とは考

「・・・とは」「・・・人とは」を思索

『食べること生きること・世界の宗教が語る食のはなし』奥田和子

食べること生きること―世界の宗教が語る食のはなし食べること生きること―世界の宗教が語る食のはなし
(2003/03)
奥田 和子

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イスラム教は、なぜ豚肉を食べてはいけないのか?ヒンドゥー教では、なぜ牛肉を食べないのか?禁酒や断食の習慣なども含めて、人は宗教観によって、食べるという欲望に制限がかけられています。

この問題を調査分析したのが本書です。ためになることが、数多く記されています。その一部をまとめてみました。



・ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の生まれた場所は、水の少ない植物が育ちにくい土地柄なので、食べ物に関して、厳しい契約が生まれた。仏教、儒教、道教の生まれた国は、食べ物が豊富だったので、厳しい契約は生まれなかった

・ユダヤ教の旧約聖書には、すべての収穫物は神のものだから、土地から取れる収穫量の中から、穀物であれ、果物であれ、必ず10分の1を取り分けねばならないとの記述

・ヒンドゥー教の供え物は、穀物、家畜、果実、花々、蜂蜜とギー(良質のバター)。供え物の種類によって、功徳の期間が違う

・儒教の供え物は、「真水」(水こそすべての味のもと。酒は混ざりけのないもの)、「焼き塩」(自然の味を尊ぶ)

・ユダヤ教で食べてはいけない動物、「反すうするだけか、ひづめが分かれているだけの動物。野うさぎ、らくだ、狸、いのししなど」「ひれ、うろこのない魚類」「死肉や生きた動物を獲物にする鳥類。猛禽類、こうもりなど」「昆虫」「死肉」「血」「肉食後のチーズ」

・イスラム教で豚を食べてはいけない理由は、「豚は反すうする家畜と野性の哺乳類の雑種であるから、食卓から追放されたという説。旧約聖書に二種の家畜を交配するなという記述」「豚肉は汚染されやすい、腐りやすい、ライ病になりやすい」

・ヒンドゥー教で牛を食べてはいけない理由は、「牛は人間に乳を与え、土地の耕作、刈り入れ、運搬、脱穀を助けてくれる。食べるなどもってのほか」

ユダヤ教・キリスト教> (肉に心を用いない)(貧者、敵にも惜しみなく食べ物を与えよ)(断食は過去の出来事を忘れないための苦行)(教会に、イエスの血と肉を意味する、パンとぶどう酒を拝領する)(食事の席で上席に座ってはいけない)

イスラム教> (食べ物は神からの贈り物、その恩恵を神に感謝する)(酒は人間を欲望の虜にするので、宗教の力で禁止)(貧者に食べ物を惜しみなく与える)(いっせい集団1カ月の断食で、人の痛みを実感として共有)

仏教> (肉食の戒め)(食べることに執着するな)(食べる量を知り、余分を求めるな)(美食の戒め)

ヒンドゥー教> (生き物を傷つけない)(牛を大切にする)(食べ物の分かち合い。王は困った人に食べ物を与える義務)(食事は東を向いてする)(両親や師より先に食べない)(神々を礼拝し、供え物をする)(寺院に供えたお下がりの食べ物を食べると福がある)

儒教> (酒は祭礼の時のみ飲み、時の定めなく飲まない。酔いしれない)(動物の特定の部位、内臓を忌み嫌う)(粗食で質素に。切りつめて祖先に食べ物を供える)(貪りの戒め)(食事中のマナーを守ることで、長幼・死者生者・上下関係のルールを示す)

道教> (生き物を害してはならない)(飲酒者にならない、ほどほどに飲む)(内欲を我慢する。節度を守る)(夜間の食事は非常食)(長寿のために食べ物の選択に注意する)

諸宗教の共通点
1.「飽食の戒め」2.「貪りの戒め」3.「節制・節度」4.「美食の戒め、粗食」5.「飲酒の抑制または禁止」6.「恵みに対する感謝」7.「食べてはいけない食べ物」8.「肉食の戒め」9.「祭儀または祖霊崇拝」10.「博愛・分け与え」

諸宗教の共通でない固有の点
1.「死後の世界の有無とそこでの食べ物」 イスラム教(現世の強い締め付けの反動として、天国での飲食は豪勢) ヒンドゥー教(天国でおいしい食べ物を食べることができる)
2.「断食」 イスラム教(徹底して行う。食事を修業の一部に組み込んで精神の強化、罪のあがないを図る手段にする)
3.「喜捨、献げ物、献金など」 ユダヤ教 キリスト教 イスラム教 仏教
4.「食事作法」 儒教(人間関係の円滑化のために厳重)
5.「不老長寿」 道教(医学と結びついて神仙説に及ぶほど重んじる)
6.「我慢に応じてのポイント制」 道教(食べないで我慢した場合功としてポイント)
7.「生類殺生の戒め」 仏教 ヒンドゥー教(生き物を殺したり傷つけたりしない)



私は、何でも食べるべきという考え方です。外来駆除動物のブラックバスやミドリガメまで、食べる方法を考え、昆虫のおいしいレシピを考えれば、将来の食糧不足にも対応できると思っています。

しかし、世界では、まだまだ食べてはいけないものの制約があります。それは宗教による戒めが理由です。鯨なんかも宗教観による違いの代表的な例です。食べ物をもっと科学的に考えることが、人類の平和につながるのではないでしょうか。


[ 2014/07/04 07:00 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)

『さみしさサヨナラ会議』小池龍之介、宮崎哲弥

さみしさサヨナラ会議さみしさサヨナラ会議
(2011/06/30)
小池 龍之介、宮崎 哲弥 他

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本書は、評論家の宮崎哲弥氏と住職の小池龍之介氏の対談本です。その中の宮崎哲弥氏の考え方が秀逸だったので、その部分だけをとり上げてみました。

本書には、「孤独」についての興味深い考え方が数多くあります。それらをまとめると、以下のようになります。



・人の心は他者の言葉に大きく左右される。詐欺や洗脳のように心に偽りの現実感を植え付ける場合ですら、ほとんどが言葉を手段としている。「たかが言葉に踊らされるなんて」と軽視しがちだが、実は感覚よりも言葉の方が強く心に影響を与える

・憎悪に心を燃やし、嫉妬に身を焦がしている間、孤独感は消える。本当は、その最中に「次の孤独」の原因がどんどん溜まっているのだが、それに気づかないのが罠。こうして憎しみや妬みの心が性癖になる

・セックスは部分的に自我を壊し合うゲーム。ところが、人間は実に手に負えない生き物で、自我の壊れた部分から、もっと自我を肥大させよう、最終的には相手も自分の自我で圧倒、支配しようと指向するようになる

恋心の成分を分析すると、自己愛はもちろん、支配欲とか独占欲とかも含まれている。それに、もっとネガティブな嫌われたくない気持ちも大きい

・通常、欲望は「満たされた状態」を求めるものだと思われるが、実はそれはウソ。満たされた瞬間に欲望は消滅してしまう。人は「すでに持っているものを欲しがることはできない」

