著者の本を紹介するのは、「
人の力金の力」「
得する人」「
人蕩し術」に次ぎ4冊目です。本書は、著者が出版した50冊以上の本の中で、一番古い本ではないかと思います。1981年発行の書です。
阿頼耶識は、法相宗(法隆寺、薬師寺、興福寺などの奈良仏教の宗派)に伝わる教義で、インド哲学の一部です。日本語に訳せば、潜在意識に記された記憶の集積という意味です。この阿頼耶識を易しく解釈しているのが本書です。その一部をまとめてみました。
・華厳経のお経の中の夜摩天宮品というところに、「
心如工画師、画種々五陰、一切世界中、無法而不造」(心は巧みな画家のように、さまざまな世界を描き出す。この世の中で心の働きによって作り出されないものは何一つない)と、述べられている
・陽とは、動であり、輝きであり、生命であり、逆に陰とは、静であり、闇であり、死である。もし、人間がいきいき生きようとするならば、この
陽気の中に自己の心情を置かなければならないのは自明の理
・
肯の類にある人の態度は、明るく柔和、朗らかで寛大、自信に満ち、常に円満。
否の類にある人の態度は、鋭い人を刺す言葉を用い、暗く人を入れず、不安、怒り、疑い、怖れ、恨みの念を現わし、常に居丈高。自分の心情を、肯の類の中に安住させなければならない
・
将来の果となる因は、罪障感、恥辱感といった「感」によって作り出されるのであり、「業」はそのまま因とならない
・苦しみの輪廻を断ち切るには、意識を変えなくてはならない。それは、苦しみの現実の中において、
楽しいという意識を作り出すこと。死に物狂いで、顔に笑みを浮かべ、人々や自分の人生に感謝する。自己欺瞞でもけっこう。因はただ意識のみによって生ずる
・本家のインドで、仏教が滅んだのは、道徳的側面を拡大し、それを教義の主とし、また、それのみに没頭しすぎたため、宗教本来の発生理由であった
御利益を求める一般大衆の願いを無視することになったから。無視された民衆は、逆に仏教を無視し返した
・「神が人間を創ったのではなく、人間が神を創った」とも言えるが、「この人造神は、素晴らしい奇跡も生じさせる」とも考えられる。われわれが神に対し、何かを願い、祈りに託して念じ続けると、その念はアラヤに入り、やがて、その
願いは叶えられるというもの
・
アラヤの御利益の提供者はあなた自身。「アラヤに命じ、アラヤに従うべし」
・「清であるのはよい」が、「廉であってはならぬ」。「欲のあるのはよい」が、「貪であってはならぬ」。「清廉」も「貪欲」も、そして他の何事にも、二極のどちらかへ走りすぎ、傾きすぎるとバランスを失い、不都合を生ずる。仏教では、これを「
中道を歩む」という
・言葉は自分の考えを他人に伝達するための道具であると同時に、自分の耳へ、その言葉が入り、自分自身の
深層意識に影響を与えるものである
・常に積極的、肯定的な言葉を意識的に選択して使い、「
言葉の主人」となって、これを支配するか、消極的、否定的な言葉の繰り返し、「言葉の奴隷」となって、あなた自身が支配されてしまうかの二つのケースしかない
・「正義心より発する怒り」の念も、否の類にある症候群。非難、怖れ、恨み、怒りなども否の類にあるもの。これらは、その人の人生に、
不幸な現象を生じさせる・運命に重大な影響を及ぼすアラヤ共同思念体を手なづける方法は、周囲の人々に向けて、
愛の思念を放射するように心がけること。表情を穏やかに、柔和に、微笑みを忘れずに努める。いやなことを頼まれても。優しい態度で接し、礼をつくして断らねばならない
・「すべては偶然ではなく、それは後ろから押しだされてくる」「かつて、あなたが自分について考えていたこと、
それが現在のあなたである」(エマーソン)
・身・口・意の三業を用い、「まず、であるがごとく想像し」(意)、「ついで、であるがごとく語り」(口)、「そして、であるがごとく振る舞う」(身)。
身を一割、口を二割、意を七割ぐらいの比率で行う。古人は、この自己暗示法を指して「しきりと妄想せよ」と言った
・臨済禅中興の祖、白隠禅師は、人の身体の中には、「己身の弥陀」があり、それは「気海丹田」の内に収まっていると説いている。これは、人間の中に神様があって、それは下腹に収まっているので、
自分の内なるアミダ様に頼みこめば、願いは叶えられるということ
・仏教のすべての頂点に、「因果論」「諸行無常」「諸法無我」の三つの原法がある。釈尊が悟られ、そして説かれた根本の哲理も詮じつめれば、「三つの原法」に、すべてが帰す
阿頼耶識を易しく解釈ようとし、技術指導も具体的にしている書ですが、一般的には、難しいのかもしれません。
日本古来の仏教(奈良仏教)の秘伝である「阿頼耶識」は、現代にも通用する部分がかなりあり、参考にすべき点がかなりあるように思います。