とは考

「・・・とは」「・・・人とは」を思索

『堕落論』坂口安吾

堕落論 (新潮文庫)堕落論 (新潮文庫)
(2000/05/30)
坂口 安吾

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坂口安吾の本を紹介するのは、これで3冊目になります。戦後すぐに、安吾は本書で、「生きて堕ちよ」と堕落をすすめ、世に賛否両論の渦を巻き起こしました。

その本質を見極める言葉の数々は、65年経った今でも、非常に参考になります。その一部をまとめてみました。



・堕ちる道を堕ちることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である

・農村には耐乏精神だの本能的な貯蓄精神はあるが、文化の本質である進歩はない。農村にあるものは排他精神と、他へ対する不信、疑り深い魂だけで、損得の執拗な計算が発達しているだけ。純朴などという性格もない

・農民は常に受け身である。自分の方からこうしたいとは言わず、また、言い得ない。その代わり、押しつけられた事柄を彼ら独特のずるさによって処理する。そして、その受け身のずるさが、日本の歴史を動かしてきた

・必要は発明の母というが、その必要を求める精神を、日本ではナマクラなどと言い、耐乏を美徳と称す。勤労精神を忘れるのは亡国のもとだという。だが、肉体の勤労に頼り、耐乏の精神によって、今日亡国の悲運を招いた

・藤原氏や将軍家にとって、最高の主権を握るよりも、天皇制は都合がよかった。彼らは自分自身が天下に号令するよりも、天皇に号令させ、自分がまず真っ先にその号令に服従してみせることによって号令がさらによく行き渡ることを心得ていた

・藤原氏の昔から、最も天皇を冒瀆する者が最も天皇を崇拝していた。彼らは盲目的に崇拝し、同時に天皇をもてあそび、わが身の便利の道具とし、冒瀆の限りをつくしていた

・人間の、また人性の正しい姿とは、欲するところを素直に欲し、厭なものを厭だと言う、ただそれだけのこと。大義名分だの、不義はご法度だの、義理人情というニセの着物を脱ぎ去り、赤裸々な心になることが、人間の復活の第一条件

・美しいもの、楽しいことを愛すのは人間の自然であり、贅沢や豪奢を愛し、成金は俗悪な成金趣味を発揮するが、これが万人の本性であって、軽蔑すべきではない。そして、人間は、美しいもの、楽しいこと、贅沢を愛するように、正しいことをも愛する

・人間が正しいもの、正義を愛す、ということは、同時にそれが美しいもの、楽しいもの、贅沢を愛し、男が美女を愛し、女が美男を愛することと並び存する。悪いことをも欲する心と並び存するゆえに意味があるので、人間の倫理の根元はここにある

教訓には二つある。先人がそのために失敗したから、後人はそれをしてはならぬ、という意味のものと、先人はそのために失敗し、後人も失敗するに決まっているが、さればといって、だからするなとはいえない性質のもの

・家庭は親の愛情と犠牲によって構成された団結のようだが、実際は因習的な形式的なもので、親の子への献身などは親が妄想的に確信しているだけ、かえって子供に服従と犠牲を要求することが多い

働くのは遊ぶためであり、より美しいもの便利なもの楽しいものを求めるのは人間の自然であり、それを拒み阻むべき理由はない

・江戸の精神、江戸の趣味と称する通人の魂はおおむね荷風の流儀で、俗を笑い、古きを尊び懐かしんで、新しきものを軽薄とし、自分のみを高しとする。新しきものを憎むのは、ただその古きに似ざるがためであって、より高き真実を求める生き方、憧れに欠けている

・日本文学にとっては、大阪の商人気質、実質主義のオッチョコチョイが必要。文学本来の本質たる思想性の自覚と同時に、徹底的にオッチョコチョイな戯作者根性が必要。鼻唄を歌いながらではいけなく、しかめっ面をしてしか文学を書けなかったということ

・人間は悲しいものだ。切ないものだ。苦しいものだ。不幸なものだ。なぜなら、死んでなくなってしまうのだから。人間同志の関係に幸福などない。それでも、とにかく、生きるほかに手はない。生きる以上は、悪くより、よく生きなければならぬ

・死ぬ時は、ただ無に帰するのみであるという、この慎ましい人間のまことの義務に忠実でなければならぬ。これを、人間の義務とみる。生きているだけが人間で、あとはただ、無である。そして、ただ生きることのみを知ることによって、正義、真実が生まれる



安吾は憤然と、人間の本性について、日本的組織について、日本人について、日本文学について、死について、語っています。

自分の頭で考えず、本質を見ようとしない日本人に対して、安吾は苛立ち、耐えられなかったのでしょう。それから、65年経っても、大きくは変わっていません。安吾の指摘、「恐るべし」です。


