本書は、日本の仏教の歴史、制度、しくみなどを踏まえた上で、経済を論じている書です。お寺の社会学というタイトルをつけてもいいくらいです。
仏教の経済を通じて、仏教の全体が学べます。勉強になった箇所が多々ありました。それらの一部を要約して、紹介させていただきます。
・
集団の結束力を高めるには、三つの方法がある。「1.知識の共有」「2.時間の共有」「3.行動の共有」。仏教教団がこうした手段を用いてきた結果が、「釈迦の教え」(経)、信者としての修行の基本方針(戎)、僧侶の守るべき規律(律)の確認
・一部の人間しか救済されない宗教では、いかに教えが尊いものでも、一般に広がっていかない。大乗仏教は「
救済」という発想を従来の仏教に持ち込むことによって、一般人に受け入れられる素地を作り、その後の発展の道を切り開いた
・平安時代までの日本の仏教は、皇族や貴族といった国の支配層に支えられ、
僧侶は公務員として安定した地位を確保した
・国家権力という強力なスポンサーを得た宗教は栄える。しかし、国家の庇護に安住すれば緊張感が薄れ、
宗教は堕落する。政府の保護政策を長年にわたって受けてきた産業が国際競争力を失って衰えることと同じ
・信仰という市場の場合、新規参入者が顧客拡大を図るためには、他宗に対して批判的にならざるを得ない。日蓮が鎌倉政府によって流罪に処せられたのは、
信仰市場の新規参入者として、世の中を騒がせたから
・自転車に喩えて言うなら、「
経済学」は後輪。ペダルをこぐと後輪が回転し、自転車は前に進む。経済学は社会を前進させる原動力だが、後輪だけでは不安定。前輪の「
仏教」が必要。行き先をコントロールし、社会が間違った方向に進まないように正してくれる
・日本の寺にあって、タイの寺にないものは、
お墓。日本の寺院にお墓があるのは、日本のお寺に「
檀家」という他の仏教国に例を見ない特殊な存在があるから
・江戸幕府が信者を与えてくれた「
檀家制度」は財産やスポンサーを持たない小規模寺院にとって願ってもなかった。「
宗門人別改帳」に各戸の宗旨と菩提寺名を記載し、寺院が保証したことは、寺院が政府機関の末端として、行政権限を与えられたことを意味する
・江戸時代は職業選択の自由がなく、人の移動も制限されていた。幕府は檀家による菩提寺への定期的な参拝や布施を義務化したため、寺院は顧客と安定した財政基盤を得ることができた。お寺は
行政機関の仕事を肩代わりする見返りとして、収入の安定を得た
・幕府が恐れたのは、現状に不満を持った人々が、信仰を求心力として結束し、政治に対抗すること。大衆を結束させないために有効で効率的な方法は、日本人から
信仰心を取り去ってしまうこと。檀家制度はまさにその役割を果たした
・檀家制度によって、住民は檀家として、近隣のお寺に縛りつけられた。こうした状況が約260年続いた。日本人に宗教心がないと言われる原因がここにある。お寺を弾圧するのではなく、
飴を与えて骨抜きにした。保護政策がいかに産業を駄目にするかの典型例
・檀家制度によって信者が確保されたので、仏教の教義を伝えることよりも、檀家からの
布施収入を増やすことが重要となった。日本に古くからある先祖崇拝の儒教思想を利用し、ご先祖様の
追善供養と称して、数度にわたる法事を執り行い、布施収入を増やしていった
・決められた仕事をこなす公務員組織では、命令系統明確化のための序列が必要。それが僧侶の官位。僧が官位を得たのは624年。今も残る僧正や僧都の名称はこれに由来。官位の決め方の基準も必要になり、政府は僧侶の年功制を導入した。これが
年功制の始まり・かつて僧侶は、宗教家であると同時に、公務員であり、学者であり、慈善事業家であり、芸術家であり、軍師であり、そして教師であった。近代化とともに、職業が専門化され、僧侶の仕事は、次々と専門職にとって代わられた
・宗教家という専門職は強度に差別化されている。そのため、本来は政府の支配下にあるはずの官僚組織(
奈良仏教教団)が力をつけて、政府を脅かした。そこで、桓武天皇は首都を京都に移転し、新しい仏教勢力をつくろうと考えた。このプランに協力したのが
最澄・本来、僧侶の仕事は
対価を要求しないもの。困っている人がいれば救いの手を差し伸べて、お礼は後から受け取る。その金額はいくらでも構わない。さらに言えば、布施をさせてあげるのが僧侶の仕事なのであり、お礼を言ってはならないもの
江戸時代が終わり、約150年経っていますが、我々日本人は、今も江戸初期につくられた仏教の制度に精神的に支配され続けています。そこに疑問を感じず、思考停止の状態になっているのかもしれません。
本書は、仏教とのつき合い方に目を覚まさせてくれます。仏教を再考するのによいテキストになるのではないでしょうか。