とは考

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『食べること生きること・世界の宗教が語る食のはなし』奥田和子

食べること生きること―世界の宗教が語る食のはなし食べること生きること―世界の宗教が語る食のはなし
(2003/03)
奥田 和子

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イスラム教は、なぜ豚肉を食べてはいけないのか?ヒンドゥー教では、なぜ牛肉を食べないのか?禁酒や断食の習慣なども含めて、人は宗教観によって、食べるという欲望に制限がかけられています。

この問題を調査分析したのが本書です。ためになることが、数多く記されています。その一部をまとめてみました。



・ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の生まれた場所は、水の少ない植物が育ちにくい土地柄なので、食べ物に関して、厳しい契約が生まれた。仏教、儒教、道教の生まれた国は、食べ物が豊富だったので、厳しい契約は生まれなかった

・ユダヤ教の旧約聖書には、すべての収穫物は神のものだから、土地から取れる収穫量の中から、穀物であれ、果物であれ、必ず10分の1を取り分けねばならないとの記述

・ヒンドゥー教の供え物は、穀物、家畜、果実、花々、蜂蜜とギー(良質のバター)。供え物の種類によって、功徳の期間が違う

・儒教の供え物は、「真水」(水こそすべての味のもと。酒は混ざりけのないもの)、「焼き塩」(自然の味を尊ぶ)

・ユダヤ教で食べてはいけない動物、「反すうするだけか、ひづめが分かれているだけの動物。野うさぎ、らくだ、狸、いのししなど」「ひれ、うろこのない魚類」「死肉や生きた動物を獲物にする鳥類。猛禽類、こうもりなど」「昆虫」「死肉」「血」「肉食後のチーズ」

・イスラム教で豚を食べてはいけない理由は、「豚は反すうする家畜と野性の哺乳類の雑種であるから、食卓から追放されたという説。旧約聖書に二種の家畜を交配するなという記述」「豚肉は汚染されやすい、腐りやすい、ライ病になりやすい」

・ヒンドゥー教で牛を食べてはいけない理由は、「牛は人間に乳を与え、土地の耕作、刈り入れ、運搬、脱穀を助けてくれる。食べるなどもってのほか」

ユダヤ教・キリスト教> (肉に心を用いない)(貧者、敵にも惜しみなく食べ物を与えよ)(断食は過去の出来事を忘れないための苦行)(教会に、イエスの血と肉を意味する、パンとぶどう酒を拝領する)(食事の席で上席に座ってはいけない)

イスラム教> (食べ物は神からの贈り物、その恩恵を神に感謝する)(酒は人間を欲望の虜にするので、宗教の力で禁止)(貧者に食べ物を惜しみなく与える)(いっせい集団1カ月の断食で、人の痛みを実感として共有)

仏教> (肉食の戒め)(食べることに執着するな)(食べる量を知り、余分を求めるな)(美食の戒め)

ヒンドゥー教> (生き物を傷つけない)(牛を大切にする)(食べ物の分かち合い。王は困った人に食べ物を与える義務)(食事は東を向いてする)(両親や師より先に食べない)(神々を礼拝し、供え物をする)(寺院に供えたお下がりの食べ物を食べると福がある)

儒教> (酒は祭礼の時のみ飲み、時の定めなく飲まない。酔いしれない)(動物の特定の部位、内臓を忌み嫌う)(粗食で質素に。切りつめて祖先に食べ物を供える)(貪りの戒め)(食事中のマナーを守ることで、長幼・死者生者・上下関係のルールを示す)

道教> (生き物を害してはならない)(飲酒者にならない、ほどほどに飲む)(内欲を我慢する。節度を守る)(夜間の食事は非常食)(長寿のために食べ物の選択に注意する)

諸宗教の共通点
1.「飽食の戒め」2.「貪りの戒め」3.「節制・節度」4.「美食の戒め、粗食」5.「飲酒の抑制または禁止」6.「恵みに対する感謝」7.「食べてはいけない食べ物」8.「肉食の戒め」9.「祭儀または祖霊崇拝」10.「博愛・分け与え」

諸宗教の共通でない固有の点
1.「死後の世界の有無とそこでの食べ物」 イスラム教(現世の強い締め付けの反動として、天国での飲食は豪勢) ヒンドゥー教(天国でおいしい食べ物を食べることができる)
2.「断食」 イスラム教(徹底して行う。食事を修業の一部に組み込んで精神の強化、罪のあがないを図る手段にする)
3.「喜捨、献げ物、献金など」 ユダヤ教 キリスト教 イスラム教 仏教
4.「食事作法」 儒教(人間関係の円滑化のために厳重)
5.「不老長寿」 道教(医学と結びついて神仙説に及ぶほど重んじる)
6.「我慢に応じてのポイント制」 道教(食べないで我慢した場合功としてポイント)
7.「生類殺生の戒め」 仏教 ヒンドゥー教(生き物を殺したり傷つけたりしない)



私は、何でも食べるべきという考え方です。外来駆除動物のブラックバスやミドリガメまで、食べる方法を考え、昆虫のおいしいレシピを考えれば、将来の食糧不足にも対応できると思っています。

しかし、世界では、まだまだ食べてはいけないものの制約があります。それは宗教による戒めが理由です。鯨なんかも宗教観による違いの代表的な例です。食べ物をもっと科学的に考えることが、人類の平和につながるのではないでしょうか。


[ 2014/07/04 07:00 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)

『さみしさサヨナラ会議』小池龍之介、宮崎哲弥

さみしさサヨナラ会議さみしさサヨナラ会議
(2011/06/30)
小池 龍之介、宮崎 哲弥 他

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本書は、評論家の宮崎哲弥氏と住職の小池龍之介氏の対談本です。その中の宮崎哲弥氏の考え方が秀逸だったので、その部分だけをとり上げてみました。

本書には、「孤独」についての興味深い考え方が数多くあります。それらをまとめると、以下のようになります。



・人の心は他者の言葉に大きく左右される。詐欺や洗脳のように心に偽りの現実感を植え付ける場合ですら、ほとんどが言葉を手段としている。「たかが言葉に踊らされるなんて」と軽視しがちだが、実は感覚よりも言葉の方が強く心に影響を与える

・憎悪に心を燃やし、嫉妬に身を焦がしている間、孤独感は消える。本当は、その最中に「次の孤独」の原因がどんどん溜まっているのだが、それに気づかないのが罠。こうして憎しみや妬みの心が性癖になる

・セックスは部分的に自我を壊し合うゲーム。ところが、人間は実に手に負えない生き物で、自我の壊れた部分から、もっと自我を肥大させよう、最終的には相手も自分の自我で圧倒、支配しようと指向するようになる

恋心の成分を分析すると、自己愛はもちろん、支配欲とか独占欲とかも含まれている。それに、もっとネガティブな嫌われたくない気持ちも大きい

・通常、欲望は「満たされた状態」を求めるものだと思われるが、実はそれはウソ。満たされた瞬間に欲望は消滅してしまう。人は「すでに持っているものを欲しがることはできない」

・仏教は、欲望を断たないと本当の意味で幸福にはなれないと説くわけだが、多くの人々にとって「本当の意味の幸福」というのは、刺激のないつまらない状況に思える

・風俗産業には、昔から孤独慰撫ビジネスの側面がある。見方によっては、宗教もその種のサービスを提供するビジネスの側面がある

・大人になると、恋愛の「先が見えるようになる」。ある程度、経験値が高くなると、自分の気持ちの転がり方が予測できる。そうなると、味覚と同じで、快楽が次第に減っていく

・男性の根源的欲望は、生の始原の状態、具体的に言えば、母親の胎内に回帰する。これこそが、男の究極のさみしさの解消策。しかし、それは望み得ないので、疑似母胎を探す

・社会の変化は、男女の平等化が進んだというよりも、男女の同質化が急進したととらえるべき。男性がしんどい役割を堅持しなければならない理由がなくなったということ

快楽の量の増大と幸せの増大を同じものとみなす社会は、全体がソフトな覚醒剤中毒にはまっていると言える

・仮に巨万の富や権力によって、大方の欠如が埋められたとしても、新たな欠如を求める欲望の性質は強く残っているため、「欠如の欠如」が意識され、「『欲しいものと思えるもの』が欲しい」という倒錯した渇望が空転することになる

・中村うさぎ氏が「さすらいの女王」で、「『新世紀エヴァンゲリオン』は、全人類が一体化して一つの自我を共有するか、一人一人が孤独な個であり続けるか、という究極の物語であった」とまとめているのは、とても当を得た整理

・「人は死ぬ限り幸福にはなれない」とは、哲学者の中島義道氏の名言だが、「人は不死になっても幸福にはなれない」。死んで無に帰すのも怖いが、永遠に存在するのは、それと等しく恐ろしい

・まともに恋愛してきた大人なら、人が平等だなんて嘘っぱちだと知り尽くしている。愛する一人を選別することの残酷さ、また愛する人から選ばれないことの残酷さ。恋愛は、そういう公平とか正しさとかの学校教育的な建前がまったく通用しないサバイバルだから

・仏教の主要テーマの一つが「世界はままならぬものである」ということ。全知全能の神なんて、もちろん存在しないし、科学やテクノロジーが進んでいっても、人が強い自我を持ち続けたとしても、世界を意のままに変えることなんてできない

・「ままならない世界」を淡々と見つめ、その性質を知り尽くし、自分を自分に縛りつけている強固な錯覚を打ち破ることで、苦しみから解き放たれる。これが、釈迦のオリジナルな教え



煩悩、苦しみ、不条理感、孤独感を完全に解き放つことは不可能ですが、本書を読むと、それらと上手くつきあっていけるように思えてきます。

この世とは、自分の思うようにいかない「ままならない世界」と理解した上で、限りある命を楽しむことなのかもしれませんね。


[ 2013/12/13 07:00 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)

『お寺の経済学』中島隆信

お寺の経済学 (ちくま文庫)お寺の経済学 (ちくま文庫)
(2010/02/09)
中島 隆信

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本書は、日本の仏教の歴史、制度、しくみなどを踏まえた上で、経済を論じている書です。お寺の社会学というタイトルをつけてもいいくらいです。

仏教の経済を通じて、仏教の全体が学べます。勉強になった箇所が多々ありました。それらの一部を要約して、紹介させていただきます。



集団の結束力を高めるには、三つの方法がある。「1.知識の共有」「2.時間の共有」「3.行動の共有」。仏教教団がこうした手段を用いてきた結果が、「釈迦の教え」(経)、信者としての修行の基本方針(戎)、僧侶の守るべき規律(律)の確認

・一部の人間しか救済されない宗教では、いかに教えが尊いものでも、一般に広がっていかない。大乗仏教は「救済」という発想を従来の仏教に持ち込むことによって、一般人に受け入れられる素地を作り、その後の発展の道を切り開いた

・平安時代までの日本の仏教は、皇族や貴族といった国の支配層に支えられ、僧侶は公務員として安定した地位を確保した

・国家権力という強力なスポンサーを得た宗教は栄える。しかし、国家の庇護に安住すれば緊張感が薄れ、宗教は堕落する。政府の保護政策を長年にわたって受けてきた産業が国際競争力を失って衰えることと同じ

・信仰という市場の場合、新規参入者が顧客拡大を図るためには、他宗に対して批判的にならざるを得ない。日蓮が鎌倉政府によって流罪に処せられたのは、信仰市場の新規参入者として、世の中を騒がせたから

・自転車に喩えて言うなら、「経済学」は後輪。ペダルをこぐと後輪が回転し、自転車は前に進む。経済学は社会を前進させる原動力だが、後輪だけでは不安定。前輪の「仏教」が必要。行き先をコントロールし、社会が間違った方向に進まないように正してくれる

・日本の寺にあって、タイの寺にないものは、お墓。日本の寺院にお墓があるのは、日本のお寺に「檀家」という他の仏教国に例を見ない特殊な存在があるから

・江戸幕府が信者を与えてくれた「檀家制度」は財産やスポンサーを持たない小規模寺院にとって願ってもなかった。「宗門人別改帳」に各戸の宗旨と菩提寺名を記載し、寺院が保証したことは、寺院が政府機関の末端として、行政権限を与えられたことを意味する

・江戸時代は職業選択の自由がなく、人の移動も制限されていた。幕府は檀家による菩提寺への定期的な参拝や布施を義務化したため、寺院は顧客と安定した財政基盤を得ることができた。お寺は行政機関の仕事を肩代わりする見返りとして、収入の安定を得た

・幕府が恐れたのは、現状に不満を持った人々が、信仰を求心力として結束し、政治に対抗すること。大衆を結束させないために有効で効率的な方法は、日本人から信仰心を取り去ってしまうこと。檀家制度はまさにその役割を果たした

・檀家制度によって、住民は檀家として、近隣のお寺に縛りつけられた。こうした状況が約260年続いた。日本人に宗教心がないと言われる原因がここにある。お寺を弾圧するのではなく、飴を与えて骨抜きにした。保護政策がいかに産業を駄目にするかの典型例

・檀家制度によって信者が確保されたので、仏教の教義を伝えることよりも、檀家からの布施収入を増やすことが重要となった。日本に古くからある先祖崇拝の儒教思想を利用し、ご先祖様の追善供養と称して、数度にわたる法事を執り行い、布施収入を増やしていった

・決められた仕事をこなす公務員組織では、命令系統明確化のための序列が必要。それが僧侶の官位。僧が官位を得たのは624年。今も残る僧正や僧都の名称はこれに由来。官位の決め方の基準も必要になり、政府は僧侶の年功制を導入した。これが年功制の始まり

・かつて僧侶は、宗教家であると同時に、公務員であり、学者であり、慈善事業家であり、芸術家であり、軍師であり、そして教師であった。近代化とともに、職業が専門化され、僧侶の仕事は、次々と専門職にとって代わられた