・仏教は、欲望を断たないと本当の意味で幸福にはなれないと説くわけだが、多くの人々にとって「本当の意味の幸福」というのは、刺激のないつまらない状況に思える

・風俗産業には、昔から孤独慰撫ビジネスの側面がある。見方によっては、宗教もその種のサービスを提供するビジネスの側面がある

・大人になると、恋愛の「先が見えるようになる」。ある程度、経験値が高くなると、自分の気持ちの転がり方が予測できる。そうなると、味覚と同じで、快楽が次第に減っていく

・男性の根源的欲望は、生の始原の状態、具体的に言えば、母親の胎内に回帰する。これこそが、男の究極のさみしさの解消策。しかし、それは望み得ないので、疑似母胎を探す

・社会の変化は、男女の平等化が進んだというよりも、男女の同質化が急進したととらえるべき。男性がしんどい役割を堅持しなければならない理由がなくなったということ

快楽の量の増大と幸せの増大を同じものとみなす社会は、全体がソフトな覚醒剤中毒にはまっていると言える

・仮に巨万の富や権力によって、大方の欠如が埋められたとしても、新たな欠如を求める欲望の性質は強く残っているため、「欠如の欠如」が意識され、「『欲しいものと思えるもの』が欲しい」という倒錯した渇望が空転することになる

・中村うさぎ氏が「さすらいの女王」で、「『新世紀エヴァンゲリオン』は、全人類が一体化して一つの自我を共有するか、一人一人が孤独な個であり続けるか、という究極の物語であった」とまとめているのは、とても当を得た整理

・「人は死ぬ限り幸福にはなれない」とは、哲学者の中島義道氏の名言だが、「人は不死になっても幸福にはなれない」。死んで無に帰すのも怖いが、永遠に存在するのは、それと等しく恐ろしい

・まともに恋愛してきた大人なら、人が平等だなんて嘘っぱちだと知り尽くしている。愛する一人を選別することの残酷さ、また愛する人から選ばれないことの残酷さ。恋愛は、そういう公平とか正しさとかの学校教育的な建前がまったく通用しないサバイバルだから

・仏教の主要テーマの一つが「世界はままならぬものである」ということ。全知全能の神なんて、もちろん存在しないし、科学やテクノロジーが進んでいっても、人が強い自我を持ち続けたとしても、世界を意のままに変えることなんてできない

・「ままならない世界」を淡々と見つめ、その性質を知り尽くし、自分を自分に縛りつけている強固な錯覚を打ち破ることで、苦しみから解き放たれる。これが、釈迦のオリジナルな教え



煩悩、苦しみ、不条理感、孤独感を完全に解き放つことは不可能ですが、本書を読むと、それらと上手くつきあっていけるように思えてきます。

この世とは、自分の思うようにいかない「ままならない世界」と理解した上で、限りある命を楽しむことなのかもしれませんね。


[ 2013/12/13 07:00 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)

『お寺の経済学』中島隆信

お寺の経済学 (ちくま文庫)お寺の経済学 (ちくま文庫)
(2010/02/09)
中島 隆信

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本書は、日本の仏教の歴史、制度、しくみなどを踏まえた上で、経済を論じている書です。お寺の社会学というタイトルをつけてもいいくらいです。

仏教の経済を通じて、仏教の全体が学べます。勉強になった箇所が多々ありました。それらの一部を要約して、紹介させていただきます。



集団の結束力を高めるには、三つの方法がある。「1.知識の共有」「2.時間の共有」「3.行動の共有」。仏教教団がこうした手段を用いてきた結果が、「釈迦の教え」(経)、信者としての修行の基本方針(戎)、僧侶の守るべき規律(律)の確認

・一部の人間しか救済されない宗教では、いかに教えが尊いものでも、一般に広がっていかない。大乗仏教は「救済」という発想を従来の仏教に持ち込むことによって、一般人に受け入れられる素地を作り、その後の発展の道を切り開いた

・平安時代までの日本の仏教は、皇族や貴族といった国の支配層に支えられ、僧侶は公務員として安定した地位を確保した

・国家権力という強力なスポンサーを得た宗教は栄える。しかし、国家の庇護に安住すれば緊張感が薄れ、宗教は堕落する。政府の保護政策を長年にわたって受けてきた産業が国際競争力を失って衰えることと同じ

・信仰という市場の場合、新規参入者が顧客拡大を図るためには、他宗に対して批判的にならざるを得ない。日蓮が鎌倉政府によって流罪に処せられたのは、信仰市場の新規参入者として、世の中を騒がせたから

・自転車に喩えて言うなら、「経済学」は後輪。ペダルをこぐと後輪が回転し、自転車は前に進む。経済学は社会を前進させる原動力だが、後輪だけでは不安定。前輪の「仏教」が必要。行き先をコントロールし、社会が間違った方向に進まないように正してくれる

・日本の寺にあって、タイの寺にないものは、お墓。日本の寺院にお墓があるのは、日本のお寺に「檀家」という他の仏教国に例を見ない特殊な存在があるから

・江戸幕府が信者を与えてくれた「檀家制度」は財産やスポンサーを持たない小規模寺院にとって願ってもなかった。「宗門人別改帳」に各戸の宗旨と菩提寺名を記載し、寺院が保証したことは、寺院が政府機関の末端として、行政権限を与えられたことを意味する

・江戸時代は職業選択の自由がなく、人の移動も制限されていた。幕府は檀家による菩提寺への定期的な参拝や布施を義務化したため、寺院は顧客と安定した財政基盤を得ることができた。お寺は行政機関の仕事を肩代わりする見返りとして、収入の安定を得た

・幕府が恐れたのは、現状に不満を持った人々が、信仰を求心力として結束し、政治に対抗すること。大衆を結束させないために有効で効率的な方法は、日本人から信仰心を取り去ってしまうこと。檀家制度はまさにその役割を果たした

・檀家制度によって、住民は檀家として、近隣のお寺に縛りつけられた。こうした状況が約260年続いた。日本人に宗教心がないと言われる原因がここにある。お寺を弾圧するのではなく、飴を与えて骨抜きにした。保護政策がいかに産業を駄目にするかの典型例

・檀家制度によって信者が確保されたので、仏教の教義を伝えることよりも、檀家からの布施収入を増やすことが重要となった。日本に古くからある先祖崇拝の儒教思想を利用し、ご先祖様の追善供養と称して、数度にわたる法事を執り行い、布施収入を増やしていった

・決められた仕事をこなす公務員組織では、命令系統明確化のための序列が必要。それが僧侶の官位。僧が官位を得たのは624年。今も残る僧正や僧都の名称はこれに由来。官位の決め方の基準も必要になり、政府は僧侶の年功制を導入した。これが年功制の始まり

・かつて僧侶は、宗教家であると同時に、公務員であり、学者であり、慈善事業家であり、芸術家であり、軍師であり、そして教師であった。近代化とともに、職業が専門化され、僧侶の仕事は、次々と専門職にとって代わられた