[ 2013/12/11 07:00 ] 坂口安吾・本 | TB(0) | CM(0)

『坂口安吾・人生ギリギリの言葉』長尾剛

坂口安吾・人生ギリギリの言葉坂口安吾・人生ギリギリの言葉
(2009/09/12)
長尾 剛

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坂口安吾は、以前に、「日本文化私観」をとり上げました。本書は、坂口安吾に質問する形式で、坂口安吾の言葉をまとめた書です。

戦後間もないころに、坂口安吾が指摘した日本人は、その指摘(予言?)どおり、その性質は、現在にいたっても何も変わっていません。今でも、うなずいてしまう指摘の数々を、一部ですが、紹介させていただきます。



・日本人は、愚かしくも、そもそも自分がない。「戦争」と言われれば戦争。「民主主義」と言われれば民主主義。万事、お上に任せてクルリと変わるばかりで、犬のように従順であるというだけ。その軽薄な国民気質が、いつでもこの国の秩序のもと

・日本には「内省から始まる知識」というものがなく、あるのは命令と服従禁止と許可

・日本人は、一般庶民たることに適していて、特権を持たせると、鬼畜低能になる

・「死後に生きたアカシを残したい」なんて欲は、人の自然な欲ではない。人には、もっと「今生きている日々を喜ばせ輝かせる欲」というものがある

・私は、善人は嫌いだ。なぜなら、善人は人を許し、我を許し、なれ合いで世を渡り、「真実や自我を見つめる」という苦悩も孤独もないから

・娼婦は、美のためにあらゆる技術を用い、男に与える陶酔の代償として、当然の報酬を求める。そのため、己を犠牲にし、絶食はおろか、己の肉欲の快楽すらも犠牲にする

働くのは遊ぶため。より美しいもの、便利なもの、楽しいものを求めるのは人間の自然であり、それを拒み阻むべき理由はない

・人間はハッキリ目的が定まり、それに向かって進む時が一番強い。生命力が完全燃焼するのも、その時

・天国の幸福を考える前に、人間が地上の幸福を追求するのは当然のこと。しかし、大半の人は、クダラぬ説教を聞かされ続け、そのせいで、天国のために地上を犠牲にしている

・人間は本来、善悪の混血児であり、悪に対するブレーキと同時に、憧憬をも持っている

・戦時中、暗闇の中、泥棒、追剥がほとんどなかった。最低生活とはいえ、みんな食えた。この平静な秩序を生んでいたのは、金を盗んでも、遊びがなく、泥棒の要がなかったから。泥棒し、人殺しをしても、欲しいものが存するところに、人間の真実の生活がある

・人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中、に人間を救う便利な近道はない

・社交的に勤勉なのは必ずしも勤勉ではなく、社交的に怠慢なのは必ずしも怠慢ではない

・贅沢を求めて努力して成果を上げた者が、その努力に見合った贅沢を手に入れられることが、正しき人の世の条件。人々が己の欲望を追うべく能力を磨き、カネのために働くことで、世の文化も発展する

・庶民の多くは安きにつきたがり、昔を懐かしむものだから、選ばれる政治家、多数党というものは、国民の過半数の代表者に相違ないが、決して真理を代表するものではない

・龍安寺の石庭を見たとき、心が重く暗くなった。悲しいものを見たと思った。そこに重々しく表されたものは「そのもの以外を否定している心境」。これが、日本の風流というもの

・若者は勝ちたい。とにかく、どんな敵が相手でもいい。勝利の自己満足を得たいだけ。純粋な魂だからこそ、ただ勝ちたい

・ずるさは仕方がない。ずるさは悪徳ではない。同時に存している正しい勇気を失うことがいけない

・邪教が問題になるのは、その莫大な利益のせいだが、当人が好んで寄進しているのだから仕方がない。「新興宗教が悪くて、昔ながらの宗教が良い」というのも偏見で、邪教の要素はあらゆる宗教にある

・芸術は、作家の人生において、たかが商品に過ぎず、または遊びに過ぎないもので、そこに、作者の多くの時間と心労苦吟がかけられたとしても、それが「作者の人生のオモチャであり、他の何物よりも心を満たす遊びであった」という以外に、何物があるのか

・納得しなければ面白さが解らないものは、面白くないものである



坂口安吾の言葉は、暗さ、重さの中で、パッと明るい光を投げかけてくれます。

日本人という殻を打ち破り、日本という国の閉塞感から脱出するためには、今こそ、坂口安吾を読み直すことが必要ではないでしょうか。


[ 2013/01/31 07:00 ] 坂口安吾・本 | TB(0) | CM(0)

