とは学

「・・・とは」の哲学

『不幸論』中島義道

不幸論 (PHP新書)不幸論 (PHP新書)
(2002/10)
中島 義道

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著者の本を紹介するのは、「人生しょせん気晴らし」「善人ほど悪い奴はいない」などに次ぎ、6冊目となります。世の中に「幸福論」のタイトルがつく本は数多くありますが、不幸論というのは見かけたことがありません。

私自身、「不幸でないのが幸福」と考えているので、不幸と向き合うことの大切さを説く本書には、共感するところが多々ありました。その一部をまとめてみました。



・幸福という複雑な建造物は、基本的に次の四本の柱の上に建っている。「1.自分の欲望が叶えられている」「2.その欲望が自分の一般的信念に適っている」「3.その欲望が世間から承認されている」「4.その欲望の実現に関して、他人を不幸に陥れない」

・幸福感(=満足感)は「知らない」ことに支えられている場合が多い

・「幸福」とは「美」と並んで、場合によっては「善」と並んで、対象のうちに探られるものではない。それは、判断を下す各人の心の構えである

・自分の体内の深いところから「これでよかったのか」の叫び声が聞こえてくる。その叫び声を必死で打ち消して「よかったんだ、しかたがなかったんだ」と思い込む。思い込みながらも、いつまでも釈然としない気持ちがくすぶっている。こういう人は幸福ではない

・自分の信念に反した欲望の充足は、「さしあたりの安堵」という言葉で表すことができても、厳密には「幸福」とは呼べない。それは幸福の「ふり」であり、幸福の「つもり」

・ある人は家族に承認されるだけで幸福感に浸るかもしれない。ある人は数万人の読者を得て、初めて幸福を覚えるかもしれない。「幸福」の概念は、常に輪郭がぼやけている

・人は正しいことによっても苦しむのであり、すぐれたことによっても苦しむ。イエスですら、多くの人を苦しめた。まして、人がある崇高な信念のもとに、偉大なことをなそうとすると、必ず膨大な数の他人を苦しめる

・自分の幸福の実現が、膨大な数の他人を傷つけながらも、その因果関係の網の目がよく見えないために、われわれはさしあたり幸福感に浸っていられるのである

・幸福は、盲目であること、怠惰であること、狭量であること、傲慢であることによって成立している

・世の中に幸福論は数々あるが、幸福論を読んでも、幸福に「なる」こととは無関係

・幸福とは、自らの哲学=信念にそって、ほかのことに煩わされずに生きるということ

・才能豊かで、その才能を発揮する場が与えられた人間は、膨大な数の人に喜びを与えているが、同時に、そうしたくてもできない多くの人を不幸にし、苦しめ、傷つけている

・幸福論は、第一に、自分が幸福であると確信している人が書く。そして、第二に、誰でも自分と同じようにすれば幸福になると説く

・他人を幸福にすることを義務と信じている人は、すべての人の欲望・感受性・趣味嗜好・信念は一致するという何の根拠もない想定の上にあぐらをかいて、他人を幸福にすることの難しさを直視しようとしない

・幸福とは、思考の停止であり、視野の切り捨てであり、感受性の麻痺である。つまり、大いなる錯覚である

・友人のいない者、恋人のいない者、身寄りのない者、家族のいない者は「かわいそう」、結婚していない者も、結婚して子供がいない者も「かわいそう」だから、どうにか助けてやりたいと願う、その単純で貧寒極まる幸福感で、暴力的に人を支配しようとする

・「有名になることは醜いことだ。これは人間を高めはしない」(ボリス・パステルナーク)

・「幸福であると思われたい症候群」の人は、「幸福でありたい症候群」の人より、いっそうおびえていて、いっそう哀れである。しかも、豊かで教養ある階層の人々や女性に多い

・「幸福になることは、さほど苦労ではない。それより、幸福だと人に思わせることが難しいのである」(ラ・ロシュフコー)

・自己欺瞞はわれわれを「幸福」という錯覚に陥れてくれる



幸福という錯覚を味わえる人が幸福になれるのかもしれません。幸福が錯覚だと知ってしまった人は、永久に幸福になれないのだと思います。

だとすれば、「不幸でないことが幸福」という言葉を拠り所に、不幸でないことを時々確認しながら生きていくしかありません。幸福とは、そう簡単に論じられるものではない、ということではないでしょうか。