・宗教家という専門職は強度に差別化されている。そのため、本来は政府の支配下にあるはずの官僚組織(奈良仏教教団)が力をつけて、政府を脅かした。そこで、桓武天皇は首都を京都に移転し、新しい仏教勢力をつくろうと考えた。このプランに協力したのが最澄

・本来、僧侶の仕事は対価を要求しないもの。困っている人がいれば救いの手を差し伸べて、お礼は後から受け取る。その金額はいくらでも構わない。さらに言えば、布施をさせてあげるのが僧侶の仕事なのであり、お礼を言ってはならないもの



江戸時代が終わり、約150年経っていますが、我々日本人は、今も江戸初期につくられた仏教の制度に精神的に支配され続けています。そこに疑問を感じず、思考停止の状態になっているのかもしれません。

本書は、仏教とのつき合い方に目を覚まさせてくれます。仏教を再考するのによいテキストになるのではないでしょうか。


[ 2013/12/02 07:00 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)

『庶民に愛された地獄信仰の謎・小野小町は奪衣婆になったのか』中野純

庶民に愛された地獄信仰の謎 小野小町は奪衣婆になったのか (講談社プラスアルファ新書)庶民に愛された地獄信仰の謎 小野小町は奪衣婆になったのか (講談社プラスアルファ新書)
(2010/10/21)
中野 純

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地獄といった架空の場所、閻魔さんといった架空の人物をつくり出すことで、世の中が丸く収まるということを、昔の人は発見しました。本当にあると力説するのが、少し照れるのか、閻魔さんは、どことなくナマハゲのようにユーモラスに描かれています。

著者は、地獄信仰のユニークさに魅せられて、日本各地の地獄史跡を回ってこられた方です。その研究成果が本書になります。日本人の心の中に潜むものとは何かが、よくわかる本です。その興味深い点を要約して、紹介させていただきます。



・ものすごく恐いけれど、どこかのんきで、不思議に極楽な日本の地獄。名もなき過去の人たちが生み出してきた、この闇のワンダーランドにもう一度親しみ直せば、この世を生きることがもっと面白くなる

・「奪衣婆」には誰も興味を示さないが、閻魔大王の傍らにいる紅一点。奪衣婆は、盗みを働いた亡者の両手の指を折るとも言われる恐いおばあさん。亡者の死に装束を剥ぎ、亡者が何も着ていない場合、衣の代わりに身の皮を剥ぎ取る

・仏教(とくに浄土教)はあの世を積極的に扱う宗教として、日本に受け入れられた。仏教伝来以前の日本人も、あの世に対する思いは強く、黄泉の国などあったが、システムやディテールのしっかりしたあの世がなかった。仏教が、日本の死後の世界を確立させた

・日本仏教は、お寺の中に極楽浄土や地獄を積極的につくっていった。墓地もお寺の境内にどんどん吸い込まれ、お寺そのものがあの世になった

・閻魔さまは道服(道教の修行者が着る服)を着て座っていて、服の色は赤が多い。王冠をかぶり、髭を蓄えた真っ赤な顔ですごく怒っている。右手には必ずしゃくを持っている。左手にはルールがないので、閻魔さまの個性は左手に出やすい

六道とは、輪廻する六つの世界で、最悪の「地獄道」から「飢餓道」「畜生道」「阿修羅道」「人間道」「天道」の順にランクアップする。だが、庶民の感覚では、地獄道と飢餓道がいっしょくたにされ、それに対して極楽浄土があるという感じであった

・六道の分類は、日本人にはちょっとウザかった。庶民的には、六道はあの世、六道銭(六文銭)はあの世に行くときに使うお金、六道の辻はあの世の入口的なところ。だから、六地蔵は墓地の近くの入口にたくさんある

・美しいものでもいつかは醜くなり、栄華を極めてもいつかは零落する。そういう無常観は、平安時代以降、仏教によって、日本人の心の奥底に染み込んでいった。「卒塔婆小町」の謡曲や「小町老衰像」は老後の美女落魄、容姿の無常観を日本人に強く植え付けた

・火葬場で遺体が焼かれたあと、遺族が二人ずつ組んで、遺骨を二膳の箸で拾って骨壺に入れるのを、箸渡しと呼ぶ。箸と橋を掛けて、三途の川を橋で渡してあげるという意味

・時代が下がり、渡し賃(六文銭)を払って、舟で三途の川を渡り、払わないと、奪衣婆に衣を奪われるというシステムが普及した。奪衣婆は三途の川の渡し賃の徴収係になった

・三途の川だけでなく、地獄の思想も世界のほとんどの人に普及している。ゾロアスター教を初め、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教も、死者は審判によって、地獄と極楽(天国)に振り分けられると考えた。舟形の棺に遺体を納める風習も世界のあちこちにあった

・日本のあちこちにある火山の地獄は、「地獄に似ているところ」ではなく、「地獄そのもの」「地獄と通じているところ」。平安時代、罪を犯して死んだ日本人は、本当に立山地獄に堕ちて苦しむと考えられた。立山、恐山の地獄、湯沢の川原毛地獄が日本三大地獄

・「日本列島の多くの登拝者を集める霊山には、その山中に、浄土ヶ原とか浄土ヶ浜などの名にならんで、地獄谷や賽の河原の名を持つ地点が必ず設けられている」(山折哲雄)

・日本のあの世は、世界でも珍しく、身近にパラレルに存在していた。閻魔さんも恐いだけでなく、愛嬌のある身近な存在で、地獄も恐いけど親しみのある身近な存在だった

・日本の地獄といえば、なんといっても釜茹で。地獄は熱いの一言に尽きる。仏教の地獄には熱地獄と寒地獄があるが、熱地獄のほうが格段にリアルで詳細に描かれてきた

・平安時代に源信が書いた「往生要集」は極楽往生マニュアルだったが、この本には多くの地獄絵が描かれていたため、地獄のガイドブックの先駆けバイブルとなっていった

・平安時代中期以降に普及した仏教の地獄は、「こんなに恐ろしい地獄に堕ちたくなかったら、仏教を信じなさい」という布教の手口となったが、それが時代が下がるにつれて、恐いことは恐いが、どこかのん気になっていく



昔、子供が小さかったとき、お寺で地獄絵本を買って、寝る前に、読み聞かせたことがありました。どんな絵本よりも「効果?」があったように思いました。

著者は、「あの世とは、地獄極楽とは、人間の妄想の集大成。この妄想遺産を大切に受け継いでいくためには、さらなる妄想を加えることが重要」と述べられています。現代人の地獄観をもっと刺激するような「新地獄」を創作すべき世の中なのかもしれません。


[ 2013/11/17 07:01 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)

『鈴木大拙随聞記』志村武

鈴木大拙随聞記 (1967年)鈴木大拙随聞記 (1967年)
(1967)
志村 武

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この本は、87歳になる父親の書棚にあったもので、昭和42年に出版された書です。

鈴木大拙(宗教家・東洋思想家、昭和41年95歳で没)の書は難解で、このブログにとり上げるのをためらっていました。本書は、著者が鈴木大拙の側に寄り添い、その言葉を聞き出したものなので、比較的容易です。その一部を要約して、紹介させていただきます。