・宗教家という専門職は強度に差別化されている。そのため、本来は政府の支配下にあるはずの官僚組織(奈良仏教教団)が力をつけて、政府を脅かした。そこで、桓武天皇は首都を京都に移転し、新しい仏教勢力をつくろうと考えた。このプランに協力したのが最澄

・本来、僧侶の仕事は対価を要求しないもの。困っている人がいれば救いの手を差し伸べて、お礼は後から受け取る。その金額はいくらでも構わない。さらに言えば、布施をさせてあげるのが僧侶の仕事なのであり、お礼を言ってはならないもの



江戸時代が終わり、約150年経っていますが、我々日本人は、今も江戸初期につくられた仏教の制度に精神的に支配され続けています。そこに疑問を感じず、思考停止の状態になっているのかもしれません。

本書は、仏教とのつき合い方に目を覚まさせてくれます。仏教を再考するのによいテキストになるのではないでしょうか。


[ 2013/12/02 07:00 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)

『庶民に愛された地獄信仰の謎・小野小町は奪衣婆になったのか』中野純

庶民に愛された地獄信仰の謎 小野小町は奪衣婆になったのか (講談社プラスアルファ新書)庶民に愛された地獄信仰の謎 小野小町は奪衣婆になったのか (講談社プラスアルファ新書)
(2010/10/21)
中野 純

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地獄といった架空の場所、閻魔さんといった架空の人物をつくり出すことで、世の中が丸く収まるということを、昔の人は発見しました。本当にあると力説するのが、少し照れるのか、閻魔さんは、どことなくナマハゲのようにユーモラスに描かれています。

著者は、地獄信仰のユニークさに魅せられて、日本各地の地獄史跡を回ってこられた方です。その研究成果が本書になります。日本人の心の中に潜むものとは何かが、よくわかる本です。その興味深い点を要約して、紹介させていただきます。



・ものすごく恐いけれど、どこかのんきで、不思議に極楽な日本の地獄。名もなき過去の人たちが生み出してきた、この闇のワンダーランドにもう一度親しみ直せば、この世を生きることがもっと面白くなる

・「奪衣婆」には誰も興味を示さないが、閻魔大王の傍らにいる紅一点。奪衣婆は、盗みを働いた亡者の両手の指を折るとも言われる恐いおばあさん。亡者の死に装束を剥ぎ、亡者が何も着ていない場合、衣の代わりに身の皮を剥ぎ取る

・仏教(とくに浄土教)はあの世を積極的に扱う宗教として、日本に受け入れられた。仏教伝来以前の日本人も、あの世に対する思いは強く、黄泉の国などあったが、システムやディテールのしっかりしたあの世がなかった。仏教が、日本の死後の世界を確立させた

・日本仏教は、お寺の中に極楽浄土や地獄を積極的につくっていった。墓地もお寺の境内にどんどん吸い込まれ、お寺そのものがあの世になった

・閻魔さまは道服(道教の修行者が着る服)を着て座っていて、服の色は赤が多い。王冠をかぶり、髭を蓄えた真っ赤な顔ですごく怒っている。右手には必ずしゃくを持っている。左手にはルールがないので、閻魔さまの個性は左手に出やすい

六道とは、輪廻する六つの世界で、最悪の「地獄道」から「飢餓道」「畜生道」「阿修羅道」「人間道」「天道」の順にランクアップする。だが、庶民の感覚では、地獄道と飢餓道がいっしょくたにされ、それに対して極楽浄土があるという感じであった

・六道の分類は、日本人にはちょっとウザかった。庶民的には、六道はあの世、六道銭(六文銭)はあの世に行くときに使うお金、六道の辻はあの世の入口的なところ。だから、六地蔵は墓地の近くの入口にたくさんある

・美しいものでもいつかは醜くなり、栄華を極めてもいつかは零落する。そういう無常観は、平安時代以降、仏教によって、日本人の心の奥底に染み込んでいった。「卒塔婆小町」の謡曲や「小町老衰像」は老後の美女落魄、容姿の無常観を日本人に強く植え付けた

・火葬場で遺体が焼かれたあと、遺族が二人ずつ組んで、遺骨を二膳の箸で拾って骨壺に入れるのを、箸渡しと呼ぶ。箸と橋を掛けて、三途の川を橋で渡してあげるという意味

・時代が下がり、渡し賃(六文銭)を払って、舟で三途の川を渡り、払わないと、奪衣婆に衣を奪われるというシステムが普及した。奪衣婆は三途の川の渡し賃の徴収係になった

・三途の川だけでなく、地獄の思想も世界のほとんどの人に普及している。ゾロアスター教を初め、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教も、死者は審判によって、地獄と極楽(天国)に振り分けられると考えた。舟形の棺に遺体を納める風習も世界のあちこちにあった

・日本のあちこちにある火山の地獄は、「地獄に似ているところ」ではなく、「地獄そのもの」「地獄と通じているところ」。平安時代、罪を犯して死んだ日本人は、本当に立山地獄に堕ちて苦しむと考えられた。立山、恐山の地獄、湯沢の川原毛地獄が日本三大地獄

・「日本列島の多くの登拝者を集める霊山には、その山中に、浄土ヶ原とか浄土ヶ浜などの名にならんで、地獄谷や賽の河原の名を持つ地点が必ず設けられている」(山折哲雄)

・日本のあの世は、世界でも珍しく、身近にパラレルに存在していた。閻魔さんも恐いだけでなく、愛嬌のある身近な存在で、地獄も恐いけど親しみのある身近な存在だった

・日本の地獄といえば、なんといっても釜茹で。地獄は熱いの一言に尽きる。仏教の地獄には熱地獄と寒地獄があるが、熱地獄のほうが格段にリアルで詳細に描かれてきた

・平安時代に源信が書いた「往生要集」は極楽往生マニュアルだったが、この本には多くの地獄絵が描かれていたため、地獄のガイドブックの先駆けバイブルとなっていった

・平安時代中期以降に普及した仏教の地獄は、「こんなに恐ろしい地獄に堕ちたくなかったら、仏教を信じなさい」という布教の手口となったが、それが時代が下がるにつれて、恐いことは恐いが、どこかのん気になっていく



昔、子供が小さかったとき、お寺で地獄絵本を買って、寝る前に、読み聞かせたことがありました。どんな絵本よりも「効果?」があったように思いました。

著者は、「あの世とは、地獄極楽とは、人間の妄想の集大成。この妄想遺産を大切に受け継いでいくためには、さらなる妄想を加えることが重要」と述べられています。現代人の地獄観をもっと刺激するような「新地獄」を創作すべき世の中なのかもしれません。


[ 2013/11/17 07:01 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)

『鈴木大拙随聞記』志村武

鈴木大拙随聞記 (1967年)鈴木大拙随聞記 (1967年)
(1967)
志村 武

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この本は、87歳になる父親の書棚にあったもので、昭和42年に出版された書です。

鈴木大拙(宗教家・東洋思想家、昭和41年95歳で没)の書は難解で、このブログにとり上げるのをためらっていました。本書は、著者が鈴木大拙の側に寄り添い、その言葉を聞き出したものなので、比較的容易です。その一部を要約して、紹介させていただきます。



・世間的に評判が立つのは、その時その時の時代的条件の組み合わせ次第であって、その人の人間としての価値にはよらない。田舎のお寺の墓場に名も知れず眠る人々も決して「凡人」ではない。周囲の事情の組み合わせ次第で、社会の表面に祭り上げられなかっただけ

・望みが大きくても、その中から純粋なものが出てこなければ、それはアンビシャスではない。人を傷めない人のためになる、といった社会性のあるアンビシャスであること

・向こうの力がどのくらいあるのかを見ないで、むちゃくちゃをやるというのは、人間として極めて低い考え。もう少し自分を尊敬すべき。自分を動物のように見てはいけない

・心なきところに見える働きが、大拙先生が日ごろ最も重んじた「おのずから」ということ。その無功用行(報いを考えの中にまったく入れない行為)が、大拙を大拙たらしめた

・中国も、百年経てば、きっと元の姿に戻っていく。われわれは、過去から現在までに得たものを捨ててはならない。得たものを利用して、昔の系統を続けていくのがよい

・仏教には「あなたはあなたのよろしいように」(良寛和尚)といったようなところがある

・「道はおのずから道なるなり」の「おのずから」が大切。「さとり」とは、「おのずから」に徹すること

・「さとり」とは、「かぎりなく素直な心になること」であるとともに、「その素直な心を決して意識しないで行動できること」である

・誠というものには限りがない。真剣になって誠を尽くそうとすればするだけ、尽しきれない面がマイナスになって跳ね返ってくる。そのマイナスに立ち向かう気力が必要

・自分を知ることぐらい大切なことはない。自分を知る人々は、自分の益となるものがわかり、自分にできることを見分けられる。そして、自分の知ることを実行し、必要なものを手に入れて豊かに暮らし、知らないことは避けて、功なり名をとげて、尊敬を受ける

・聖徳太子の中には、日本的なるもののすべてがある。太子のころの日本を研究し、太子の思想を学ぶことによって、日本的なるものの精髄をつかむことができる

・日本が、日本がと、言っても、日本というものは、世界あっての日本で、日本は世界に包まれているが、日本もまた世界を包んでいる。日本は世界のうちの一つである

・日常的な意識が、宗教的な意識に切り替わると、指一本の中にすべてのものがあるということに、はっきり気がつく

・生まれながらの素質がどれほど優れていても、人間は生育の環境とは無縁ではない。「宮殿の中では、人は小屋の中と違った考え方をする」(フォイエルバッハ)、「人間はすべて平等な素質を持っているが、ただ境遇が差別を設けている」(リヒテンベルク)

・他力を頼んで、他人に依存して、自分からは何もしない、ではいけない。絶対の他力は絶対の自力と同じこと。つまり、自分は苦しんでいても人を助けたいという能動性が、おのずから出てこなければならない

・幸福は苦しみを超越したところにあり、幸福は因果応報を出たところにある。それを出るということは、因果を離れて因果を見るのではなく、因果の中に入っていながら、それが楽しみのものになるということ

・他のために自分の労を惜しまずに、手足を動かしていると、自分のことが自然に気にかからなくなり、自分のことのみを考える癖が少なくなり、「誠」が養われてくる

・詩があると、ゆとりが出てくる。限りあるものが限りないものに変わる。無限の世界が出てくる。詩は創造力。これを持たないといけない

・「願わくば一切の人に極楽へ行ってもらいたいが、私だけはいつまでも苦海にいたいもの」(趙州禅師)。この大悲心こそ、今日の人間を救い、今後の世界を救うものだと、大拙先生は確信していた


鈴木大拙は、明治時代に、欧米で仏教に関する講演や講義をされてきた方です。仏教、東洋思想を世界中の人に伝えることに奔走してきた人でもあります。禅を世界に広めたことでも有名です。

本書は、西田幾多郎と並ぶ、知の巨人である鈴木大拙の素顔が、間近に見えてくる貴重な書ではないでしょうか。


[ 2013/11/10 07:00 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)

『この世で大切なものってなんですか』酒井雄哉

この世で大切なものってなんですか (朝日新書)この世で大切なものってなんですか (朝日新書)
(2011/07/13)
酒井雄哉、池上 彰 他

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先月亡くなられた酒井雄哉大阿闍梨の著書を紹介するのは、「一日一生」に次ぎ2冊目です。本書は、池上彰氏の質問に酒井雄哉大阿闍梨が答える形の対談書です。

今回は、酒井雄哉大阿闍梨が真摯に「生きる」「幸せ」「豊かさ」「争い」「絆」「死」「仏」について答えられている部分を幾つか選び、要約して紹介させていただきます。



・仕事で成功して、調子がいいと思って、有頂天になり、天下を取った気持ちでいると、人間は完璧にできていないから、どこかで隙ができる。その油断で、一瞬のうちに足元をすくわれる

・いろんなことがいい時というのは、見えているようで実は見えていない。調子がよくて周りから注目されたら、自分の言葉に酔って心が緩んでくる。そういうときは誰も注意しないで、おだてるから、ますます酔って、欲の皮が突っ張ってきて、収拾がつかなくなる

・体験したことは、自分の体に染み込んでいるから忘れない

・行に入ったら、「始めも終わりもない」無始無終

・人間は底知れない力を持っていて、もうだめだという時、自分を超える自分が出てくる。姿かたちは見えないが、心の中に

・始めてしまえば、つらいとか苦しいとか考えていられない。ただ決められたことを、無我夢中でお勤めさせてもらっているから

・人間の欲というのは、身体のほうが欲心してくる。次のうがい水が、二十四時間たたないと来ないとなると、今まで完璧に仏様の行をやっていたところに、悪魔がささやく。水を欲す自分と仏様と対決していかないといけない

・人間には、葛藤があるわけで、背中には常に悪がくっついてささやく。よいことをやっているつもりでいても、油断していると、悪いほうの奴がちょっかいを出してくる

・人間の心の中には、常に「善」という慈悲の心と、人を妬んだり蔑んだりの「悪」の心が同居していて、善と悪とが葛藤しながら、向上心と平常心を保っていく

・今自分が置かれている環境が「幸せ」と思ったら幸せだし、幸せはここではない、他にあると思っている人は、単純に幸せだと思っている人からみたら不幸

・人よりも幸せになろうとすると、幸せが競争、争いごとになる。自分だけが幸せになればいいと考えているから、人との摩擦が起きてしまう

・日本人の根っこには、仏教的な慈しみの気持ちがある。だから、思想信条を離れても、わりあい穏やかにまとまれる

・泥棒してやろうと思って生まれてくる子はいない。誰だって、「おぎゃー」と自然のままに出てくる。それがだんだん、周りの人たちの育て方、絆によって、引っ張られる。いい絆であれば、いいほうへ行くが、悪い絆であれば、悪いほうに行ってしまう

・あれもこれもと、欲張っていると、いざとなったとき、未練を残すことになる

・この宇宙の中で、現世も来世も、自分は宇宙の一点にすぎない。仏様とのご縁があって地球に生まれ、そして、点と点同士が共存しながら、時間という限られた空間で過ごしている

