容だったりするのは、ただ
国民に徳があるかないかによって変わってくるもの
・法律をつくり、悪人を罰し、
善人を守る。これが政府の「商売」というもの。この商売には費用がかかる。百姓や町人から税金を出してもらって、その財政を賄おうとする。この「政府と人民の取り決め」が、すなわち「社会契約」である
・ある国の暴力的な政治というのは、暴君や官僚のせいばかりではない。その大元は、
国民の無知が原因であって、自ら招いた禍とも言える
・独立の気概のない者は、必ず人に頼る。人に頼る者は、必ずその人を恐れる。人を恐れる者は、必ずその人にへつらう。常に人を恐れ、
へつらう者は、だんだんそれに慣れ、面の皮が厚くなり、恥じず、論じず、ただ卑屈になるばかり
・人民は長い間、専制政治に苦しめられたので、政府をごまかし、偽って罪を逃れようと、不誠実なことが日常習慣となった。政府は、その悪習を改めようと、
権威をかさに威張り、叱りつけ、人民を誠実にしようとしたが、かえって人民を不誠実に導くことになった
・民間の事業のうち、十に七、八までは官に関係している。このせいで、世間の人の心は、ますます、官を慕い、官を頼み、官を恐れ、官にへつらい、ちっとも
独立の気概を示そうとする者がいない。その醜態は見るに耐えない
・自分が楽しいと思うことは、他人もまたそれを楽しいと思うのだから、他人の楽しみを奪って、自分の楽しみを増すようなことはしてはいけない
・政府が法律を作るのは、悪人を防いで善人を保護し、社会をきちんと機能させるため。学者が本を書き、人を教育するのは、後輩の知識を指導して、社会を保つため
・
金が好きなのは人間の本性。その本性に従い、これを十分に満足させようとするのをとがめられない。だから、金を好む心の働きを見て、ただちに欠点としてはいけない。ただ、限度がなく、道理を外れて、金を得る方向を誤り、道を踏み外すのは、欲張り・ケチ
・驕りと勇敢さ、粗野と率直、頑固と真面目さ、お調子者と機敏さはペア。どれも場面と程度と方向性によっては、欠点にもなるし、美点にもなる。ただ一つ、どの働きにも欠点一色なのが
怨望。怨望の働き方は陰険で、自分も得にならないし、他人に害を与えるだけ
・物事を軽々しく信じていけない。また軽々しく疑うのもいけない。信じる、疑うには、取捨選択のための判断力が必要。学問は、その
判断力を確立するためにある
・心が高いところにあって働きが乏しい者は、常に
不平を持つ。自分にできるような仕事は自分の心の基準に満たないので、仕事に就くのを好まない。かといって、理想の仕事にあたるには実力が足りない。そして、その原因を自分に求めようとせず、他を批判する
・傲慢無礼で嫌われている人、人に勝つことばかり考えて嫌われている人、相手に多く求めすぎて嫌われる人、人の悪口を言って嫌われる人。どれもみな、
他人と自分を比較する基準を誤っている。自分の高尚な考えを基準に、これを他人の働きと照らし合わせるから
明治の初めに、本書を書いた福沢諭吉は、凄い人です。でも、本書がベストセラーとなった当時の日本人も、凄かったのではないでしょうか。
本書は、庶民が、変わらなきゃと思っていた証です。明治維新の諸改革は、為政者がやったのではなく、庶民がやったことなのかもしれません。