・世間的に評判が立つのは、その時その時の時代的条件の組み合わせ次第であって、その人の人間としての価値にはよらない。田舎のお寺の墓場に名も知れず眠る人々も決して「凡人」ではない。周囲の事情の組み合わせ次第で、社会の表面に祭り上げられなかっただけ

・望みが大きくても、その中から純粋なものが出てこなければ、それはアンビシャスではない。人を傷めない人のためになる、といった社会性のあるアンビシャスであること

・向こうの力がどのくらいあるのかを見ないで、むちゃくちゃをやるというのは、人間として極めて低い考え。もう少し自分を尊敬すべき。自分を動物のように見てはいけない

・心なきところに見える働きが、大拙先生が日ごろ最も重んじた「おのずから」ということ。その無功用行(報いを考えの中にまったく入れない行為)が、大拙を大拙たらしめた

・中国も、百年経てば、きっと元の姿に戻っていく。われわれは、過去から現在までに得たものを捨ててはならない。得たものを利用して、昔の系統を続けていくのがよい

・仏教には「あなたはあなたのよろしいように」(良寛和尚)といったようなところがある

・「道はおのずから道なるなり」の「おのずから」が大切。「さとり」とは、「おのずから」に徹すること

・「さとり」とは、「かぎりなく素直な心になること」であるとともに、「その素直な心を決して意識しないで行動できること」である

・誠というものには限りがない。真剣になって誠を尽くそうとすればするだけ、尽しきれない面がマイナスになって跳ね返ってくる。そのマイナスに立ち向かう気力が必要

・自分を知ることぐらい大切なことはない。自分を知る人々は、自分の益となるものがわかり、自分にできることを見分けられる。そして、自分の知ることを実行し、必要なものを手に入れて豊かに暮らし、知らないことは避けて、功なり名をとげて、尊敬を受ける

・聖徳太子の中には、日本的なるもののすべてがある。太子のころの日本を研究し、太子の思想を学ぶことによって、日本的なるものの精髄をつかむことができる

・日本が、日本がと、言っても、日本というものは、世界あっての日本で、日本は世界に包まれているが、日本もまた世界を包んでいる。日本は世界のうちの一つである

・日常的な意識が、宗教的な意識に切り替わると、指一本の中にすべてのものがあるということに、はっきり気がつく

・生まれながらの素質がどれほど優れていても、人間は生育の環境とは無縁ではない。「宮殿の中では、人は小屋の中と違った考え方をする」(フォイエルバッハ)、「人間はすべて平等な素質を持っているが、ただ境遇が差別を設けている」(リヒテンベルク)

・他力を頼んで、他人に依存して、自分からは何もしない、ではいけない。絶対の他力は絶対の自力と同じこと。つまり、自分は苦しんでいても人を助けたいという能動性が、おのずから出てこなければならない

・幸福は苦しみを超越したところにあり、幸福は因果応報を出たところにある。それを出るということは、因果を離れて因果を見るのではなく、因果の中に入っていながら、それが楽しみのものになるということ

・他のために自分の労を惜しまずに、手足を動かしていると、自分のことが自然に気にかからなくなり、自分のことのみを考える癖が少なくなり、「誠」が養われてくる

・詩があると、ゆとりが出てくる。限りあるものが限りないものに変わる。無限の世界が出てくる。詩は創造力。これを持たないといけない

・「願わくば一切の人に極楽へ行ってもらいたいが、私だけはいつまでも苦海にいたいもの」(趙州禅師)。この大悲心こそ、今日の人間を救い、今後の世界を救うものだと、大拙先生は確信していた


鈴木大拙は、明治時代に、欧米で仏教に関する講演や講義をされてきた方です。仏教、東洋思想を世界中の人に伝えることに奔走してきた人でもあります。禅を世界に広めたことでも有名です。

本書は、西田幾多郎と並ぶ、知の巨人である鈴木大拙の素顔が、間近に見えてくる貴重な書ではないでしょうか。


[ 2013/11/10 07:00 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)

『この世で大切なものってなんですか』酒井雄哉

この世で大切なものってなんですか (朝日新書)この世で大切なものってなんですか (朝日新書)
(2011/07/13)
酒井雄哉、池上 彰 他

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先月亡くなられた酒井雄哉大阿闍梨の著書を紹介するのは、「一日一生」に次ぎ2冊目です。本書は、池上彰氏の質問に酒井雄哉大阿闍梨が答える形の対談書です。

今回は、酒井雄哉大阿闍梨が真摯に「生きる」「幸せ」「豊かさ」「争い」「絆」「死」「仏」について答えられている部分を幾つか選び、要約して紹介させていただきます。



・仕事で成功して、調子がいいと思って、有頂天になり、天下を取った気持ちでいると、人間は完璧にできていないから、どこかで隙ができる。その油断で、一瞬のうちに足元をすくわれる

・いろんなことがいい時というのは、見えているようで実は見えていない。調子がよくて周りから注目されたら、自分の言葉に酔って心が緩んでくる。そういうときは誰も注意しないで、おだてるから、ますます酔って、欲の皮が突っ張ってきて、収拾がつかなくなる

・体験したことは、自分の体に染み込んでいるから忘れない

・行に入ったら、「始めも終わりもない」無始無終

・人間は底知れない力を持っていて、もうだめだという時、自分を超える自分が出てくる。姿かたちは見えないが、心の中に

・始めてしまえば、つらいとか苦しいとか考えていられない。ただ決められたことを、無我夢中でお勤めさせてもらっているから

・人間の欲というのは、身体のほうが欲心してくる。次のうがい水が、二十四時間たたないと来ないとなると、今まで完璧に仏様の行をやっていたところに、悪魔がささやく。水を欲す自分と仏様と対決していかないといけない

・人間には、葛藤があるわけで、背中には常に悪がくっついてささやく。よいことをやっているつもりでいても、油断していると、悪いほうの奴がちょっかいを出してくる

・人間の心の中には、常に「善」という慈悲の心と、人を妬んだり蔑んだりの「悪」の心が同居していて、善と悪とが葛藤しながら、向上心と平常心を保っていく

・今自分が置かれている環境が「幸せ」と思ったら幸せだし、幸せはここではない、他にあると思っている人は、単純に幸せだと思っている人からみたら不幸

・人よりも幸せになろうとすると、幸せが競争、争いごとになる。自分だけが幸せになればいいと考えているから、人との摩擦が起きてしまう

・日本人の根っこには、仏教的な慈しみの気持ちがある。だから、思想信条を離れても、わりあい穏やかにまとまれる

・泥棒してやろうと思って生まれてくる子はいない。誰だって、「おぎゃー」と自然のままに出てくる。それがだんだん、周りの人たちの育て方、絆によって、引っ張られる。いい絆であれば、いいほうへ行くが、悪い絆であれば、悪いほうに行ってしまう