・愚痴をこぼしたり、妬んだりするのは、自分自身に自信がないから。自信があったら、あの人のここはすごいなあと素直に褒め喜べる。見た目だけで簡単に判断を下してしまうから、うらやましく映ったりする

無常の風はずーっと吹いている。自分自身が強くなって、はねのけるだけの力を蓄えていくしかない

・むりせず、急がず、はみださず、りきまず、ひがまず、いばらない

・知的な障害を持った子たちは、世の中に福を与えている。「あなたは福の神なんだ」と教えてあげればいい。手助けされたりすると、自分が厄介者だと思ったりする。仏様から授かった使命だから、誇りを持って生きていけばいい。

・人生はろうそくと同じ。ろうそくに火を点して、最後まで燃え尽きるのがいい。蝋を残したら、もったいない



織田信長の比叡山焼き討ち以来、たった三人しかいない千日回峰行二度満行した大阿闍梨の哲学は、やさしい言葉で語りながらも、核心をついています。

達観や悟りといったことを通り越した、天の声とも言うべき言葉なのではないでしょうか。


[ 2013/11/01 07:00 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)

『猫のように生きる: からだで感じる生きかた指南』板橋興宗

猫のように生きる: からだで感じる生きかた指南猫のように生きる: からだで感じる生きかた指南
(2013/03/07)
板橋興宗

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著者の本を紹介するのは、「息身佛」に次ぎ2冊目です。著者は、曹洞宗の管長という大役を務められた後、福井県で禅寺を興し、修行僧30人、猫80匹とともに、暮らしています。

本書は、猫好きで知られる住職が、猫のように「からだで感じる」生き方を指南したものです。非常にわかりやすい言葉なので、少々戸惑ってしまうほどです。それらの一部を要約して、紹介させていただきます。



・みんなで一緒にやるから修行できる。一人では節制できない。規則正しい修行生活を送っていると、自分に締りがでてくる。そして、身心ともに健康であることを、直に感じる

・修行をすると、言葉を離れて、からだがわかっている生活に戻る。修行というものは、どんな種類のことでもそうなる

・その時、その時の「今」に目を向ける努力。それが私の修行。私にとっての修行の目標は「実感

・坐禅をすると、脳の中が無重力の状態になる。宇宙船の中では、何の抵抗もなくサーッとモノが動いていく。人間の頭も、執着がなければ無重力の状態になる

・言葉で考えるのではなく「からだがわかる」生き方が、坐禅の真髄

・坐禅をしていると、いい知恵が出る。大切なことを決定するときなど、坐禅をするといい。毎日続けていると、自然に普通の人とはどこか違ってくる

・どこに石があるのか、足を取られる深みがあるかわからない川を渡るのに、おどおどしながら渡る人もあれば、遠くに見える光を信じ切って「あそこに輝くものがある」と足元を気にせず歩いて行く人もある。それが信仰というもの

・禅の方法は「深みがあって転んだら、転んでもいいじゃないか」と、取り越し苦労をしないで、前向きに歩くというもの

・解脱(悟り)とは、「このままでよかったのだ」と気づくこと。頭で考えて理解することでもなく、単なる納得でもない。ああ、このままでよかったのだという「気づき」

・猫には言葉がない。「にゃー」「にゃお?」と、気分がそのまま声に現れているだけ。人間は言葉で考えるから、「明日はどうなるのか」「あの人は何を考えているのか」「ほかの人に比べて」と、悩んだり喜んだりする。まるで、頭の中で、小説や映画を描いている

・「言葉の極致」は、言葉を使わずに「からだがわかる」ことにある。言葉を使うよりも「からだがわかっている」のが実感であり事実

・猫は、魚を食べてお腹がいっぱいになれば、どこかへ行ってしまう。また同じ場所に置いてあれば、また食べに来る。ただそれだけ。人間は「残しておけば誰かが食べてしまう」と推測する。人は考えて悩み、苦しみ、争い、果ては戦争までやってしまう

・我々は、変わりゆくものに個人的な情を入れてしまう。執着することさえなくせば、恐れることのない「自由自在の境地」になれる

・猫には言葉がないから、餌のために争うことがあっても、その時、その場だけの争い。相手の油断を狙って襲いかかる考えや計画性はない。「煩悩は言葉がつくる

・とにかく、グチグチと考えるくせを少なくすること。それには、自分のやりたいこと、好きなことに目を向けて、努力するのが一番賢明な生き方。そのために、坐禅や読経などの修行がある

質素な生活ほど精神性を深める。再び、良寛さんや二宮尊徳のような質素な暮らしが重んじられる時代がやってくる。それが日本人の底力

・「生ぜしも独りなり、死するも独りなり、されば人と共に住すも独りなり」(一遍上人)

・優しい言葉には動物も従う

・この世には雑用という用は一つもない

垣根は相手がつくっているものではない。自分がつくっている

・智は愚を責めず



著者は、観念の世界よりも、「からだ」の感性に重きをおいて生きることが、生きることの極意であると説かれています。

坐禅を含めた修行というのは、人間の心にこびりついた言葉の垢や汚れをとるためのものかもしれません。絶えず、心の中をクリーンにしておくことが大切なのだと思います。


[ 2013/09/27 07:00 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)

『和顔・仏様のような顔で生きよう―山田無文老師説話集』

和顔 仏様のような顔で生きよう―山田無文老師説話集和顔 仏様のような顔で生きよう―山田無文老師説話集
(2005/10)
山田 無文

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著者は、25年前に亡くなられた昭和期の代表的な禅僧です。著書を数多く遺されています。私の父が、著者のいた禅寺に通っていた関係で、その著書が家にたくさんあります。

本書は、著者の「仏様のような顔(和顔)で生きよう」「和顔を人生の目標にしよう」といった訓えを、簡潔に表わしたものです。ためになることがたくさん載っています。それらの一部を要約して、紹介させていただきます。



・人生とは、ただ生活を享楽するような甘いものではない。また、より多く幸福を求めるなどという、意味のないものでもあってはならない。自分がこの世の中に出てきた真実の意味を自覚し、何らかの足跡を残していかなければ、せっかく人間に生まれた甲斐がない

・臨済禅師は「随処に主と作れ」と言った。これは、威張れということでも、自由勝手にせよということでもない。どこへ行っても、その場所を愛せよ、愛情を持てということ

・臨機応変のはたらきは、何も思わぬところから自然に出てくる。その、何も思わぬ純粋な気持ちをいつも失わないことが、一番大事なことであり、それが「信心」

・古い記憶がいつまでも心の中に残っているというのは「穢れ」。すんだことをいつまでも覚えているのは「心の塵

・すべてのものに敬語をつけて、尊敬して呼ぶことが仏法の教えであり、日本民族の長いならわし。しかし、それは、どんなものにも魂があるから尊敬するというのではない。こちらの感謝の心が、そうせずにはおられぬからそうする

・霊があれば祀る、ないから祀らないという理屈ではなくて、霊があってもなくても、祀らずにおられないからそうする

・自性がわかることを見性と言う。真実の自分もわからずに、世の中へ飛び出して、損だ得だ、嬉しいの哀しいの苦しいの楽しいの、憎いの可愛いの、進歩だ闘争だと騒いでみてもしょうがない

好き嫌いにとらわれたら、これほど嫌なものはない。良し悪しにこだわったら、これほど厄介なものはない。好き嫌いを捨てずに、好き嫌いに落ちず、良し悪しにこだわらずして、良し悪しのけじめを正していく、そこに至道の妙味がある

・頭をゴツンと打って、「痛い!」のは親から教わったものではない。何もないこころから「痛い」と出たもの。この何もないこころから分別せずに出てくる智慧、かかる純粋な意識そのものがわかることを悟りと言う

・花には蜜があるが、それは世の中に奉仕しようとする心、何かを捧げる心。花さえ咲かせれば、実はひとりでに結ぶ。幸福というものは、こちらから求めるものではなく、向こうから与えられるもの

・草木がこの世に生じたのは、美しい花を咲かせるため。人間がこの世に生まれてきた目的は、仏のような立派な人相をつくるため。死ぬまでに、よい人相になりたいもの

・何もない透明な、写真機のレンズのような心が、ものに触れ、ことに触れて感動し、その端的に句が生まれる。そこに俳句の世界があり、それは、禅に近いもの

・人間の内側に動揺しないものがあるから、動揺する心がわかる

・現実の世界の真っただ中にあって、苦楽の中にいて苦楽を離れ、生き死にの中にいて、生き死にを忘れている、そういう心境が彼岸と名付けられるもの

・「求むる有るは皆苦なり」、つまり、心の中に欲しい物があるのは皆苦の種だと臨済禅師ははっきりと言っている

・純粋とは、計らいのないこと、権謀のない心、それを内面的に把握すること、これが「直心」で、「直心は是れ菩薩の浄土なり」とは、その心自体が浄土であるということ

・人柄や相といった、人間から出てくる匂いがないといけない。美男や美女でなくてもいい。顔に何とも言えない味わいが出てくるのが「妙相」。惚れ惚れとする顔ではないが、何かしらいいところ、明るいところ、温かみがある「妙相」になっていかなければならない

・親が生みつけてくれた顔を、輝かしい、喜ばしい、微笑みのある、温かい、人に喜ばれる、いい顔にして死ななくてはいけない。大概、親の生んでくれた無邪気な顔を、できそこないの顔にして、死んでいく



人相は、年齢とともに、顔に刻まれていきます。写真家が撮ってみたいと思うような顔になるには、真剣に、誠実に、生きていないと、そうなりません。

お金や名誉に恵まれていない市井の人の中に、この「和顔」の人が大勢います。人は見た目ではわからないといいますが、本書を読むと、「人は見た目でわかる」ように思えてきます。


[ 2013/08/30 07:00 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)

『唯識わが心の構造「唯識三十頌」に学ぶ(新・興福寺仏教文化講座)』横山紘一

唯識 わが心の構造―『唯識三十頌』に学ぶ (新・興福寺仏教文化講座)唯識 わが心の構造―『唯識三十頌』に学ぶ (新・興福寺仏教文化講座)
(2001/09)
横山 紘一

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唯識観とは、自己と世界の真のありようを見究める観察方法です。その観法の根拠となるのが「唯識思想」です。その唯識思想について、著者が興福寺仏教文化講座で講義した内容をまとめたものです。

仏教というよりか、「仏道」(仏に成る道)について詳しく述べられている書です。勉強になった箇所が多々ありました。それらの一部を要約して、紹介させていただきます。



・「心の中に一切を還元して観察する」ということは、具体的には「対象に成りきる」ということ。対象に成りきってしまう。これが唯識観の本質。その成りきった対象をもう一度心の外に投げ返し、そこに日常生活を送るなら、今までと違った世界が展開してくる

・「眼識」「耳識」「鼻識」「舌識」「身識」は前五識、視覚~触覚の五感覚。「意識」は第六意識。この心の意識の運用によって、人間は善にも悪にもなる。以上が表層の心理。唯識ではさらに深層心理の「末那識」(自我執着心)と「阿頼耶識」(根本心)がある

・阿頼耶識に蓄えられた種子から眼識~末那識が生じ、肉体が生じ、さらに自然界が生じる。すなわち、阿頼耶識に所蔵される種子とは、「あらゆるものを生ぜしめる可能力

・私たちは生まれたからには、社会に役立ちたいと思っているが、それは表層心理で理性的にそう考えるのであって、決して全体としてそうではない。私たちは何をするにしても自己中心的。末那識が表層心理にかかわらず、常にドロドロと自己中心的に働いている

・白隠禅師の「坐禅和讃」の中に、「坐の功を為す人は、積みし無量の罪滅ぶ」という一句がある。「わずか三十分坐っても、その行為が深層に積もり積もった煩悩を焼いてくれる」という意味。「自己の心の汚れは、自己の心によってしか除くことはできない」

・極楽往生を願うという往相は、再びこの世にもどって人々を救いたいという還相の願いがあって初めて許されるもの

・日本の仏教は現世利益志向が強いため低く評価されるが、現世利益は一概に悪くない。なぜなら、花が咲いて実がなるように、現世利益を経ないと、出世利益にならないから

・阿頼耶識は善でも悪でもない無記。そもそも、善悪は人間が自分のエゴによって考え出したもの。そういった意味で、あらゆる存在は無記という主張は、重い意味を持っている

・私たちの根底をなす阿頼耶識が善でも悪でもなく無記であるからこそ、私たちは悪から善へと変化していくことができる

・私たちは、日常生活において、物質的なものだけでなく、知識を増やしたいといった精神的なものも蓄積する。しかし、それらが蓄えると、ますます執着心が増していく

・阿頼耶識は、業すなわち行為の結果を貯蔵するはたらきがある。行為の結果を種子あるいは習気という。習気の「習」は繰り返すという意味。繰り返し繰り返し行う表層の行為の結果がどんどん薫習されていく場所、それが深層心理の阿頼耶識

継続的な向上努力を、仏教では「精進」という。そうした精進によって、すばらしい業を積み重ね、阿頼耶識(自己の根源的な心)から煩悩を払拭して、それを清らかなものに戻していくことが、私たちにとっての生きる目的

・「言葉が現象を生み出していく」という事実認識から名言種子という考えができてきた

・私たちは、地球上に発生した命の大きな流れの一滴にしかすぎないのに、それを忘れて自分自身と「自己存在」に捉われ執着し、苦しみ悩み対立しているところに問題がある

・自我執着心をなくせばなくすほど、自己は鏡のように光り輝き清らかなものになっていく。そこが空性を悟るということになる。そのように空性に達することが、菩提を獲得するということ

・「自己を習ふといふは、自己を忘るるなり。自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり」(道元禅師)の「万法に証さらるる」というのは、自分が悟るのではなく、一切のものが自分を悟るということ

・「この身を度する」のが「上求菩提・下化衆生」という誓願を持って生きる菩薩の生き方。このうち「上求菩提」が自利行で、宇宙の真理を悟ること。「下化衆生」が利他行で、人々を苦しみから救うこと。そういう願いを持って生き抜けば、すばらしい一生が送れる

