今年、四月上旬のまだ肌寒い時期に、法然が修行した比叡山
延暦寺を訪ねました。五月上旬、哲学の道から少し奥に入った、新緑薫る
法然院に、偶然足を運びました。
また、八月下旬には、明恵が中興の祖となった高雄の
高山寺に、上り坂に汗をかきかき、行きました。
京都の旅で、たまたま、法然と明恵ゆかりの地を訪問したわけです。当然ですが、鎌倉新仏教に大きな影響を与える法然と、その対極をなす明恵という存在に興味を覚えました。
この本の著者、町田宗鳳氏は、14歳で出家。20年間、京都の大徳寺で修行し、34歳のとき寺を離れ、渡米。ハーバード大学神学部で修士課程終了後、ペンシルバニア大学東洋学部助教授を経て、現在、広島大学教授という輝かしくも不思議な経歴の持ち主です。
著者は、法然と明恵という二人の宗教者を通じて、
日本仏教の原点を見詰められています。興味深く読めたところが数多くありました。「本の一部」ですが、紹介させていただきます。
・法然は、富める者にも貧しき者にも、行いの正しき者にも身を持ち崩した者にも、例外なく訪れる「
死の平等性」に着目し、そこに究極的な救いを見出そうとした
・明恵は、この世こそが、修行と学問に励むことによって、釈迦が成就した「
悟りの境地」を体験し得る可能性に満ちた世界であると考えていた
・法然の
専修念仏は、仏教伝来以前から日本人の心情に連綿と伝わる常世信仰に直結している。人は命絶えるとともに、その魂がいつかまたこの世への帰還を果たすという素朴な再生論に念仏信仰を合体したもの
・インドを理想空間と仰いで、
原始仏教への復活を志した明恵の考えは、この世でも、あの世でも、釈迦の説いた仏法に直接めぐり逢うことこそが、至上目的。そのためには、身を慎みながら、不屈の精神で仏道修行に邁進することが必須であった
・法然が唱道した専修念仏は、思想的に過激で、
旧仏教を全否定する要素を含んでいた。それは、若き法然がやっと入門できた名刹延暦寺の腐敗した姿への嫌悪感が、下地にあった
・法然と明恵は、ともに嘱望される有能な青年僧であったにもかかわらず、高い僧階を求めてしのぎを削る組織(延暦寺と神護寺)から外れ、
マージナルな(周辺の)立場に身を置く選択をしたことが、彼らの思想形成に決定的な影響を及ぼすことになった
・法然と明恵の共通の運命は、両者とも師匠に恵まれなかったこと。
師を持たないという深刻な事態が、否応なく彼らを独創的な思索に追いやった
・法然は、人間は善人であろうとしても、思わず悪事を働いてしまうものと考えた。そこから、善いもの、貴いものは自分の外にあるという考えが生じ、
他力本願信仰へと帰結していく
・法然の「
死の座標軸」が人間性への絶望を始点とするならば、明恵の「
生の座標軸」は人間性への希望に始まる。明恵には、向上心がある限り、道は必ず成就するという確信があった
・果てしなく繰り返される
隠遁、厳しい
持戒生活という明恵の行為は、組織より個人を先行させ、強い意志力で、積極的に宗教者の「あるべきよう」を求めるもの
・仏教が
日本化していく過程の一現象として生まれてきた法然の専修念仏に対して、本能的とも言えるほどの激しい反発心を抱いたのが明恵
・
他力の法然と
自力の明恵は、信仰や修行によって、初めて精神的覚醒に至ることができるという立場を守り抜いた点では同じ
・法然の周囲に集まってきたのは、大半が「一文不知(文字も読むことができない)の愚鈍の身」の人々。旧仏教の体系を根底から否定し、朝廷の権威も眼中におかない過激な教義によって、法然と専修念仏集団は、常に
迫害の脅威にさらされた
・明恵は後鳥羽上皇や有力公家、北条政子・泰時などの武家から強い支持を受けた。明恵の講説は専門的で、読み書きのほとんどできない当時の庶民には、近づきがたかった。明恵の関心はどこまでも自己向上にあったので、反社会的な運動につながる要素がなかった
・明恵の「
あるべきようは」という考えは、深い交友関係にあった北条泰時が制定した
貞永式目にも影響を及ぼしたことが知られている
・「人は阿留辺機夜宇和(あるべきようは)と云う七文字を持つべきなり。僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり。此のあるべき様を背く故に、一切悪しきなり」 (
栂尾明恵上人遺訓)