・あれもこれもと、欲張っていると、いざとなったとき、未練を残すことになる

・この宇宙の中で、現世も来世も、自分は宇宙の一点にすぎない。仏様とのご縁があって地球に生まれ、そして、点と点同士が共存しながら、時間という限られた空間で過ごしている

・愚痴をこぼしたり、妬んだりするのは、自分自身に自信がないから。自信があったら、あの人のここはすごいなあと素直に褒め喜べる。見た目だけで簡単に判断を下してしまうから、うらやましく映ったりする

無常の風はずーっと吹いている。自分自身が強くなって、はねのけるだけの力を蓄えていくしかない

・むりせず、急がず、はみださず、りきまず、ひがまず、いばらない

・知的な障害を持った子たちは、世の中に福を与えている。「あなたは福の神なんだ」と教えてあげればいい。手助けされたりすると、自分が厄介者だと思ったりする。仏様から授かった使命だから、誇りを持って生きていけばいい。

・人生はろうそくと同じ。ろうそくに火を点して、最後まで燃え尽きるのがいい。蝋を残したら、もったいない



織田信長の比叡山焼き討ち以来、たった三人しかいない千日回峰行二度満行した大阿闍梨の哲学は、やさしい言葉で語りながらも、核心をついています。

達観や悟りといったことを通り越した、天の声とも言うべき言葉なのではないでしょうか。


[ 2013/11/01 07:00 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)

『猫のように生きる: からだで感じる生きかた指南』板橋興宗

猫のように生きる: からだで感じる生きかた指南猫のように生きる: からだで感じる生きかた指南
(2013/03/07)
板橋興宗

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著者の本を紹介するのは、「息身佛」に次ぎ2冊目です。著者は、曹洞宗の管長という大役を務められた後、福井県で禅寺を興し、修行僧30人、猫80匹とともに、暮らしています。

本書は、猫好きで知られる住職が、猫のように「からだで感じる」生き方を指南したものです。非常にわかりやすい言葉なので、少々戸惑ってしまうほどです。それらの一部を要約して、紹介させていただきます。



・みんなで一緒にやるから修行できる。一人では節制できない。規則正しい修行生活を送っていると、自分に締りがでてくる。そして、身心ともに健康であることを、直に感じる

・修行をすると、言葉を離れて、からだがわかっている生活に戻る。修行というものは、どんな種類のことでもそうなる

・その時、その時の「今」に目を向ける努力。それが私の修行。私にとっての修行の目標は「実感

・坐禅をすると、脳の中が無重力の状態になる。宇宙船の中では、何の抵抗もなくサーッとモノが動いていく。人間の頭も、執着がなければ無重力の状態になる

・言葉で考えるのではなく「からだがわかる」生き方が、坐禅の真髄

・坐禅をしていると、いい知恵が出る。大切なことを決定するときなど、坐禅をするといい。毎日続けていると、自然に普通の人とはどこか違ってくる

・どこに石があるのか、足を取られる深みがあるかわからない川を渡るのに、おどおどしながら渡る人もあれば、遠くに見える光を信じ切って「あそこに輝くものがある」と足元を気にせず歩いて行く人もある。それが信仰というもの

・禅の方法は「深みがあって転んだら、転んでもいいじゃないか」と、取り越し苦労をしないで、前向きに歩くというもの

・解脱(悟り)とは、「このままでよかったのだ」と気づくこと。頭で考えて理解することでもなく、単なる納得でもない。ああ、このままでよかったのだという「気づき」

・猫には言葉がない。「にゃー」「にゃお?」と、気分がそのまま声に現れているだけ。人間は言葉で考えるから、「明日はどうなるのか」「あの人は何を考えているのか」「ほかの人に比べて」と、悩んだり喜んだりする。まるで、頭の中で、小説や映画を描いている

・「言葉の極致」は、言葉を使わずに「からだがわかる」ことにある。言葉を使うよりも「からだがわかっている」のが実感であり事実

・猫は、魚を食べてお腹がいっぱいになれば、どこかへ行ってしまう。また同じ場所に置いてあれば、また食べに来る。ただそれだけ。人間は「残しておけば誰かが食べてしまう」と推測する。人は考えて悩み、苦しみ、争い、果ては戦争までやってしまう

・我々は、変わりゆくものに個人的な情を入れてしまう。執着することさえなくせば、恐れることのない「自由自在の境地」になれる

・猫には言葉がないから、餌のために争うことがあっても、その時、その場だけの争い。相手の油断を狙って襲いかかる考えや計画性はない。「煩悩は言葉がつくる

・とにかく、グチグチと考えるくせを少なくすること。それには、自分のやりたいこと、好きなことに目を向けて、努力するのが一番賢明な生き方。そのために、坐禅や読経などの修行がある

質素な生活ほど精神性を深める。再び、良寛さんや二宮尊徳のような質素な暮らしが重んじられる時代がやってくる。それが日本人の底力

・「生ぜしも独りなり、死するも独りなり、されば人と共に住すも独りなり」(一遍上人)

・優しい言葉には動物も従う

・この世には雑用という用は一つもない

垣根は相手がつくっているものではない。自分がつくっている

・智は愚を責めず



著者は、観念の世界よりも、「からだ」の感性に重きをおいて生きることが、生きることの極意であると説かれています。

坐禅を含めた修行というのは、人間の心にこびりついた言葉の垢や汚れをとるためのものかもしれません。絶えず、心の中をクリーンにしておくことが大切なのだと思います。


[ 2013/09/27 07:00 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)

『和顔・仏様のような顔で生きよう―山田無文老師説話集』

和顔 仏様のような顔で生きよう―山田無文老師説話集和顔 仏様のような顔で生きよう―山田無文老師説話集
(2005/10)
山田 無文

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著者は、25年前に亡くなられた昭和期の代表的な禅僧です。著書を数多く遺されています。私の父が、著者のいた禅寺に通っていた関係で、その著書が家にたくさんあります。

本書は、著者の「仏様のような顔(和顔)で生きよう」「和顔を人生の目標にしよう」といった訓えを、簡潔に表わしたものです。ためになることがたくさん載っています。それらの一部を要約して、紹介させていただきます。



・人生とは、ただ生活を享楽するような甘いものではない。また、より多く幸福を求めるなどという、意味のないものでもあってはならない。自分がこの世の中に出てきた真実の意味を自覚し、何らかの足跡を残していかなければ、せっかく人間に生まれた甲斐がない

・臨済禅師は「随処に主と作れ」と言った。これは、威張れということでも、自由勝手にせよということでもない。どこへ行っても、その場所を愛せよ、愛情を持てということ

・臨機応変のはたらきは、何も思わぬところから自然に出てくる。その、何も思わぬ純粋な気持ちをいつも失わないことが、一番大事なことであり、それが「信心」

・古い記憶がいつまでも心の中に残っているというのは「穢れ」。すんだことをいつまでも覚えているのは「心の塵

・すべてのものに敬語をつけて、尊敬して呼ぶことが仏法の教えであり、日本民族の長いならわし。しかし、それは、どんなものにも魂があるから尊敬するというのではない。こちらの感謝の心が、そうせずにはおられぬからそうする