・一体この世は何なのかというと、唯だ自然があるだけ、唯だ他人がいるだけ、唯だ心があるだけ。とにかく、対象に成りきったとき、そこに現成してくることしかない



本書は、350ページに及ぶ大作です。仏道を本格的に学ぶための専門書です。今回は、その中で、やさしいと思われる箇所だけを抜粋して、紹介させていただきました。

仏道と真剣に向き合いたい方、人間の心の構造をもっと知りたい方には、最高で最上の書になるのではないでしょうか。


[ 2013/08/23 07:00 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)

『いま知っておきたい霊魂のこと』正木晃

いま知っておきたい霊魂のこといま知っておきたい霊魂のこと
(2013/03/14)
正木 晃

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本書は、世界の人たちが、死、霊魂、輪廻転生、天国と地獄、幽霊、鎮魂、葬式、お墓についてどう思っているのか、どう考えているのかをまとめたものです。世界の霊魂観がよく分かる文化人類学のような書です。

日本人だけのもの、世界共通のものを知ることによって、霊魂という不思議な存在が見えてきます。この興味深い内容の一部を、要約して紹介させていただきます。



・今を去ること何万年前、人類は霊魂の存在を意識し始めたことで、新たな発展段階に入った。家長が死んでも、霊魂が見守ってくれていると、苦悩の末に思いたどりついた。死後の世界死者の霊魂が確かにあるという貴重な智恵が、宗教の起源だった

・幽霊が真夜中に出やすい理由は、光を非常に嫌うからだと言われる。洋の東西を問わず、聖なるものは光と強く結びつき、反対に聖ならざるものは、闇と強く結びつく

・古代エジプトでは、死者は審判を受けなければならなかった。生前の行いと心臓の重さが、「真理の秤」にのせられ、照らし合わされた。その結果がよければ、死者は至福の生活を保証され、結果が悪ければ、天秤の傍らの怪物に食われ、一巻の終わりとなった

・メキシコの山岳民族のウィチョル族は、霊魂を、色の白いてるてる坊主のような姿をしていると考えた。てるてる坊主には下半身がない。その理由は、不死の世界に行くためには、性の執着を捨てる必要があると考えられたから

・霊魂は肉体というくびきを離れて、どこへでも行けることから、鳥の姿形に見立てる事例が、世界のいたるところで見られる。鳥は霊魂だけでなく、死後の世界の案内役と見なされることもよくある

・東京大学の「死生学研究」における「お迎え時に見えた、聞こえた、感じたらしいもの」の内訳は、「すでに亡くなった家族や知り合い」53%、「その他の人物」34%、「お花畑」8%、「仏」5%、「川」4%、「神」1%、「トンネル」1%、「その他」31%

・幽体離脱の体験に共通することは、過酷なストレスにさらされているときに、別の自分を見たという点。かなり高い確率で、自分自身を上から見るという体験をしている

・怨霊が猛威を振るったのは、平安時代から南北朝時代まで。室町時代の中頃になると、怨霊は一段落するが、特定人物に対する霊魂の復讐という構図は、その後も消えなかった

・私たちのご先祖は、最初は恐怖の対象だった霊的な存在を、浄霊という乱暴な方法ではなく、うまく手なずけて、味方として「祀り上げた

・仏教が不振を極めている現時点でも、信者や檀家が増えているお寺に共通するのは、住職に特別な力があると見なされているところ

・死者儀礼の第一歩は、その人に、あなたは死んでいると、ちゃんと教えてあげるというのが、古今東西、宗教界の金科玉条

・だいたい20~30人に一人の割合で、金縛りの体験者がいる。そして、金縛りにあいやすい人ほど「変なもの」を見る確率が高い

・仏教の基本的な教えでは、人は死ねば、最長で49日間に、何かに生まれ変わっているはず。したがって、お墓や仏壇に霊魂はいないことになる。しかし、日本人の多くは、お墓や仏壇に霊魂はいると信じてきた

・輪廻転生の理論では、幽霊は存在しないはずだが、チベットでも、輪廻転生できず幽霊になってしまう者がいて、回忌法要が営まれている

・真言宗や日蓮宗では、おおむね霊魂はあるという立場。曹洞宗は、約半分のお坊さんが、霊魂はあると見なしている。それに比べ、浄土真宗は霊魂の存在について否定的

・天国の説明に関する限り、イスラム教は具体的。コーランには、「清らかなこんこんと湧き出る泉のほとりの緑したたる木陰で、みめ麗しい少女や少年にかしずかれつつ、この上なく美味な食物や飲料や酒を心ゆくまで堪能できる」」と説かれている

再生を期待する心と、祟りを恐れる心。縄文時代の人々は、死者の霊魂に対して、互いに矛盾する二つの思いを抱いていた。この思いは、その後も日本人の心にあり続けてきた

・仏教が日本に広まったのは、悟りが開きたいとか、ブッダの教えに従って人生を全うしたいといった立派なものではない。怨霊を鎮め、成仏させる力が期待されたからこそ、広まった



霊魂の存在をどう考えるかで、それが宗教になり、民族になり、文化になっていきました。

霊魂について、再度どう考えるかで、人の一生も変わってくるのではないでしょうか。難しいことを考えたくなければ、地域や民族の伝統的な型式に従うのがベターなのかもしれません。


[ 2013/08/09 07:00 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)

『日本仏教名言集』石上善應

日本仏教名言集日本仏教名言集
(2009/01/20)
石上善應

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日本の名僧が「書」で文字に記した言葉を、「天台系」「真言・密教系」「浄土教系」「系」の4部門から選んだ本です。その名言にわかりやすい解説が付いています。

これらの名言は、掛軸などで、床の間に掛けられ、作品としても、愛でられてきたものです。じっくり吟味できる内容になっています。その一部を紹介させていただきます。



・「他不是吾」(道元)
他の人がやったことは、自分のやったことにはならない。仏道修行は代理がきかない

・「資生業等皆順正法」(法華経)
日々の生活が、様々な人に支えられていることに気づき、各々の境遇で真剣に努め励み、周囲を幸せにしていく生きざまが、仏の道にかなっている

・「己を忘て己を忘れざれ」(鈴木正三)
自己を忘れ無我になって、しかも自己を大切に守らなければならない

・「何の事業も皆佛行なり」(鈴木正三)
いかなる職業に従事していても、それがみな仏道にかなった行いである

・「一筋に正直の道を學ぶべし」(鈴木正三)
ひたすらに正直の道を学んでいくべきである

・「佛道をならふといふは自己をならふなり」(道元)
仏道を学ぶということは、自己を学ぶということである

・「まことの道を好まば道者の名をかくすべきなり」(道元)
真実の道を生きるのであれば、道を行ずる自分自身の名前を他人に知られようとせずに隠すべきである

・「只心をはつしと用 一切を吐出して常に隙にて居給べし」(鈴木正三)
ただ心をはっしと用い、一切を吐き出して、常にすかっと空になっておられよ

・「常に死習って死の隙を明 誠に死する時 驚ぬやうにすべし」(鈴木正三)
常に死ぬことを習って、死ぬということがよくわかって、本当に死ぬ時、驚かぬようにしなさい

・「我有りと思ふ心を捨てよただ 身のうき雲の風にまかせて」(一休)
自分が存在すると思う、その心を捨てなさい。浮雲が風にまかせて流れ行くように

・「極楽に行かんと思うこころこそ地獄に堕つる初めなりけり」(夢窓疎石)
極楽に行きたい行きたいと願う心が地獄に堕ちる原因の第一歩である

・「すみすまぬ こころは水の泡なれば 消たる色や むらさきの雲」(一遍)
澄んでいようが濁っていようが、この身の心は、はかなくもろいもの。この心の様々な色が消えた後にこそ、紫の雲がたなびくのだ

・「佛法を修行するとは佛法を習ふにあらず 我僻事を破るなり」(一休)
仏法を修行することとは、仏法を習うことではない。自らの誤った考えを破ることである

・「身の咎を己が心に知られては 罪のむくいをいかがのがれん」(至道無難)
自分の間違いを自分の心に知られた以上、その罪の報いから逃れることはできない

・「世の中にまじらぬとにはあらねどもひとり遊びぞ我は勝れる」(良寛)
世の中の人々と付き合わないというのではないが、一人で詩歌や書にふけるほうが、自分にとっては好ましい

・「若し人心にかなふことを愛せずば心にそむくこともあるべからず」(夢窓疎石)
もしも自分の気に入ったものに執着することがなければ、気に入らないことが起こることはない

・「見ず聞かず言わざるの三つのさるより思わざるこそまさりけれ」(良源)
悪事を見たり、聞いたり、悪口を言ったりしないことはもちろんのこと、悪いことを考えたり、思ったりもしてはならない

・「さけばさきちるはをのれと散るはなの ことはりにこそ身は成りにけり」(一遍)
花が咲き誇れば、その後は必ず散りいく花となる。これが自然の道理。我が身もこの道理そのものだ



本書には、1000ほどの仏教名言が収められています。どうしても、自分の好みから、道元、一休、夢窓疎石、鈴木正三などの禅僧の言葉が多くなってしまいました。

本書には、浄土系、天台系、真言系などの僧侶の言葉も豊富に載っています。それぞれの気に入ったものを拾い集めてみるのもいいのではないでしょうか。


[ 2013/06/14 07:00 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)

『心に響く99の言葉―東洋の風韻』多川俊映

心に響く99の言葉―東洋の風韻心に響く99の言葉―東洋の風韻
(2008/06/06)
多川 俊映

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著者は、阿修羅像で有名な興福寺の貫主です。以前に「唯識十章」という本を紹介させていただきました。

本書は、週刊ダイヤモンドに「東洋の風韻」と題して、著者が2年間にわたり、連載していたものです。難しい仏教の言葉を、できるだけわかりやすく説明されています。それらの一部を、要約して紹介させていただきます。


・誰も気になるのは人目で、それで人は皆、それなりに慎んだ自分になる。しかし、人目のない時人目の届かぬ心の内は、やることが雑になり、思いは乱れる。そのことを甘くみてはいけない

・他の動向に振りまわされたら、心は乱れるし、品格も下がる。「分」とは、「他と比較しない自分」ということ

・越すに越せない心の垣根などという、そんな垣根などあるわけでもなく、わが心が作り出したもの。気がつけば越えていたという程度のもの

・「雨の日は雨を愛さう。風の日は風を好まう。晴れた日は散歩をしよう。貧しくは心に富まう」は、堀口大学の詩。こせこせ比較しないと決めたら、その瞬間から風景が違ってくる。心に富むとはそういうこと

・心の深層に植えつけられた行為の情報が、積もり積もって、パーソナリティーを形成する。やはり、行為が人をつくる

・あんなヤツ、いなきゃいいんだ、という密やかな思いは呪殺そのもの。そのドス黒い想念が、他ならぬ自分を深いところから汚す。まさに、還って本人にたどり着く

・過去一切を、私たちは背負って今日ここに在る。だから、過去を捨てることなどできない。しかし、過去を土台として、跳躍することはできる

一点の素心とは、何ものにも汚されない清々しさ。それは、人としての誇り、矜持と言い換えることもできる。そして、それを心に秘める者だけが、心温かきことに出会い、真の人になっていく

・どの道でも、極めた人・極めようと真実一途な人は、隠したり意地悪したりしない。そのように、オープンな人だけが、道を極める

・善眼でも悪眼でもない、あるがままに見る慈眼という第三の眼があることを知っておけば、いつかはそれに近づくことができる

・私たちはどうしても、他人の小過・陰私・旧悪に目が行く。そこを踏ん張って、むしろわが身をこそ振り返る。そこに徳が養われ、同時に、人の恨みも買わなくてもすむ。まさに、一石二鳥

・「衣裏の珠を看よ」とは、良寛の語。いいものは遠く離れたところにあるのではなく、もっと自己の日常を見つめて、自分の心の中にこそ、自己を大きく成長させるものが備わっているのではないか、というもの

・一遍は、「生ぜしともひとりなり。死するも独りなり。されば人と共に住するも独なり」と述べている。たとえ群れていても、独りなんだ。人間とは、そういうものなのだ。何ごとにつけ、それをもとに考えれば、本質をはずすことはない

・私たちは当面の都合だけで、関係性の有無を判断し、無いとみれば、ものの見事にバッサリと切り捨ててしまう。そうして、わが世界を自ら狭くしている。視野を遠くに投げかけて、頑なになった心をほぐしたい

・一遍は「仏も吾もなかりけり」と言う。ここにはもう、主体と客体とを区切るボーダーはない。そういうボーダーレスの世界がある。ものごとはほぼ、そうした没我の世界においてこそ、成就する

・私たちは、前生から来た旅人。永遠の過去から永い旅路の果てに、いまここに在る。永遠の過去とは、もとより生命の根源のこと。誕生も卒業も、事業の完成も定年も、そして死もまた、旅の途中の一コマ

・「大きな真実は大きな沈黙をもっている」とは、そこから先が大事なのだということ。言葉を超えた世界に遊ぶことは、人に重厚さを与える

・インドの詩聖タゴールは、「死んだ言葉の塵がお前にこびりついている、沈黙によってお前の魂を洗え」と、聞き捨てならぬことを述べている。黙すことを学ばなければならない



著者は、仏教界の中だけでなく、一流のエッセイストとして、言葉で一般大衆を率いることでも、群を抜いているように思います。

仏教の考え方を、品よく、さりげなく伝える技術は、今の仏教界において、著者の右に出るものはいないのではないでしょうか。


[ 2013/04/26 07:00 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)

『儒教とは何か』加地伸行

儒教とは何か (中公新書)儒教とは何か (中公新書)
(1990/10)
加地 伸行

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日本、中国、韓国は、いがみ合うことが多いですが、官僚制度、家族制度、教育制度など、そっくりなものが多いのも事実です。もし、日中韓を一括りに表現するとしたら、それは「儒教文化圏」という言葉が適切だと考えられます。