『日本文化私観』坂口安吾

日本文化私観 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)日本文化私観 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)
(1996/01/10)
坂口 安吾

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本書の「日本文化私観」は、昭和17年出版のブルーノ・タクト(ドイツの建築家)の同名書へのパロディとして書かれました。昭和18年という戦時下の出版だから驚きです。戦時熱狂の外にいて、上手に「ぐうたら」を演じたから、できた技ではないでしょうか。

本書には、「日本文化私観」だけでなく、戦中、戦後(昭和20年代)の坂口安吾の随筆が収められています。こういう混乱期でも、醒めた眼で、日本や日本人を的確に観察しています。やはり、坂口安吾は天才です。

この天才、坂口安吾の鋭い指摘(予測)には、今でも感服することが数多くあります。それらの一部を要約して、紹介させていただきます。



・京都の寺や奈良の仏像が全滅しても困らないが、電車が動かなくては困る。われわれに大切なのは、「生活の必要

・秀吉の精神は「天下者」であった。家康も天下を握ったが、彼の精神は天下者ではない

・坊主があって、寺がある。寺がなくとも、良寛は存在する。もし、われわれに仏教が必要ならば、それは坊主が必要なので、寺が必要なのではない

・伏見稲荷の俗悪極まる赤い鳥居の一里に余るトンネルは、てんで美しくはないのだが、人の悲願と結びつくとき、胸を打つものがある

・天才世阿弥は永遠に新ただが、能の舞台、唄い方、表現形式が永遠に新たかどうか疑わしい。古いもの退屈なものは、亡びるか、生まれ変わるのが当然

・「帰る」以上、どうしても、悔いと悲しさから逃げることができない。帰るということのなかには、必ず、ふりかえる魔物がいる

・文学は、美しく見せる一行があってはならない。美は、特に美を意識して成された所からは生まれてこない

美しさのための美しさは素直でなく空虚。空虚なものは、有っても無くても構わない

・宮本武蔵は、いつ死んでもいい覚悟が据わらなかったので、彼独自の剣法が発案された。彼の剣法は、凡人凡夫の剣法。覚悟定まらざる凡夫が敵に勝つにはどうすべきかの剣法

・農村の美徳は耐乏、忍苦の精神だという。乏しきに耐える精神が、なんで美徳か。乏しきに耐えず、必要を求めるところに、発明や文化が起こり、進歩が行われてくる

人間の正しい姿とは、欲するところを欲し、厭な物を厭だと言う、ただそれだけのこと

・芸術は「通俗」であってはならないが、いかほど俗悪であってもよい。人間自体が俗悪なものだから

・持って生まれた身体が一つである以上、自分一人のためにのみ、欲張った生き方をすべき。毒々しいまでの徹底したエゴイズムからでなかったら、立派な物は生まれない

・自分の本音を雑音なしに聞き出すことさえ、今日のわれわれには、はなはだ至難な業。日本の先輩で、この苦難な道を歩き通した人は、西鶴のみ

・人間が正義を愛すということは、同時にそれが、美しいもの、楽しいもの、贅沢を愛し、悪いことをも欲する心と並び存するゆえに意味がある。人間の倫理の根元はここにある

・本当に人の心を動かすものは、毒に当てられた奴罰の当たった奴でなければ書けない

・日本に必要なのは、制度や政治の確立よりもまず自我の確立。本当に愛したり、欲したり、悲しんだり、憎んだり、自分自身の偽らざる本心を見つめ、魂の慟哭によく耳を傾けることが必要なだけ

・共産主義は、進歩的、文化的な思想ではない。なぜなら、個の自覚がないから。したがって、自由の自覚がない。個の自由がないところに、人間の楽園はあり得ない。個人の自由がなければ、人生はゼロに等しい

・庶民の多くは、安きにつき、昔を懐かしむものだから、庶民によって選ばれる政治家、多数党というものは、庶民の代表者に違いないが、決して真理を代表するものではない

・強制に服従する根性というものは、己れ以下の弱者に対して、強制する根性である



ぐうたらな人間で、やる気もなく、品格も教養もない人間だと思われていた坂口安吾ですが、芸術論、文学論などは豊富な知識に裏打ちされたものであり、日本人論、政治論などは、歴史認識をもとに、冷静にその当時の状況を見ています。

「ぐうたら」という仮面をかぶって生きなければいけない時代に生まれたことが、坂口安吾の悲運だったかもしれません。


[ 2012/10/06 07:02 ] 坂口安吾・本 | TB(0) | CM(0)