・明恵の厳しいほどの倫理的原理主義には、僧侶たちの退廃の風潮に、正面から挑戦する意味も含まれていた。明恵は自らの身を律しながら、日本仏教から消滅しつつあった
インド的原理を懸命に防衛していた
・明恵には動物にまつわるエピソードが多い。高山寺の仔犬の彫刻、鹿の像も彼が愛玩したもの。国宝「
明恵上人樹上坐禅像」でも、坐禅をする明恵のまわりに、リスや小鳥が描かれている。菩提心の実践家明恵の体からは、生けるものへの「
愛心」が発散していた
・真面目に身を修める人には、今も仏法が宿っている。だからこそ、自らの「あるべきよう」を問いただし、日常の生活を律していくことこそ大切。これこそ
持戒の人、明恵の本音
・洋の東西を問わず、社会不安がつのると、宗教家たちは俄然活発になり、個人の死にさまざまな宗教的意味づけ>をして、
死の虚像を作り、自分たちに有利な状況を生み出そうとする。
慈悲の行為を装ってなされる説教は、聞かされる側が容易に拒否できない
・
末法思想を、社会状況の悪化とともに、一つの時代思潮に仕立て上げていったのは、間違いなく仏教教団側。悲観的な終末論を抱かせることによって、寺社との関係を断ちがたいものにした
・法然の著述には「
生死を離れる」という表現が非常に多く使用されている。法然は、臨終とともに往生が成立すると考えたので、死ぬことは肉体の生死を離れて、超越的世界に入っていくことであった
・怨霊、地獄、末法の三本柱で構成された暗く冷たい死のイメージを、仏の慈悲という、万人が納得できる温もりと優しさを持ったものへ回復ならしめたのは、法然の徹底した
口称念仏であった
・死の克服という個人的命題から出発した法然の専修念仏が、やがて、後世の門徒たちによる
一向一揆に発展した。これは、神の恩寵を自覚することで始まった
ルターの福音主義が、不当課税をする封建領主に対し、大規模な暴動を引き起こしたことと似ている
・法然の専修念仏は単純平等主義ではなく、排除された者を優先的に救っていくという、救済の序列を逆転した上での
複雑平等主義であったため、それまでの念仏信仰にない、大きな社会的インパクトをもっていた
・法然と明恵の宗教的世界観である「生と死」の座標軸は、同時に「
信仰と道徳」の座標軸。「真摯な信仰さえあれば、人間の営みにおけるたいていの誤謬は許される」とした法然。「一定の倫理的水準を保つことなく、人が人たり得ることはない」とした明恵
・法然は念仏三昧による
幻視体験。明恵は坐禅の延長線上にある夢。形こそ違うが、そこで経験されたものは、深層意識での心理現象
・明恵は法然以上に
神秘的能力を持っていた。しかし、明恵は、瞑想が深まり、オカルト的な現象を体験しても、それに心を奪われてはいけないとし、釈迦が超自然的現象に否定的な態度をとったのと同じ態度をとった
・明恵が、生に基盤を置いて、生を向上させるという立場から、尊重すべき
道徳律を提示したのとは正反対に、法然は死の世界から生の営みをながめて、外部から与えられた
道徳律を無効とした。表面上は、両者の倫理観に大きな隔たりが存在する
・法然を初め、新仏教の指導者たちは、比叡山延暦寺で学問と修行を積んだ上で、京の街に下り、独自の教義を説き始める。山中深く
研鑽を積む僧と、巷で老若男女に囲まれて現実的な悩みを前に
布教活動する僧では、両者の世界観に雲泥の差が生じたのは当然
・仏教が受動態の宗教というのは、徳川300年の
寺請制度に馴らされた日本人の思い込み。幕府という世俗的権威への従順のために、仏教思想が歪曲されて利用された。受動態の仏教は、先祖供養と葬式にしか関わらなくなり、その状態が今日まで続いている
法然と明恵の対極構造は、いつの時代にも見受けられる構造です。
大衆相手かエリート相手か、量を求めるか質を求めるか、組織的に行動するか単独で行動するか、運命のせいにするか自分のせいにするか、等々。
要するに、どちらも正しく、どちらも間違っていないように思います。自分はどちらが好きか、どちらに向いているかというだけなのかもしれません。
そういう意味で、日本の仏教も、仏教伝来から時を経て、なるべくようにしてなったというのが正しい見方ではないでしょうか。
日本仏教の原点を知っていると、何重にも糊塗されてきた今日の日本仏教の皮をはぐのに便利です。それができた人だけが、本当の意味で、
仏教と向き合うことができるのではないかと思います。