中国で生まれた儒教が、われわれの生き方や行動の規範になり、ある意味、儒教に縛られて生きています。この縛られている「儒教とは何か」を知らなければ、国際的な視点に立って、物事を考えられないように思います。

本書は、非常に深い内容の書です。合点がいくこと数多くありました。それらの一部を要約して、紹介させていただきます。


・明治初期に姓を持った後、しばらく女性は生家の姓を用いていた。しかし、民法が公布された明治31年以後、夫の家の姓を用いるようになった。中国、韓国、明治31年以前の日本で、妻が生家の姓を名乗ったのは、儒教における「同性不婚」の原則によるもの

・仏教では、死後、霊魂は成仏するか、転生する(再度生まれ変わる)かどちらか。成仏していれば、下界の者が供養する必要はない。転生していれば、霊魂はもはや存在しない。お骨は肉体を焼いた残骸にすぎない。単なる物を崇めることは、仏教的には無意味

・中国の人々は、インド流の「この世は苦しみの世界である」、キリスト教の「人間は原罪を持つ」などとは絶対に考えなかった。それどころか、中国人は、この世を楽しいところと考えた。ここが、酷烈な環境のインド人や砂漠の中近東の人と決定的に異なるところ

・中国人の思考は、漢字ならびに漢字を使った文章による。漢字は表意文字。表意とは、物の写し。物の写しだから、先に物がある。「はじめに言葉(神)ありき」ではなくて、「はじめに物ありき」。中国人にとって、現実とは、物に囲まれた具体的な感覚の世界

・中国人は現実的、即物的。この世に徹底的に執着する。特に金銭への執着は物凄い。こうした感覚の中国人にも死が必ず訪れる。中国人は、死後、この世に帰ってくることができることを最大願望とした。その願望に、納得いく死の説明をしたのが儒家

・儒家が考えたのは、精神の主宰者(魂)と肉体の主宰者(魄)が一致しているときが生きている状態、魂と魄が分離するときが死の状態。すなわち、呼吸停止(心臓死)が始まると、一致していた魂と魄が分離し、魂は天上に、魄は地下へと行くのが死

・祖先の祭祀(招魂再生の儀礼)を続けるには一族が必要になる。儒家は、「1.祖先の祭祀」「2.父母への敬愛」「3.子孫を生むこと」。これら三行為をひっくるめて「孝」とした。父母への敬愛だけを孝とするのは誤り

・孝の行いを通じて、自己の生命が永遠になる。そう考えれば、死の恐怖も不安も解消できる。永遠の生命こそ、現世の快楽を肯定する現実的感覚の中国人が最も望むもの

・儒には、王朝の祭祀儀礼・古伝承の記録を担当する知識人系上層と祈祷や喪葬を担当するシャマン系下層がいる。今日においても事情は同じ。日本における新興宗教のほとんどは、民衆の淫祀邪教(祈祷師、拝み屋)への願望とエネルギーに基づいて起こる

・鎌倉時代から江戸時代にかけて政権を握ったのが武士階級(武官)。この武官が文官向きの儒教的教養を身につけた。この点が、日中の儒教理解の相違の一つである、「孝」より「忠」の重視となっていく

・中国人に道教(現世利益を得られる宗教)が広まった結果、昼(公的)は儒教、夜(私的)は道教というようになる。「儒教」(子孫の祭祀による現世への再生)「道教」(自己の努力による不老長生)「仏教」(因果や運命に基づく輪廻転生)と理解(誤解)していく

・中国の仏教は、結局、自力のと他力の浄土思想(阿弥陀如来の本願にすがれば浄土へ行ける)が残る。自力の禅は、老荘思想の超世間、脱俗、自然重視の考えと結びつく

・宗教性を持つ儒教から礼儀性の強い儒教への方向は、寺院が、キリスト教を禁ずる目的の檀家制度によって葬式を一手に握った江戸時代に色濃くなる

朱子学とは、儒家が唱えた、宗教性(死の不安、生命論としての孝)と礼教性(家族論、政治論)の上に、哲学性(形而上学、宇宙論)を重ねたもの

・仏壇は、仏教本来のものではなく、儒教における廟・祠堂のミニチュア。香を焚き祖霊に祈るのも儒教の招魂儀礼。墓を建てることも墓参りも仏教はしない。本来は儒教。しかし、日本仏教は、墓参りに、お彼岸やお盆の日を選ぶ

・現代日本でも、政治倫理が強く求められる。すなわち、政治家的力量や行政官僚的能力よりも清潔な道徳家であることを求める。これは伝統的な儒教的なお上像。こうしたお上に対して、べったり甘えてぶらさがるのが、われわれ儒教的民衆


われわれ日本人の考え方は、もともとの土着的なものに、中国の影響と歴史的な政治体制の変遷が加わり、徐々に形づくられてきたものです。

現代の急激な変化の中で、その考え方が崩壊しつつあります。そのとき、何を捨て、何を残すかは、本書のような本を読み、じっくり考えていく必要があるのではないでしょうか。


[ 2013/03/22 07:02 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)

『悪と日本人』山折哲雄

悪と日本人悪と日本人
(2009/12/18)
山折 哲雄

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山折哲雄さんは、国際日本文化研究センター教授、所長を務めた宗教学者です。テレビやラジオでの講演を何回も聴いたことがあります。

このブログで採り上げるのは初めてです。やさしいお顔と口調とは逆に、本書の文面は、ズバッと言い切る力強い内容になっています。その中から、気に入った箇所を選び、紹介させていただきます。



・「学問の対象には、いつもいいものだけ選ぶわけにはいかない。悪いことでも、人間生活にあるものだから、研究しなければならない。この両端が相まって初めて、人間の生活、社会の機構がわかる。道徳の研究には、悪徳の研究が必要」(折口信夫)

・仏教は19世紀ヨーロッパの知的世界において怖れられた。仏教の内部に根づく「虚無」の信仰が、恐怖の対象とされた。それは、「悪」そのものを伝える凶々しいサインだった

・カルトにおいては、神秘体験が非常に重視されるが、それは神秘体験の中で、人間はみな平等なのだという実感を持つことができるから

・すべてのものが無常であるとする日本人の考え方は、すべてのものが滅びるという思想を持ち出すことによって、人間的な善悪の問題を空無化してしまう

・「きけ わだつみのこえ」に記された学徒兵たちが、戦争の悪を哲学的に追究し、死に赴くぎりぎりのところで、短歌をつくって後世に残そうとしていることは興味深い。短歌的叙情の中に、論理的な懐疑哲学的な苦闘の跡を、すべて溶かし込んで、死んでいる

・和歌のリズムには、善悪という倫理的基準を容易に超えさせてしまう毒のようなものが隠されている。日本の精神史において、和歌がどのような役割を果たしてきたのかを検討することは、日本人の善悪に対する考え方を測るリトマス試験紙になる

・日本人は、仏教からは、無常観と浄土観、空や無のイメージ、儒教からは、修養、西洋からは、個人主義を受容して、それらをうまく重層化させながら、自らの人格形成に役立てようとしてきた。この三つの思想的要因を、意識の底で支えていたのが神道的な感覚

・四季の変化に対する鋭敏な感覚、鎮魂の心構え、縁起にまつわる言説、気配に対する関心の強さ。「四季」「鎮魂」「縁起」「気配」を並べると、日本列島人の信仰心が見えてくる

・日本の歴史を振り返るとき、「悪」の問題に鋭い眼差しを向けたのが親鸞。歎異抄には、「善人なおもちて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と「善悪の二つ、総じても存知せざるなり」という、悪と悪人に関わる二つの重要なことが記述されている

・キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の聖地周辺の景観は全部砂漠。それと比較して、日本列島の風景は、75%、山と森で埋まっている。水は豊かだし、山の幸、海の幸に恵まれている。生きていくための価値の源泉を天上に求める必要がない

・人間は、放っとけば、限りなく野性化する。だからこそ、マハトマ・ガンディーの非暴力思想が、近代になって出てくる。あらゆる宗教の守るべき戒律は、まず「人を殺すな」

・「性の快楽を最も味わうことができるのは、禁欲生活を送った人間がそれを破るとき」(アンドレ・ジッド)

・京都の東寺の両界曼荼羅には、薄絹を着て、豊満な肉体で笑ったり、コケティッシュな目つきをした遊廓の世界のような女性たちが描かれていた。我々は、千年以上知らずに、それを礼拝の対象にしてきた。独りほくそえんでいたのは空海だと思う

・エロティシズムと暴力性は深いつながりがある。宗教家たちは、エロティシズムの原因が食生活にあると考え、断食をして、性愛運動暴力運動から自分を解放しようとした

・「ガンディーの非暴力」とは、「男が女になれるかどうか」の過激な実験

・「数学的真理を発見する時の状況は、宗教的な神秘体験の状況とよく似ている」「直感とは、一種の神秘の体験。そういう点で、自然科学も宗教の世界と深い関係がある」(岡潔)

教義なき宗教、カリスマなき宗教、儀礼なき宗教。そこで初めて宗教は、攻撃的な世界から自由になれる

・平安遷都から保元・平治の乱まで約三百五十年、江戸時代の約二百五十年、日本の歴史には、長期に渡る平和の時代が二度あった。なぜ、平和の時代が続いたのか、日本の歴史家は考えるべき。その理由の一つは、国家と宗教の相性が良かったからと考えられる



一休さんは、「この世にて、慈悲も悪事もせぬ人は さぞや閻魔(えんま)も困り給わん」と言っています。道徳とは、人間に慈悲の一方だけを押しつけるものです。それが度を過ぎると、建前だけの世の中になります。

人間の悪事もしっかりと見つめることで、総合的に、人間や社会を判断することができます。本書は、日本人が悪をどう扱ってきたのか知る上で、貴重な書だと思います。


[ 2013/02/15 07:01 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)

『唯識十章』多川俊映

唯識十章唯識十章
(1989/05)
多川 俊映

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唯識仏教とは、仏教の原理であり、基礎となるものです。今日の日本の仏教の教説になっているものです。

真面目なものだけに、難解で、理解しにくいのですが、本書は、それらをしつこく解説してくれています。興味深い箇所が数多くありました。その一部を要約して、紹介させていただきます。



・「大隠は市井に遁る、小隠は山中に遁る」。大隠者は、人境にあっても喧噪が気にならない。凡人は、喧噪の暮らしにうつつをぬかす。小隠者は、町中の喧噪ゆえに、誰もいない山中に遁れたいと希望する。同じ世界に住みながら、三者三様、違った世界に住んでいる

・私たちの見聞きする世界は、世界そのものではない。取り巻くあらゆるものは、識所変(識によって変じだされた所のもの)。唯識仏教では、自己と環境との関係を、このように理解する

・唯識仏教では、認識する心の作用を、その働きにおいて四つの領域に分かれると考えた。「みられるもの」(相分)と「みるもの」(見分)、そして、その「みることを確認するもの」(自証分)とその「確認をさらに認知するもの」(認自証分

・「ものをみる眼・人をみる眼」は、自己に都合のいいようにしかみない。物事の真実の姿など、見えてくるはずもない。唯識所変の考え方は、それらを強く示唆している

・唯識仏教は、私たちの心は「八識」によって構成されていると考えた。八識とは、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識と末那識および阿頼耶識。つまり、六識だけでは、現実の私たちの行動は解明し切れないということ

・私たちは、日々の学習や仕事の積み重ねによって、徐々に成長して、日に日に変わっているが、昨日の私と今日の私は同じであり、一年前の私と今の私もそんなに違いはない。この、変わりつつも変わらない自分というものが根底にある。その根底が阿頼耶識

・心には、表層の心「眼識・耳識・鼻識・舌識・身識<前五識(感覚)>と意識<第六識(知覚・感情・思考・意志)>」と、深層の心「末那識<第七識(自己執着心)>と阿頼耶識<第八識(根本心)>」がある

・「現行」(現実の行為・行動)が「種子」という形をとって、阿頼耶識に「薫習」(心底に植えつけ、長くとどまる)されていく

・「過去の影は、未来の約束。いかなる木も、種子の中にある力以上に偉大になることはできない」(岡倉天心「東洋の理想」)

・阿頼耶識という深層の心は、この世に生を受けてからの体験や経験だけを保有するものではないというのが「薫習」の意味。それは、はるか遠い過去、人類の生い立ち、生命の起源にさえに至るものを秘めている

・私たちの日常のすべての行為は、心の中で密かに思いめぐらすことも含めて、その印象が「種子」という形で、阿頼耶識の中に薫習され保持される。それが「」の意味

・仏教の最も基本的な考え方は、1.「諸行無常」(物事は絶えず変化している)2.「諸法無我」(我が不変不滅であることを認めない)3.「涅槃寂静」(真理に調和していく中に、身心に顕現していく寂静状況)の三つ。これを三法印と言う

・仏教では、期間を定めて、伝統的な修行を行うが、それは「行」と言わずに、「加行」と呼ぶ。なぜなら、普段の生活がすでに行だから。行とは、日常生活を粗末にしないこと

・弓道では、矢が放たれるまでの所作が、実に慎重。一旦、矢を放ってしまったならば、言い訳など通用しない。細心な調整ののちに大胆に放たれた矢は、たとえ的に当たらなくても、それはそれでいい。それは、的によって調整された身心があとに残るから

・布施とは、自己所有のものを無条件に他者に与えること。自己執着に徹した生活をし続ける限り、自分のものを他者に無条件に与えることなど、決してできない

・私たちの日常生活は、善と煩悩との綱引きの中に営まれている。その微妙なところを踏み台としている以上、必要になるのが、人生の目標

・人間は、自己を如実に反省すること・心の安らぎを希求して放逸ならざること・むさぼらぬことなどの持続が求められている



唯識を理解するには、相当骨が折れます。本書にも登場する難解な用語の数々を、咀嚼して読み続けるのは、短時間では無理なように感じました。

しかし、ほんのさわりだけでも、唯識仏教というものを知ることは、自分を磨くことにおいて、大事なことかもしれません。


[ 2013/01/18 07:00 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(1)