・霊があれば祀る、ないから祀らないという理屈ではなくて、霊があってもなくても、祀らずにおられないからそうする

・自性がわかることを見性と言う。真実の自分もわからずに、世の中へ飛び出して、損だ得だ、嬉しいの哀しいの苦しいの楽しいの、憎いの可愛いの、進歩だ闘争だと騒いでみてもしょうがない

好き嫌いにとらわれたら、これほど嫌なものはない。良し悪しにこだわったら、これほど厄介なものはない。好き嫌いを捨てずに、好き嫌いに落ちず、良し悪しにこだわらずして、良し悪しのけじめを正していく、そこに至道の妙味がある

・頭をゴツンと打って、「痛い!」のは親から教わったものではない。何もないこころから「痛い」と出たもの。この何もないこころから分別せずに出てくる智慧、かかる純粋な意識そのものがわかることを悟りと言う

・花には蜜があるが、それは世の中に奉仕しようとする心、何かを捧げる心。花さえ咲かせれば、実はひとりでに結ぶ。幸福というものは、こちらから求めるものではなく、向こうから与えられるもの

・草木がこの世に生じたのは、美しい花を咲かせるため。人間がこの世に生まれてきた目的は、仏のような立派な人相をつくるため。死ぬまでに、よい人相になりたいもの

・何もない透明な、写真機のレンズのような心が、ものに触れ、ことに触れて感動し、その端的に句が生まれる。そこに俳句の世界があり、それは、禅に近いもの

・人間の内側に動揺しないものがあるから、動揺する心がわかる

・現実の世界の真っただ中にあって、苦楽の中にいて苦楽を離れ、生き死にの中にいて、生き死にを忘れている、そういう心境が彼岸と名付けられるもの

・「求むる有るは皆苦なり」、つまり、心の中に欲しい物があるのは皆苦の種だと臨済禅師ははっきりと言っている

・純粋とは、計らいのないこと、権謀のない心、それを内面的に把握すること、これが「直心」で、「直心は是れ菩薩の浄土なり」とは、その心自体が浄土であるということ

・人柄や相といった、人間から出てくる匂いがないといけない。美男や美女でなくてもいい。顔に何とも言えない味わいが出てくるのが「妙相」。惚れ惚れとする顔ではないが、何かしらいいところ、明るいところ、温かみがある「妙相」になっていかなければならない

・親が生みつけてくれた顔を、輝かしい、喜ばしい、微笑みのある、温かい、人に喜ばれる、いい顔にして死ななくてはいけない。大概、親の生んでくれた無邪気な顔を、できそこないの顔にして、死んでいく



人相は、年齢とともに、顔に刻まれていきます。写真家が撮ってみたいと思うような顔になるには、真剣に、誠実に、生きていないと、そうなりません。

お金や名誉に恵まれていない市井の人の中に、この「和顔」の人が大勢います。人は見た目ではわからないといいますが、本書を読むと、「人は見た目でわかる」ように思えてきます。


[ 2013/08/30 07:00 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)

『唯識わが心の構造「唯識三十頌」に学ぶ(新・興福寺仏教文化講座)』横山紘一

唯識 わが心の構造―『唯識三十頌』に学ぶ (新・興福寺仏教文化講座)唯識 わが心の構造―『唯識三十頌』に学ぶ (新・興福寺仏教文化講座)
(2001/09)
横山 紘一

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唯識観とは、自己と世界の真のありようを見究める観察方法です。その観法の根拠となるのが「唯識思想」です。その唯識思想について、著者が興福寺仏教文化講座で講義した内容をまとめたものです。

仏教というよりか、「仏道」(仏に成る道)について詳しく述べられている書です。勉強になった箇所が多々ありました。それらの一部を要約して、紹介させていただきます。



・「心の中に一切を還元して観察する」ということは、具体的には「対象に成りきる」ということ。対象に成りきってしまう。これが唯識観の本質。その成りきった対象をもう一度心の外に投げ返し、そこに日常生活を送るなら、今までと違った世界が展開してくる

・「眼識」「耳識」「鼻識」「舌識」「身識」は前五識、視覚~触覚の五感覚。「意識」は第六意識。この心の意識の運用によって、人間は善にも悪にもなる。以上が表層の心理。唯識ではさらに深層心理の「末那識」(自我執着心)と「阿頼耶識」(根本心)がある

・阿頼耶識に蓄えられた種子から眼識~末那識が生じ、肉体が生じ、さらに自然界が生じる。すなわち、阿頼耶識に所蔵される種子とは、「あらゆるものを生ぜしめる可能力

・私たちは生まれたからには、社会に役立ちたいと思っているが、それは表層心理で理性的にそう考えるのであって、決して全体としてそうではない。私たちは何をするにしても自己中心的。末那識が表層心理にかかわらず、常にドロドロと自己中心的に働いている

・白隠禅師の「坐禅和讃」の中に、「坐の功を為す人は、積みし無量の罪滅ぶ」という一句がある。「わずか三十分坐っても、その行為が深層に積もり積もった煩悩を焼いてくれる」という意味。「自己の心の汚れは、自己の心によってしか除くことはできない」

・極楽往生を願うという往相は、再びこの世にもどって人々を救いたいという還相の願いがあって初めて許されるもの

・日本の仏教は現世利益志向が強いため低く評価されるが、現世利益は一概に悪くない。なぜなら、花が咲いて実がなるように、現世利益を経ないと、出世利益にならないから

・阿頼耶識は善でも悪でもない無記。そもそも、善悪は人間が自分のエゴによって考え出したもの。そういった意味で、あらゆる存在は無記という主張は、重い意味を持っている

・私たちの根底をなす阿頼耶識が善でも悪でもなく無記であるからこそ、私たちは悪から善へと変化していくことができる

・私たちは、日常生活において、物質的なものだけでなく、知識を増やしたいといった精神的なものも蓄積する。しかし、それらが蓄えると、ますます執着心が増していく

・阿頼耶識は、業すなわち行為の結果を貯蔵するはたらきがある。行為の結果を種子あるいは習気という。習気の「習」は繰り返すという意味。繰り返し繰り返し行う表層の行為の結果がどんどん薫習されていく場所、それが深層心理の阿頼耶識

継続的な向上努力を、仏教では「精進」という。そうした精進によって、すばらしい業を積み重ね、阿頼耶識(自己の根源的な心)から煩悩を払拭して、それを清らかなものに戻していくことが、私たちにとっての生きる目的

・「言葉が現象を生み出していく」という事実認識から名言種子という考えができてきた

・私たちは、地球上に発生した命の大きな流れの一滴にしかすぎないのに、それを忘れて自分自身と「自己存在」に捉われ執着し、苦しみ悩み対立しているところに問題がある

・自我執着心をなくせばなくすほど、自己は鏡のように光り輝き清らかなものになっていく。そこが空性を悟るということになる。そのように空性に達することが、菩提を獲得するということ

・「自己を習ふといふは、自己を忘るるなり。自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり」(道元禅師)の「万法に証さらるる」というのは、自分が悟るのではなく、一切のものが自分を悟るということ