『生きいきて、逝くヒント』高田好胤

生きいきて、逝くヒント生きいきて、逝くヒント
(2006/07/28)
高田 好胤

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薬師寺管主、法相宗管長などを務められ、薬師寺金堂復興に尽力された高田好胤さんが生前に記されたものを、まとめた書です。

亡くなられて、15年近く経ち、高田好胤さんを知らない人も増えてきましたが、生前は、テレビなどにもよく出演されていました。どんな話をされていたのか、当時、未熟だった私には、ほとんど記憶がありません。

本書を読み、高田好胤さんの凄さが、今になってようやくわかった次第です。生きていく上で、大切な言葉が数多く記されています。それらを一部要約して、紹介させていただきます。



・縁は努力で作るもの

・懺悔には、人を新しく生まれ変わらせる働きがある

・神様仏様が見えないところから「見てござる」。誰が見ていなくとも誰かが見ている

・物を作ることも大事。けれども、人の心を作ることは、もっと大事なこと

・教えられたいという心があれば、どこにも教えはある

・人間は称賛をかち得ているときが、一番危険なとき

鉄の錆は、鉄より出でて、鉄を滅ぼす。欲は人の身から出て、その人を滅ぼす。それをほどほどに調節するのが、人生の修練

・悟りとは、決心すること

・教えるにはムチがいる。物としてのムチでなく、心のムチは少なくと持ってほしい。それができないというのは、教育に熱意のない証拠

・訓練のない所に個性はない。個性は訓練によって磨き出されてくるもの

・「もったいない」の言葉には、感謝する気持ちがある。だから、「もったいない」と「無駄だ」の二つの言葉の間には、天と地ほどの懸隔がある

・人間の目は外を向いてついているから、外はよく見える。それだけに、よほど気をつけないと、自分自身の内を見ることがなかなかできない

・親が苦労して、子供を楽にさせてやりたいとすると、子供はのちのち無慈悲に堕ちていく。親は苦労し、子は楽をし、孫は乞食する

・自利はトレーニング(修練)、利他はサービス(奉仕)。すなわち、トレーニングによって身につけたものを世のため人のためサービスすることを菩薩道ということ

・自分の邪悪な欲望にうち勝つということが「克己」。それこそが、千人の他人に勝つよりも真の勇気を必要とする

・食事をとるときは、良薬を飲むように、分量と時間を間違えないように心がけなければならない。人間というものは、ものを食べ過ぎると、怠け心が出てくる

・人はみな罪のかたまりみたいなもの。それに気付かないで、自分は善人だと思い込んでいるだけ。つまり、自覚が足りない間は、善人でいられる

・暇そのものが堕落をもたらすのではない。暇を有効に生かすことができず、暇をもてあました結果、堕落が始まる

・「負けるが勝ち」とは、敗北主義を賛美するのではなく、人間の心の余裕、心の温かさを賛美しているのであり、それこそ人生の真の意味での勝利への道

・人々の心の中に「見上げる心」をはぐくみ、精神を昂揚するために必要な高さが「塔の高さ」であり、精神的に必要な大きさが「お堂の大きさ

・科学は人間の偉大なる智慧が生んだものだから、人間はそれを享受すべき。だが、物質的な豊かさが、精神的貧困の上に成り立っているのだとしたら無意味

・苦労と仲良くすれば、いつかきっと苦労が味方になって助けてくれる



高田好胤さんは、若いとき、古老から「聞いときなはれや、いつかそれが、ほんまになりますねんで」と言われた言葉を、忘れることができなかったそうです。

本書に限らず、自分が感じた言葉が、いつか本当に、自身に起こるのではないかと信じることは、人生において大事なことではないでしょうか。


[ 2012/11/09 07:03 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)

『日本人の世界観』大嶋仁

日本人の世界観 (中公叢書)日本人の世界観 (中公叢書)
(2010/04)
大嶋 仁

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本書は、日本人のものの考え方が、古事記の時代より、どういう変遷を辿ってきたのかを明かそうとするものです。

その時代、時代の思想家の言葉を引用しながら、読み解いていくと、現代の日本人の思想がどう形成されてきたかが見えてきます。この大作の一部を、要約しながら、紹介させていただきます。



神道とは、仏教が入ってきたことでできたもので、仏教と区別する必要から生まれた

・老子がいみじくも言ったように、「大道廃れて仁義あり」。孔子のように「仁義」を説く者が登場する世の中は、よほどに廃れているということ

・今でこそ道教は日本人の意識外に置かれているが、古代の日本人にとって大きな存在であった。平安時代は「儒仏道」と呼ばれ、三つの重要な教えの中に、道教が入っていたが、鎌倉時代以降、「儒仏神」に変わった。道教が在来宗教に溶け込み、神道に成りかわった

・神道は「神道」として自分を意識しないうちが「花」。己を「神道」として、自己主張しようとすると、自身の肝心な部分を裏切る。これが「神道」。「神道出でて神道滅ぶ」という逆説を忘れずにいたい

・和の精神を強調する聖徳太子の憲法第一条では、党派性に陥らず、虚心に話し合うことの大切さが説かれている。「人みな党あり、また達れるひと少なし」は、小集団に凝り固まり、全体の利益を考えられない人の多いことを戒めた極限の表現

・「凡夫」の対立概念は「仏」。どんな人の意見にも価値があり、かといって、誰の意見も絶対的な価値をもつものではない、という聖徳太子の憲法十条の表現は、仏教の立場から、民主主義の理念を説いたことを示している。欧米文化のみが民主主義の生みの親ではない

・戦国時代の宣教師たちが「神とは根源的な生命エネルギーであり、それこそがキリスト教の愛」と説いていれば、古事記以来の世界観を生きる日本人に、この宗教は受け入れられたはず。布教が成功しなかったのは、当時のローマ教会の公式見解に縛られていたから

・キリスト教には、いろいろな問題もあるが、仏教より、社会の不平等を是正することに積極的で、その「愛」の実践は、今日的見地からすれば、高い評価に値する

・徹底的に理詰めにできた朱子学が導入されたことで、江戸時代の日本人の知性は高められた。朱子学がなければ、西洋思想を迎えた19世紀後半の日本の近代文化は考えにくい

・新井白石は、「西洋人は、理の通った考えをもっているが、宗教に関しては、極めて幼稚な考え方。キリスト教は神が造ったのに、その神は誰が造ったのかと聞くと、神の前に誰も存在しないという、奇怪千万なことを言う」と、宣教師を合理的、論理的に問い詰めた

・富永仲基の「儒教や仏教にせよ、どの宗教も時代とともにその理論を追加・修正してきた」(加上論)という考えは、宗教を全否定しているわけではない。彼は、生きるにあたり、必要最低限の生き方があり、どの宗教にも共通して現れるものを「誠の道」と呼んだ

・日本古来の「一即多・多即一」の世界観は二者択一を好まず、すべてを受け入れようとするものなのに、平田篤胤は神道のみを許容し、その他を排除した。このような絶対主義=唯一主義は日本人の伝統に反する

・三浦梅園は真理を認識する方法として、「反観合一」すなわち「反して観、合して一となす」ことを提案している。彼をデカルトの懐疑精神やヘーゲルの弁証法と比較することは可能だが、西洋の哲学を経由しないでも、それに匹敵する地点に到達していたことが重要

・江戸時代後期の思想家安藤昌益は、その著書「自然真営道」において、産霊(ムスヒ)と自然を直結させた上で、農耕と生殖行為を一対の行為と考え、古事記以来の日本人の世界観を発展させた。彼は、農本主義を主張し、士農工商の身分制度を不自然と考えた

・石田梅岩は「よく働くことが心の修養。商人なら商いに専念し、理屈を述べるより職分を尽くせ。心の平安を得るには、贅沢を避け、簡素に生きよ」と説いた。この心学の考え方が、多くの庶民に共有され、長く生き続いていたことが、戦後の経済成長をもたらした

・近代国家日本にとって脅威なのは、個人主義よりも社会主義のほうだった。個人主義を抑え、生気論的世界観を社会化する思想運動は、国家主義の前に立ちはだかる強敵だった

・他者の認識に欠けた論理(自我の膨張現象)である「ロマン主義」が拡張すると、個人の自我と国家の自我が混同され、ナショナリズムに歯止めがなくなる。近代日本は、ロマン主義であったがゆえに、最後は自棄的な暴力沙汰に突入してしまった



本書を読むと、日本という国は、古事記や聖徳太子の憲法の上に、さまざまな宗教、思想が加えられて、練られてきたものだということがよくわかります。

ここから、逸脱する考え方を強引にすすめようとしても、軌道修正が自然と加わっていくのではないでしょうか。この本は、日本の思想史が実によくまとめられている良書です。


[ 2012/10/26 07:03 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)

『[決定版]菜根譚』洪自誠、守屋洋

[決定版]菜根譚[決定版]菜根譚
(2007/03/20)
守屋 洋

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菜根譚は中国の古典の中では比較的新しい明時代(今から約400年前)のものです。「菜根」とは、粗末な食事、「譚」とは談。苦しい境遇に堪えた者だけが大事を成し遂げるという意味です。

仏教と儒教が融合した教えなので、日本人にはよく馴染むみたいで、特に江戸時代に読み親しまれました。中国よりも日本で愛読されている書です。360ほどある教訓の中から、ためになった箇所を一部ですが、紹介させていただきます。



・志操は清貧な生活によって磨かれ、節操は贅沢な生活によって失われる(前集11)

・この上ない功績を上げても、それを鼻にかければ、折角の功績も帳消しになる。悪虐のかぎりをつくしても、悔い改めて正道にたち返れば、罪悪も消滅する(前集18)

高慢や不遜は、すべてカラ元気のなせる業。これを克服したとき、初めてその人本来の姿が現れてくる。欲望や打算は、すべて迷いの心から生まれる。これを克服したとき、初めてその人本来の心が現れてくる(前集25)

利益欲は必ずしも有害ではない。人間の精神をダメにするのは、むしろ独善である(前集34)

・相手が財産をふりかざしてくれば、こちらは「仁」で対抗する。相手が地位をふりかざしてくれば、こちらは「義」で対抗する(前集42)

・せっかく善行を積んでも、早く人に知られたいと願うようでは、すでに悪の芽を宿している(前集67)

・幸福は求めようとしても求められるものではない。常に喜びの気持ちをもって暮らすこと、これが幸福を呼び込む道。不幸は避けようとしても避けられるものではない。常に人の心を傷つけないように心がけること、これが不幸を避ける方法(前集70)

節操の固い人物は、自分からすすんで幸福など求めないが、天はかえって、その心に惚れ込んで、幸福の窓を開いてくれる(前集91)

質素な人は、派手好きな人から煙たがられる。厳しい人は、だらしない人から嫌がられる。だからといって、いささかも信念を曲げてはならないが、それをむき出しにしないこと(前集98)

・権勢をふるい、私利をはたらく者には、近づいてはならない。一度でも近づけば、生涯の汚点となる(前集111)

・人格が主人で、才能は召使いにすぎない。才能に恵まれても人格が伴わないのは、主人のいない家で、召使いがわがもの顔に振る舞っているようなもの(前集139)

・主義を売り物にすれば、きまってその主義のために非難を浴びる。道徳をふりかざせば、きまってその道徳のために中傷される。君子は悪にも近づかず、名誉をも求めず、人格円満を旨として生きてこそ、安全に世を渡ることができる(前集178)

賢い人間は、天から才能を賦与されて、人々を教育する義務を負わされている。それなのに、人々の短所をあげつらう。富んだ人間は、天から財産を賦与されて、人々を救済する義務を負わされている。それなのに、貧乏人を苦しめる(前集218)

・心の中に欲がつまっていれば、せっかく山林に住んでも、静寂にひたる余裕がない。心の中から欲を捨て去れば、町なかに住んでいても、騒がしさを感じない(後集52)

・人情や世相は、あっというまに変わってしまうので、どこに真実があるのか見極め難い。「昔の我は今日の彼、今日の我はこの先誰になることやら」。いつもこういう見方をしていれば、もやもやした心もからりと晴れる(後集58)

・権力争いに火花を散らし、英雄たちは覇権をかけ激突する。だが、冷静な眼で判断すれば、しょせん、獲物に群がる蟻、血にたかる蠅と同じようなもの(後集73)

・花を見るなら五分咲き、酒を飲むならほろ酔い加減、このあたりに最高の趣きがある。満開の花を見たり、酔いつぶれるまで飲むのは、まったく興ざめ(後集123)

・人間は、しょせん操り人形にすぎない。ただし、操る糸をしっかりと自分の手に握りしめておけば、一本の乱れもなく、引くも伸ばすも自由自在、すべて自分の意志で行うことができる(後集128)



人間関係、成功、処世、仕事、お金、教育、人間性、自由など、人生論のほとんどが網羅されています。庶民の生き方読本のようにも思います。

この一冊を丹念に読めば、人生の書として、大いに活用できるのではないでしょうか。


[ 2012/10/15 07:03 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)

『明恵夢を生きる』河合隼雄

明恵 夢を生きる (講談社プラスアルファ文庫)明恵 夢を生きる (講談社プラスアルファ文庫)
(1995/10/17)
河合 隼雄

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明恵上人の本を紹介するのは、「法然対明恵」に次ぎ、2冊目です。明恵上人は、修行を重んじた僧侶で、宗派を興したりすることはありませんでした。

しかし、その真摯な姿勢を慕う人が多く、後鳥羽上皇や北条泰時など、時の権力者にも大きな影響を与えてきました。死後750年以上経っても、研究する人が絶えません。明恵上人がいた高山寺は、静寂な場所に閑居のごとく、今も残っています。

明恵上人が遺した書で、特異なのが「夢記」です。夢を40年以上に渡って、記録し続けたもので、世界中の研究者を魅了しています。本書は、心理学者の故河合隼雄氏が、その「夢記」を読み解こうとするものです。気になった箇所を幾つか紹介させていただきます。



・ながきよの夢をゆめぞとしる君やさめて迷へる人をたすけむ(明恵上人歌集)

・明恵が、夢の記録を19歳から、死ぬ一年前の59歳まで書き続けたことは、彼の強靭な精神力を示すことだけでなく、内的体験に主体的に取り組んだ世界最初の人として、世界の精神史に残るもの

・奈良から平安時代になっても、夢を神のお告げと受けとめる姿勢は変わらず、この時代に書かれた物語、日記、仏教説話などにおいて、夢は重要な役割を占めている。昔の人が、無意識の世界と切り離されることなく、自然に生きているのが感じとられる

承久の乱で、明恵は、朝廷方の多くの落人や家族をかくまった容疑で、北条方の武士に引き連られていく。そこで、北条泰時と出会い、むしろ、泰時が明恵に心服し、両者は、その後も親交を重ねることになる

・北条泰時が制定した「貞永式目」は、発布されてから明治時代に至るまで、600年以上の長きに渡って、庶民にまで読まれた法律書、生活規範書で、日本人の秩序意識に大きな影響を与え続けた。この貞永式目に強い影響を与えたのが明恵

・北条泰時は、貞永式目が法理上の典拠に基づいていないことを明言しており、「ただ道理のおすところを被記(しるされ)候者也」と述べている。この「道理のおすところ」の背後に、明恵思想の根本「あるべきやうわ」が存在している

・日本文化における母性原理の優位性はよく論じられる。母性原理は「包む」機能を主とするのに対し、父性原理は「切る」機能を主としている。分割し、分類するから言語表現が可能となる。言語で説明するのは、父性原理に頼っていること

・日本人男性のよく見る夢に、自分が若い女性と親しくしようとしていると、母親が急に現れて驚かされる、というのがある。日本の男性は、母なるものとの結びつきがあまりにも強いので、若い女性との関係には、母なるものの強い妨害を受けることになる

・母なるものに対して捧げるに生贄が必要であったし、父性的な強さを立証するための試練に耐えることも必要だった。これらの意味を兼ね備えた自己去勢が、明恵の耳を切る行為として解釈できる

・「行状」にも「伝記」にも、明恵のテレパシー現象が記録されている。明恵が言うとおりのことがたくさんあったので、弟子たちは、自分たちが陰で悪いことをしても、明恵にはわかるのではないかと怖れ、行いを慎むようになった

・明恵自身は、自分のテレパシー体験をほとんど評価していない。明恵は、「権者」(仏や菩薩がこの世に仮現した者)と言われることに対して、「定を好み、仏の教への如くに身を行じて」いれば、テレパシーなど自然にできることと述べている

・高山寺には、明恵が弟子たちと共に住んでいたときに、生活上守らねばならぬ規律を記した一枚の掛け板が現存している。その冒頭に「阿留辺幾夜宇和(あるべきやうわ)」とある。この言葉は、明恵にとって、己を律するための語

・明恵は、「後生を助かろうとしているのではなく、此の世に有るべきように有ろうとする」ことが大切であると明言している。これは、当時急激に力を得てきた法然の考えに対するアンチテーゼとして提出したもの

・「あるべきやうわ」の生き方には、強い意志の力が必要であり、単純に「あるがままに」というのとは異なる

・明恵が「あるべきやうに」とせずに、「あるべきやうは」としているのは、「あるべきやうに」生きるのではなく、時により事により、その時その場において「あるべきやうは何か」の問いかけを行い、その答えを生きようとする、極めて実存的な生き方の提唱



高山寺には、動物の絵や置き物がたくさんあります。あの国宝鳥獣戯画もその一つです。明恵上人は、自然と一体化して、動物と会話できたと言われています。その不思議な明恵上人の世界が、本書で、少し理解できたように感じました。

また、明恵上人の「あるべきようは」という言葉は、今も日本人の精神に深く入り込んでいます。その時、その場で「あるべきようは何か」と問いかけて、答えを出すのは、まさに「空気を読む」のと同じことなのかもしれません。


[ 2012/10/12 07:00 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)

『「狂い」の説法―わたしたちの常識』無着成恭、ひろさちや

「狂い」の説法―わたしたちの常識「狂い」の説法―わたしたちの常識
(2007/08)
無着 成恭、ひろ さちや 他

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この本は、無着成恭さんとひろさちやさんの対談集です。ひろさちやさんに関しては、本ブログで何回も採り上げてきましたので、今回は、無着成恭さんに絞って、文章をまとめてみました。

無着成恭さんは、教職に就きながら、TBSラジオ「全国こども電話相談室」の回答者を、28年間務められてきた方です。その語り口は、今でも多くの人の耳に残っているのではないでしょうか。現在は、本業に戻られて、住職をされています。

本書は、仏教者として、教育者として、今の日本人にあえて苦言を申す内容です。要約して、その一部を紹介させていただきます。



・仏は人間が悟ったもの。神は人間が考え出したもの。だから、仏は、自分と違うもの、対立するもの、矛盾するものも一緒に包み込むが、神は、自分と同じもののみ味方にする

・もっと権力者、強い者をいじめよう。「弱い者いじめはするな。強い者をいじめろ!」という思想を持たないといけない

・お金と人権は決して共存しない。人間の世界では、お金がないと生活できないが、犬や猫は生活できる。お金では解決できないところに、生きることへの意義がある

・ブータンの国王は、川の水をそのまま飲める国と、ペットボトルの水しか飲めない国では、どちらが美しいかを国民に問いかけた

・自然の掟によって生きている動物は、宗教を持っていないが、人間には宗教がある。人間は、宗教を持っていないと、自然の摂理を破壊しかねない

・社会的地位の強い人がウソをつけば、弱い人はその何倍もウソをつかなければ生きていけない

・最澄は比叡山で、直接民主主義の原理を導入した。賛成の箱と反対の箱を用意し、みんなに石ころを一個ずつ持たせて堂塔を巡りながら投票させ、それぞれの箱に入った石を数えた。仏教には、脈々として直接民主主義の原理が働いている

・農業は食糧の生産だけではなく、教育にとっても大きな意義がある。親が教えなくても、宇宙の摂理や自然の営みを自分の身体で覚えることができる

・国家は「デキル」ことを要求する。しかし、人間は「ワカル」ことがうれしい

・教育されるというのは、偏った観念を叩き込まれること。学問をするというのは、真理を追求するということ。学問をすると、うわべだけの知識がいかに軽薄かがわかってくる

・「一つのリンゴを分け合って食べるとおいしいよ」という教育が姿を消し、「一つのリンゴを何人かで奪い合い、勝った者がそれを見せびらかして食べればいい」という社会になってしまった。社会としては、崩壊している

・「型なしの人間になるな。型破りの人間になれ」と、父によく言われた。つまり、型を学んで、守って、破って、離れる「学・守・破・離」の筋道をたどらなければ、人間の厚みがつかないということ

・江戸時代、どのお師匠さんが、子供のよさを認めて、一人前に育ててくれるかを親が判断していた。お師匠さんを選ぶ権利は町民にあった。しかも、師匠は、育てることが主眼だから、単なる技術や知恵ではなく、「悟りの世界に至るための大きな智恵」も授けていた

・お寺は、もともと賊軍の思想を説くところ。教会も同じことだが、宗教は国家と鋭く対立するものでなければ、存在の意味がない

・これまでの日本は、「頑張れ」「欲張れ」という資本主義の教義を信奉してきたが、仏教は「欲張るな」と教えている

・賊軍になるためには、相当の執念とバックボーンとなる哲学が必要だから、簡単にはなれない。しかし、賊軍にならなければ、世の中の本当の姿や仏さまの世界はわからない

・インドなどでは、働くところがない人は物乞いをする。日本では、人に物をもらうことは軽蔑されているが、お坊さんは本来物乞いする人。お坊さんは、偉そうな顔をしているが、ホームレスの元祖

・仏教では、「正義」や「大義」は人間の側にはなく、大自然の摂理にある。だから、戦争には正しい戦争などはなく、原因は、人間の愚かさにあると教えている



無着成恭さんは、「僕も、結局は負け犬だなあ。仏教の立場からいろいろ発言してきたのに、世間はいっこうに聞いてくれない。言ってきたことは完全に無視されて、こんなおかしな日本になってしまった」と、ひろさちやさんに語られたそうです。

禅僧として高い位置におられる無着成恭さんが嘆く、「生きにくい国」となってしまった日本を「生きやすい国」にするには、みんなが気づく、悟るしかありません。本書は、その助けになるのではないでしょうか。


[ 2012/09/22 07:02 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)

『信じない人のための「法華経」講座』中村圭志

信じない人のための「法華経」講座 (文春新書)信じない人のための「法華経」講座 (文春新書)
(2008/09)
中村 圭志

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以前、このブログで、「法華経はなにを説くのか」という本を紹介したことがありました。しかし、簡単にわかるほど、法華経は甘くありません。

本書も、法華経とはいったい何なのか?法華経を信じたらいいことがあるのか?など、具体的に著者が説明してくれます。

本書を読み、法華経について納得できた点が数多くありました。「本の一部」ですが、紹介させていただきます。



・「弘誓深如海 歴劫不思議 待多千億仏 発大清浄願」
観音の誓いは海のように深い。永劫という考えられないほどの長きにわたって、観音は無数のホトケに仕えて、誓いを清浄ならしめた

・「我為汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦」
この点について簡単に説明しよう。観音の名前を聞いたり、姿を見たり、心に念じたりして頑張れば、さまざまな厄難が滅びる

・「仮使興害意 推落大火坑 念波観音力 火坑変成池」
活火山の火口に落とされたって平気だ。かの観音パワーを念ずるや、水をまいたように火は消えてしまう

・こんな有難い観音経だが、この短いお経をまるまる自らの一章として取り込んでいるのが、法華経。法華経全二十八章の第二十五章が観音経(観世音菩薩普門品)

・法華経は、釈迦の時代の700年後、北西インドで誕生し、西域の人、鳩摩羅什によって中国語に翻訳された。中国の人、智頭が法華経中心の仏教哲学を編み出し、それを日本の最澄が受け入れ、日蓮が法華経に基づく実践を展開した

・大乗仏典は、菩薩の道の究明を目指した。「六波羅蜜」は、1.布施(プレゼント・サービス)2.持戒(浄い生活)3.忍辱(忍耐)4.精進(努力)5.禅定(精神統一)6.智慧(空を悟ること)を完成させようとした菩薩の努力目標

・法華経の主張の要点は、「すべての衆生は成仏できる」「これを主張することに、菩薩の行の意味がある」ということ

・法華経は、差異の相よりも、平等の相を、段階的なステージよりも、究極の結論を重視している。法華経は、あらゆる人を成仏当確者にまとめ込む。アバウトで、えらく間口が広い

・法華経のメッセージは、「統一的真理としての一切衆生の成仏のテーゼ」「それを奉じる菩薩としての自覚」「それを保証してくれる久遠のお釈迦様の信仰」の三つにまとめられる

・お釈迦様は絶対の救済者として常に存立している。それを実際に信じて救済の薬を飲むか飲まないかは、私たち人間の自由意思。法華経を信じる者は救済の福音を得る、信じない者は苦界に喘ぐと強調するのは、信者に優しく、離反者に厳しいロジックを感じる

・観音様は最後の最後まで「救ってあげるから安心しなさい」と言い続ける。この観音の約束を「できもしないカラ約束」と捉えるのは自由だが、この観音の姿が、最大限の人間的努力の模型となっている

・宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩句の中に、大乗の救済論の典型が示されている。賢治は、この詩句に続けて「南無妙法蓮華経」のフレーズよりなる日蓮の文字曼荼羅を書き込んでいる

・極楽浄土の阿弥陀仏に自らを任せる法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、一遍(時宗)、坐禅を組んで直に心を制する禅宗を奉じる栄西(臨済宗)、道元(曹洞宗)、法華経のみを救いとする日蓮(日蓮宗)。強烈な人格をリーダーとする宗派が12~13世紀に見られた

・奈良仏教時代以来の古来の仏教修行者は、種々の教派の教えを万遍なく学習するのを理想としていたが、鎌倉期の坊様はポイントを切り詰めて、一点集中型の信仰姿勢を制定した。特に、日蓮は他宗派(浄土、禅、真言、律)では駄目と強硬な排他性を発揮した

・法華経は、「中身がない」「自分のことばかり誉める」「万人救済の思想」「永遠の菩薩道の誘い」「信者がうっとうしい」「信者が狂信的」「宥和の思想」「生命の礼賛」。みな一面の真実を伝えている



今の日本において、法華経を信じる宗派が、かなりの信者を獲得しています。そして、その影響力も大きいように思います。この本を読むと、法華経には、有益性と害悪性、排他性と親和性など、二律背反する一面があるように感じました。

法華経が薬になりそうだと思う人は飲めばいいし、その薬が効かなくなれば、飲むのをやめればいいし、関心がなければ無視すればいいし、本人の自由に付き合っていけばいいのではないでしょうか。


[ 2012/09/15 07:02 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(1)

『無為自然の思想―老荘と道教・仏教』森三樹三郎

無為自然の思想―老荘と道教・仏教無為自然の思想―老荘と道教・仏教
(1992/06)
森 三樹三郎

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著者の森三樹三郎氏は、中国の思想史を研究されていた方です。老荘思想の第一人者でした。すでに、亡くなられて二十五年以上経っています。

老荘思想は、「禅」や「浄土」という日本仏教に大きな影響を与えた思想です。老荘思想は、日本の現代思想の礎となっており、私たちの心の中に深く入り込んでいます。

老荘思想とは何か?無為自然の思想とは何か?それをひも解くのに、本書は最適の本です。「本の一部」ですが、紹介させていただきます。



・「欲しいものがあるのに、それが得られない」という欲求不満が、人間を不幸に陥れる

・結局、人間が幸福になるためには、物を殖やすという、プラスの方向では、逆効果になるだけ。それよりも、人間の欲望を減らす、あるいは無くすという、マイナスの方向によるのが最も有効になる