・「この身を度する」のが「上求菩提・下化衆生」という誓願を持って生きる菩薩の生き方。このうち「上求菩提」が自利行で、宇宙の真理を悟ること。「下化衆生」が利他行で、人々を苦しみから救うこと。そういう願いを持って生き抜けば、すばらしい一生が送れる

・一体この世は何なのかというと、唯だ自然があるだけ、唯だ他人がいるだけ、唯だ心があるだけ。とにかく、対象に成りきったとき、そこに現成してくることしかない



本書は、350ページに及ぶ大作です。仏道を本格的に学ぶための専門書です。今回は、その中で、やさしいと思われる箇所だけを抜粋して、紹介させていただきました。

仏道と真剣に向き合いたい方、人間の心の構造をもっと知りたい方には、最高で最上の書になるのではないでしょうか。


[ 2013/08/23 07:00 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)

『いま知っておきたい霊魂のこと』正木晃

いま知っておきたい霊魂のこといま知っておきたい霊魂のこと
(2013/03/14)
正木 晃

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本書は、世界の人たちが、死、霊魂、輪廻転生、天国と地獄、幽霊、鎮魂、葬式、お墓についてどう思っているのか、どう考えているのかをまとめたものです。世界の霊魂観がよく分かる文化人類学のような書です。

日本人だけのもの、世界共通のものを知ることによって、霊魂という不思議な存在が見えてきます。この興味深い内容の一部を、要約して紹介させていただきます。



・今を去ること何万年前、人類は霊魂の存在を意識し始めたことで、新たな発展段階に入った。家長が死んでも、霊魂が見守ってくれていると、苦悩の末に思いたどりついた。死後の世界死者の霊魂が確かにあるという貴重な智恵が、宗教の起源だった

・幽霊が真夜中に出やすい理由は、光を非常に嫌うからだと言われる。洋の東西を問わず、聖なるものは光と強く結びつき、反対に聖ならざるものは、闇と強く結びつく

・古代エジプトでは、死者は審判を受けなければならなかった。生前の行いと心臓の重さが、「真理の秤」にのせられ、照らし合わされた。その結果がよければ、死者は至福の生活を保証され、結果が悪ければ、天秤の傍らの怪物に食われ、一巻の終わりとなった

・メキシコの山岳民族のウィチョル族は、霊魂を、色の白いてるてる坊主のような姿をしていると考えた。てるてる坊主には下半身がない。その理由は、不死の世界に行くためには、性の執着を捨てる必要があると考えられたから

・霊魂は肉体というくびきを離れて、どこへでも行けることから、鳥の姿形に見立てる事例が、世界のいたるところで見られる。鳥は霊魂だけでなく、死後の世界の案内役と見なされることもよくある

・東京大学の「死生学研究」における「お迎え時に見えた、聞こえた、感じたらしいもの」の内訳は、「すでに亡くなった家族や知り合い」53%、「その他の人物」34%、「お花畑」8%、「仏」5%、「川」4%、「神」1%、「トンネル」1%、「その他」31%

・幽体離脱の体験に共通することは、過酷なストレスにさらされているときに、別の自分を見たという点。かなり高い確率で、自分自身を上から見るという体験をしている

・怨霊が猛威を振るったのは、平安時代から南北朝時代まで。室町時代の中頃になると、怨霊は一段落するが、特定人物に対する霊魂の復讐という構図は、その後も消えなかった

・私たちのご先祖は、最初は恐怖の対象だった霊的な存在を、浄霊という乱暴な方法ではなく、うまく手なずけて、味方として「祀り上げた

・仏教が不振を極めている現時点でも、信者や檀家が増えているお寺に共通するのは、住職に特別な力があると見なされているところ

・死者儀礼の第一歩は、その人に、あなたは死んでいると、ちゃんと教えてあげるというのが、古今東西、宗教界の金科玉条

・だいたい20~30人に一人の割合で、金縛りの体験者がいる。そして、金縛りにあいやすい人ほど「変なもの」を見る確率が高い

・仏教の基本的な教えでは、人は死ねば、最長で49日間に、何かに生まれ変わっているはず。したがって、お墓や仏壇に霊魂はいないことになる。しかし、日本人の多くは、お墓や仏壇に霊魂はいると信じてきた

・輪廻転生の理論では、幽霊は存在しないはずだが、チベットでも、輪廻転生できず幽霊になってしまう者がいて、回忌法要が営まれている

・真言宗や日蓮宗では、おおむね霊魂はあるという立場。曹洞宗は、約半分のお坊さんが、霊魂はあると見なしている。それに比べ、浄土真宗は霊魂の存在について否定的

・天国の説明に関する限り、イスラム教は具体的。コーランには、「清らかなこんこんと湧き出る泉のほとりの緑したたる木陰で、みめ麗しい少女や少年にかしずかれつつ、この上なく美味な食物や飲料や酒を心ゆくまで堪能できる」」と説かれている

再生を期待する心と、祟りを恐れる心。縄文時代の人々は、死者の霊魂に対して、互いに矛盾する二つの思いを抱いていた。この思いは、その後も日本人の心にあり続けてきた

・仏教が日本に広まったのは、悟りが開きたいとか、ブッダの教えに従って人生を全うしたいといった立派なものではない。怨霊を鎮め、成仏させる力が期待されたからこそ、広まった



霊魂の存在をどう考えるかで、それが宗教になり、民族になり、文化になっていきました。

霊魂について、再度どう考えるかで、人の一生も変わってくるのではないでしょうか。難しいことを考えたくなければ、地域や民族の伝統的な型式に従うのがベターなのかもしれません。


[ 2013/08/09 07:00 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)

『日本仏教名言集』石上善應

日本仏教名言集日本仏教名言集
(2009/01/20)
石上善應

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日本の名僧が「書」で文字に記した言葉を、「天台系」「真言・密教系」「浄土教系」「系」の4部門から選んだ本です。その名言にわかりやすい解説が付いています。

これらの名言は、掛軸などで、床の間に掛けられ、作品としても、愛でられてきたものです。じっくり吟味できる内容になっています。その一部を紹介させていただきます。



・「他不是吾」(道元)
他の人がやったことは、自分のやったことにはならない。仏道修行は代理がきかない

・「資生業等皆順正法」(法華経)
日々の生活が、様々な人に支えられていることに気づき、各々の境遇で真剣に努め励み、周囲を幸せにしていく生きざまが、仏の道にかなっている

・「己を忘て己を忘れざれ」(鈴木正三)
自己を忘れ無我になって、しかも自己を大切に守らなければならない

・「何の事業も皆佛行なり」(鈴木正三)
いかなる職業に従事していても、それがみな仏道にかなった行いである

・「一筋に正直の道を學ぶべし」(鈴木正三)
ひたすらに正直の道を学んでいくべきである

・「佛道をならふといふは自己をならふなり」(道元)
仏道を学ぶということは、自己を学ぶということである

・「まことの道を好まば道者の名をかくすべきなり」(道元)
真実の道を生きるのであれば、道を行ずる自分自身の名前を他人に知られようとせずに隠すべきである

・「只心をはつしと用 一切を吐出して常に隙にて居給べし」(鈴木正三)
ただ心をはっしと用い、一切を吐き出して、常にすかっと空になっておられよ

・「常に死習って死の隙を明 誠に死する時 驚ぬやうにすべし」(鈴木正三)
常に死ぬことを習って、死ぬということがよくわかって、本当に死ぬ時、驚かぬようにしなさい

・「我有りと思ふ心を捨てよただ 身のうき雲の風にまかせて」(一休)
自分が存在すると思う、その心を捨てなさい。浮雲が風にまかせて流れ行くように

・「極楽に行かんと思うこころこそ地獄に堕つる初めなりけり」(夢窓疎石)
極楽に行きたい行きたいと願う心が地獄に堕ちる原因の第一歩である

・「すみすまぬ こころは水の泡なれば 消たる色や むらさきの雲」(一遍)
澄んでいようが濁っていようが、この身の心は、はかなくもろいもの。この心の様々な色が消えた後にこそ、紫の雲がたなびくのだ

・「佛法を修行するとは佛法を習ふにあらず 我僻事を破るなり」(一休)
仏法を修行することとは、仏法を習うことではない。自らの誤った考えを破ることである

・「身の咎を己が心に知られては 罪のむくいをいかがのがれん」(至道無難)
自分の間違いを自分の心に知られた以上、その罪の報いから逃れることはできない

・「世の中にまじらぬとにはあらねどもひとり遊びぞ我は勝れる」(良寛)
世の中の人々と付き合わないというのではないが、一人で詩歌や書にふけるほうが、自分にとっては好ましい

・「若し人心にかなふことを愛せずば心にそむくこともあるべからず」(夢窓疎石)
もしも自分の気に入ったものに執着することがなければ、気に入らないことが起こることはない

・「見ず聞かず言わざるの三つのさるより思わざるこそまさりけれ」(良源)
悪事を見たり、聞いたり、悪口を言ったりしないことはもちろんのこと、悪いことを考えたり、思ったりもしてはならない

・「さけばさきちるはをのれと散るはなの ことはりにこそ身は成りにけり」(一遍)
花が咲き誇れば、その後は必ず散りいく花となる。これが自然の道理。我が身もこの道理そのものだ



本書には、1000ほどの仏教名言が収められています。どうしても、自分の好みから、道元、一休、夢窓疎石、鈴木正三などの禅僧の言葉が多くなってしまいました。

本書には、浄土系、天台系、真言系などの僧侶の言葉も豊富に載っています。それぞれの気に入ったものを拾い集めてみるのもいいのではないでしょうか。


[ 2013/06/14 07:00 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)

『心に響く99の言葉―東洋の風韻』多川俊映

心に響く99の言葉―東洋の風韻心に響く99の言葉―東洋の風韻
(2008/06/06)
多川 俊映

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著者は、阿修羅像で有名な興福寺の貫主です。以前に「唯識十章」という本を紹介させていただきました。

本書は、週刊ダイヤモンドに「東洋の風韻」と題して、著者が2年間にわたり、連載していたものです。難しい仏教の言葉を、できるだけわかりやすく説明されています。それらの一部を、要約して紹介させていただきます。


・誰も気になるのは人目で、それで人は皆、それなりに慎んだ自分になる。しかし、人目のない時人目の届かぬ心の内は、やることが雑になり、思いは乱れる。そのことを甘くみてはいけない

・他の動向に振りまわされたら、心は乱れるし、品格も下がる。「分」とは、「他と比較しない自分」ということ

・越すに越せない心の垣根などという、そんな垣根などあるわけでもなく、わが心が作り出したもの。気がつけば越えていたという程度のもの

・「雨の日は雨を愛さう。風の日は風を好まう。晴れた日は散歩をしよう。貧しくは心に富まう」は、堀口大学の詩。こせこせ比較しないと決めたら、その瞬間から風景が違ってくる。心に富むとはそういうこと

・心の深層に植えつけられた行為の情報が、積もり積もって、パーソナリティーを形成する。やはり、行為が人をつくる

・あんなヤツ、いなきゃいいんだ、という密やかな思いは呪殺そのもの。そのドス黒い想念が、他ならぬ自分を深いところから汚す。まさに、還って本人にたどり着く

・過去一切を、私たちは背負って今日ここに在る。だから、過去を捨てることなどできない。しかし、過去を土台として、跳躍することはできる

一点の素心とは、何ものにも汚されない清々しさ。それは、人としての誇り、矜持と言い換えることもできる。そして、それを心に秘める者だけが、心温かきことに出会い、真の人になっていく

・どの道でも、極めた人・極めようと真実一途な人は、隠したり意地悪したりしない。そのように、オープンな人だけが、道を極める

・善眼でも悪眼でもない、あるがままに見る慈眼という第三の眼があることを知っておけば、いつかはそれに近づくことができる

・私たちはどうしても、他人の小過・陰私・旧悪に目が行く。そこを踏ん張って、むしろわが身をこそ振り返る。そこに徳が養われ、同時に、人の恨みも買わなくてもすむ。まさに、一石二鳥

・「衣裏の珠を看よ」とは、良寛の語。いいものは遠く離れたところにあるのではなく、もっと自己の日常を見つめて、自分の心の中にこそ、自己を大きく成長させるものが備わっているのではないか、というもの

・一遍は、「生ぜしともひとりなり。死するも独りなり。されば人と共に住するも独なり」と述べている。たとえ群れていても、独りなんだ。人間とは、そういうものなのだ。何ごとにつけ、それをもとに考えれば、本質をはずすことはない

・私たちは当面の都合だけで、関係性の有無を判断し、無いとみれば、ものの見事にバッサリと切り捨ててしまう。そうして、わが世界を自ら狭くしている。視野を遠くに投げかけて、頑なになった心をほぐしたい

・一遍は「仏も吾もなかりけり」と言う。ここにはもう、主体と客体とを区切るボーダーはない。そういうボーダーレスの世界がある。ものごとはほぼ、そうした没我の世界においてこそ、成就する

・私たちは、前生から来た旅人。永遠の過去から永い旅路の果てに、いまここに在る。永遠の過去とは、もとより生命の根源のこと。誕生も卒業も、事業の完成も定年も、そして死もまた、旅の途中の一コマ

・「大きな真実は大きな沈黙をもっている」とは、そこから先が大事なのだということ。言葉を超えた世界に遊ぶことは、人に重厚さを与える

・インドの詩聖タゴールは、「死んだ言葉の塵がお前にこびりついている、沈黙によってお前の魂を洗え」と、聞き捨てならぬことを述べている。黙すことを学ばなければならない



著者は、仏教界の中だけでなく、一流のエッセイストとして、言葉で一般大衆を率いることでも、群を抜いているように思います。

仏教の考え方を、品よく、さりげなく伝える技術は、今の仏教界において、著者の右に出るものはいないのではないでしょうか。


[ 2013/04/26 07:00 ] 神仏の本 | TB(0) | CM(0)