・中国の禅宗は、インド伝来の思想と、荘子の思想とが混じり合って、でき上がったもの

・老子の思想というのは、弱者の哲学であり、女性の哲学であると言ってもいい。しかし、同時に、弱者は負けっぱなしになるのではなく、究極において、勝利を占めるものだというのが、老子の強い信念

・荘子は、「人為」の最も根本的なものとして、「人間が物を知ろうとする場合に、物に差別をつける」ことを挙げる。人間は、その価値観においても、善悪美醜といったように、さまざまな価値の差別をする

・荘子の考えるところは、「万物をことごとく然りとし、是を以て相つつむ」(すべてをそのままにしてよしとし、是認の心で包む)。「物と春をなす」(すべての物を春のような暖かい心で包む)

・万物の間には、さまざまな対立や差別があるが、荘子によると、それは、人間の差別観という人為が作り上げたものに過ぎないのであり、自然の世界、ありのままの世界には、一切の対立や差別がなく、すべて均しく、すべてが同一である、とする

・親鸞の最晩年の思想の中心は、「自然法爾」ということにある。それは、「自然必然の法則に従う」という意味

中国のインテリは合理主義で、宗教的には無神論者の傾向が強かったが、民衆のほうは、多神教的で、いろいろな神の存在を信じ、まじないや祈祷を好む傾向が強かった

・「インテリは儒教、民衆の宗教は道教」という分極化が行われ、全体としての二重構造は安定していた

・儒教は人間の「道徳的な要求」に答えるものであるが、人間の「幸福に対する要求」には、はなはだ不十分にしか答えることができない。それが「儒教的人生観の欠陥」

・儒教が幸福の問題を解決できなかったのは、もっぱら「現世」だけしか考えなかったためであり、仏教のように「三世」を考えれば、この問題は容易に解決できた

・元来、中国人というのは、理論とか理屈とかいった論理的に、綿密に述べるというのが苦手であり、嫌。それよりも、真理を直観的につかんで、ズバリというのが大変好きであり、得意でもある

・禅宗は、仏教の複雑な教義を坐禅という「」に圧縮したものであり、浄土教は、阿弥陀仏に対する「」に圧縮した仏教。この簡易直さいが、中国人の体質に合っていたために、禅と浄土とが、宋代以後まで生き残った最大の理由

・日常の生活に追われている農民や、商業に従事している庶民に向かって「坐禅せよ」と難しいことを言っても、それは無理。従って、中国でも、日本でも、禅宗は、どうしても支配階級知識階級に限られ、大衆化しなかった

・宇治黄檗山の万福寺を江戸時代初期に開いた隠元禅師は、相手が禅のわかる人ならば、もちろん禅を説くけれども、禅のわからない機根の劣った人に対しては、念仏を勧めた。これはいわゆる応病与薬というもの

・中国人は放っておくと、両辺倒になる。過去に支配者がクルクル変わり、その言うこともその度に変わる。したがって、「一つの原理を絶対化しない」ということが、本能的態度になっている。だから、毛沢東は「一辺倒たれ」という教訓をした



老荘思想と仏教、道教は、やがて進化して、「禅」と「念仏」「阿弥陀信仰」になりました。このように、専門化・簡略化されてしまった、今の日本の仏教のもとを探ると、本来の仏教の姿が見えてきます。

本書を読むと、日本人全体に根づいている思想や考え方を知ることができ、変わらないこと、変えられないことが、よくわかるのではないでしょうか。


[ 2012/09/08 07:03 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)

『仏音・最後の名僧10人が語る「生きる喜び」』高瀬広居

仏音  最後の名僧10人が語る「生きる喜び」 (朝日文庫)仏音 最後の名僧10人が語る「生きる喜び」 (朝日文庫)
(2004/09/17)
高瀬 広居

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昭和・平成を代表する名僧である、宇治能化院の内山興正さん、比叡山延暦寺の葉上照澄さん、三島竜沢寺の中川宗淵さん、奈良薬師寺の橋本凝胤さん、神戸祥福寺の山田無文さんら10人にインタビューした書です。

著者も僧侶なので、求道者たちの真の言葉が、十分に記されているように感じました。高僧から、現代のわれわれへの重要なメッセージの数々を「本の一部」ですが、紹介させていただきます。



・人は謙遜したつもりでも、「贅沢するつもりはないが、人並みに生活したい」と思っていて、「世の中で自分が一番不幸であるように」などと望んでいない。とにかく、「自分だけ」を区切りとって、その自分を、人並み以上のところへ置こうとする(内山興正)

・不幸な人を見たとき、「代わってあげたい」と望まず、「自分でなくてよかった」と思う。誓願を持つ(仏さまへの誓いをたてる)と、この情けない根性がなくなる(内山興正)

・最低生活は風流である。人は貧乏を恥とし、隠したがるが、私は貧乏が誇り(内山興正)

・「私の考え」とは、実は、遺伝的性格、生まれた環境、境遇、時代、教育、風習、習慣、経験、一切の衣食住を織り込んだ偶発的な「よりあつまり加減」。それを自分だとレッテルを貼り、自分だと深く思い固めている。これが仏教の「無明の自己」(内山興正)

・車がほしい、買いたいという欲望は、「一人前の欲望」に見えるが、実は「流行」が、その欲望を起こさせている。言ってみれば、「現代流行分の一」の人間でしかない(内山興正)

・頭の通じ合いの中の遺産、それが科学技術、文明、思想。こういうものは、積み重ねができる。ところが、生命の世界は積み重ねができない。沢木老師は、「屁一つだって、人と貸し借りできない。人はみな自己に生きなければいけない」とよく言っていた(内山興正)

・道元禅師の「典座教訓」には、喜心老心大心の三心が書かれてある。喜びの心、母が子を見る慈愛、無心の心・思い選ばぬ心、この三心は一つ。自己が自己として大人になるには、この心を欠いて、どんな対策をたててもだめ(内山興正)

・宗教とは、人間を救い教育するもの。今の日本は指導者不在。大衆教化もよいが、私は指導者を教育したい。浅草の観音さんや四天王寺は金づくりと社会的事業。本願寺さんは大衆タッチ。叡山は指導者づくり。私はそう割り切っている(葉上照澄)

・大いに自分を疑え。疑えば疑うほど深くなる。身を苦しめ、心を苦しめ、頭脳をふり絞って行う血を吐くような接心。そこに強靭な人間が生まれる(中川宗淵)

人間の悪業は、「汚染」であって、本体そのものが穢れたものではない(中川宗淵)

・山岡鉄舟は「坐禅は石鹸みたいなもの。心の垢もからだの垢も同じ」と言った。生まれてきてから目先のことばかり思ってきた宿因、宿業を洗い落すのが臨済禅(中川宗淵)

・多数派は死者。生者は死者の中に包み込まれた少数者。死の継ぎ目が生(中川宗淵)

・念仏したら往生する、禅をくんだら仏性が見えるなどの寝言はやめて、どうしたら最高価値の生活に生きていけるか。その方向を知り、自己を知ること(橋本凝胤)

・修行とは精神生活の充実、またはピュアリイ(純化浄化)。自分で自分を開拓し、自覚して、一心不乱に努力したときに到達するのが最高価値の世界(橋本凝胤)

・人間は天運に支配されているのではない。過去の自分の業によって、現在が支配されている。だから、自分の未来は、自分の業によってつくられる(橋本凝胤)

・物をつくり出すのが人間。そのつくり出したものに支配され、苦しむのも人間。この不自然さを超える力を持たねば、人間の苦はいつまでも続く(山田無文)

・西洋は「自我を自己とせよ」。東洋は「自我を捨てたところに自由がある」(山田無文)

・庭をみれば完全に自分を忘れて庭と一つになる。花をみれば花と一つになる。それが、三昧の習慣、忘我の習慣。自分を忘れるくせを身につけること(山田無文)

・カナダの首相に、「無とは何か、どうすれば無になれるか」と聞かれ、「森羅万象と自分の距離がなくなること。カナダ人の苦しみが自分の苦しみとなり、人民の幸福が自分の幸福と受けとめられたとき、無になり、禅を極めたことになる」と申し上げた(山田無文)



本書において、生きる喜びの本質、真髄が、これらの名僧たちのメッセージによくあらわれているように感じました。

宗派や考え方は違えども、その頂点にあるものは、みな同じということではないでしょうか。


[ 2012/07/27 07:03 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)

『一遍上人ものがたり』金井清光

一遍上人ものがたり (東京美術選書)一遍上人ものがたり (東京美術選書)
(1988/06)
金井 清光

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一遍上人は、法然、親鸞、栄西、道元、親鸞、日蓮らと並ぶ鎌倉仏教の開祖です。しかし、この中では、一風変わった存在です。そのユニークな「踊り念仏」という布教方法は、歌舞伎や盆踊りのもとになったと言われています。

庶民の側に立って、布教しようとした一遍上人とは、どういう人物であったのか。本書は、詳しく解説してくれています。「本の一部」ですが、紹介させていただきます。



・一遍上人は、念仏者の心得を尋ねられて、「地獄を恐れる心を捨て、極楽を願う心も捨て、諸宗の悟りをも捨て、一切の事を捨てて、ただバカになって念仏しなさい」と答えている。つまり、誰でも、バカになって念仏すれば、直ちに往生して仏になれるということ

・一遍上人は、息が途絶えるまでナムアミダブツと唱えなさいと教えている。念仏を唱えて、唱えて、唱え続けて、息苦しくなった瞬間に無意識になる。無意識になれば、一切の欲がなくなり、赤ん坊と同じ無我無心になる。そのような空念仏こそが往生

・法然や親鸞は、阿弥陀仏の本願を信じ、ナムアミダブツと唱えれば極楽往生できると説き、「信心」を重んじた。誰でも、宗教は信仰と思っているが、一遍上人は信仰を否定した

・一遍上人の教えは、信心などいらない。阿弥陀仏の救いは、人間の信仰と無関係で、口から出まかせのナムアミダブツでも往生するというもの

・普通の人は、信心もないのに、念仏など唱えない。そこで、一遍上人は、念仏の札(南無阿弥陀仏決定往生と印刷した札)を無条件で人々に与えた

・一遍上人の教えによれば、口のきけない人は、南無阿弥陀仏と書いてある文字をボンヤリ眺めるだけで往生する。目の不自由な人は、南無阿弥陀仏と書いてある紙片に手を触れるだけでよい。何らかの形で、南無阿弥陀仏に縁を結べば、信仰とは無関係に救われる

・念仏は往生への第一歩。信じてもいいし、信じなくてもいい。とにかく念仏を唱えることが大切。往生は信心と無関係のナムアミダブツ自体の不思議な働きによるもの

・「人間の迷いを捨てれば、いま生きているこの世がそのまま浄土になる」(一遍上人語録)

・「極楽とは我が空無になった状態の浄土」(一遍上人語録)。自分が救われたいと望んでいれば、自分の力でよいことをおこなっても極楽に行くことはできない。そういう欲を捨てれば、直ちに極楽往生する

・一遍上人の教えは、「人間だれでも生まれながら仏であり、阿弥陀仏。それは、ズバリ言えば『空』。だから生死もなければ、信心もない」ということ

・一遍上人は、「自分の死後、弔いの仏事作法をきちんとしてはいけない。死体は野原に捨てて獣に食べさせなさい。しかし、在俗の人たちが法縁を結びたいと願うのを、自分の遺言にこだわって拒否してはいけない」と遺言している

・一遍上人は、浄土教の学問の師匠になっても、大きなお寺に住むこともせず、時の権力者に近づいて贅沢な暮しをするようなことも一切せず、ただひたすら名もなく貧しい人々を救うため、田舎の石ころ道を歩き続ける遊行の聖となった

・一遍上人は、奈良のすぐそばを通りながら、東大寺の大仏に行かなかった。国家権力が民衆から税金を搾り取って造った大仏などに振り向きもしないところに、社会の底辺にあえいでいる民衆を救う尊い姿がよくあらわれている

・一遍上人は、一生の間、権力者に近づくことはまったくなく、わが身を投げ捨て、名もなく貧しい民衆に救いの手をさしのべ、何の報酬も期待せず、自分の住む家も寺もなく、妻子もなく、一宗一派も形成せず、身にただ破れ衣一つをまとって大往生した

・一遍上人は、全国各地を遊行して、信者や不信者の区別なく、行きあう人ごとに札を配った。人が集まる市場や神社や寺の前でも、踊り念仏を行い、黒山の人だかりになったところで札を配った

・「一遍聖絵には、遠く山々が霞み、雁の群れが夕暮れの空に飛ぶ砂浜に、老い松の近くを二三の弟子と打ちつれて、とぼとぼ歩み続ける上人の姿が描かれている。遍歴の道を倦まず歩み続ける寂寞たるこの光景こそ、東洋の哲理を描き出して余すところない」(柳宗悦)

・一遍聖絵(国宝)の絵巻には、名もなく貧しい人々や社会の最底辺にうごめく虐げられた人々を、手にとるように生き生きと描いている。これは一遍上人の宗教が、権力者や上層階級よりも、中下層階級や底辺階級に救いの手をさしのべたことを何よりも語るもの



一遍上人の弟子たちが興した「時宗」は、その後、隆盛を極めたとは決して言えません。でも、そういうところが、一遍上人らしいところです。

一遍上人の教えは、念仏を唱えるという意味で、浄土宗や浄土真宗、日蓮宗のようではありますが、無の境地に至るという意味で、臨済宗や曹洞宗のようでもあります。

一遍上人とは、念仏と禅の融合した教えを、庶民に、手軽に、手短かに伝え、庶民に安心を与えた、時代が生んだ人物だったのではないでしょうか。
[ 2012/07/20 07:01 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)