[ 2014/03/10 07:00 ] 中島義道・本 | TB(0) | CM(0)

『非社交的社交性・大人になるということ』中島義道

非社交的社交性 大人になるということ (講談社現代新書)非社交的社交性 大人になるということ (講談社現代新書)
(2013/05/17)
中島 義道

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哲学者である著者の本を紹介するのは、「人生しょせん気晴らし」「善人ほど悪い奴はいない」「対話のない社会」などに次ぎ、5冊目です。

本書は、カントを考察しながら、「一人でいることもできないが、といって他人と一緒にいると不快だらけ」という現状に対するの著者の見解です。それらの一部を要約して、紹介させていただきます。



・人間は「社会を形成しようとする性癖」と「自分を個別化する(孤立化する)性癖」の両面を持っている

・カントは普通の人間嫌いではない。むしろ、いかにして気に入った人のみ受け容れ、気に入らない人を遠ざけるか、という「わがままな」課題に取り組んだ

・古代中国の外交政策の言葉「遠交近攻」は、まさにカントの人間関係。彼は「近い人」を徹底的に警戒し、親戚や哲学者と親密な関係を結ばなかった。だが、あらゆる階層の人々と「分け隔てなく」交際した

・カントは家族を中心とする血縁関係を厭い、友人を中心とする信頼関係を拒否し、性愛を中心とする愛情関係を嫌悪した。これらは、相手を支配しようとし、相手から支配されようとし、人間から理性や魂の自律を奪うから

・他人を恐れる人は、決まって他人による自分の評価を恐れる人、他人に「よく思われたい」という要求が強い人。この要求を希薄化し、「どうせ」と自暴自棄にならないためには、自分を評価してくれる他人の存在が必要

・物欲や性欲や名誉欲からの自由は、それほど難しくない。「幸福でありたい」という欲望からの自由が一番難しい。その中心の、他人から愛されたい、評価されたい、信頼されたい、守られたい、という欲望が強いと、自分の信念を曲げ、他人に従ってしまう

・「心の弱い人」は、「幸福でありたい」欲望の強い人。幸福が実現されている間は安泰だが、一旦不幸に陥ると、あるいは、不幸の恐れがあると、途端に生きる気力を失う

・人生、なるべく孤立しないほうがいいが、全身でもたれかかる依存関係も危険

・われわれがある人や物事を執拗に非難する時は、それが「もう一人の自分」だから。最も遠ざけたいもの、それは最も親密なもの

・ヒトラーがあれほどユダヤ人を忌み嫌ったのは、自分の「うち」に(彼のイメージする)ユダヤ人と共通のものがあったから。それは、狡賢く、冷酷で、異様な忍耐力があり、しかも世界支配を夢見ている。眼を背けたくなるほど醜悪な「自己」

・未来は「ない」。なぜなら、予想・予期・予測することは、未来に起こることではなく、未来に起こるであろうこと、つまり、現在の心の状態にすぎないから。しかも、その根底に潜む方法は、過去を延ばしただけの帰納法なのだから

・結婚には、はっきりとした理由などなくていいのに、離婚にはそれが求められる。それは、原因や理由は「禍」を避けたい、という本能的態度に由来するから

・「要領よく、軽く、そつなく」生きることができない人たちは、「みんな」からズレていることを自覚しており、よって「生きにくい」ことを痛感している。なぜなら、「人生の意味」について、真面目に考えすぎているから

・ナマの他人とのコミュニケーションを遮断してしまった、典型的な「引きこもり」が、仕事によって自活しなければならない年齢に達したとき、世間はこうした(世間基準の)「欠陥人間」を見逃すことなく慎重に間引きする

・九九を、漢字を憶えなかった子が、それらを「あとで」取り戻すことが難しいように、自然な人間の喜怒哀楽に共感や反発する能力、それ以前の、他人の振舞いの「意味」がわかる能力を培ってこなかった青年が、「あとで」それを取り戻すのは大変困難

・現代日本の青年たちは、プライドが高く、たとえ自分に責任があるとわかっていても、みんなの前で指摘されたり、「無能」などの差別語に近い言葉を投げつけられた瞬間に、その行為をどうしても許せない。大変な屈辱を感じ、自分を棚に上げて、相手を責める

・現代日本の若者たちは、「人権思想」や「男女平等思想」や「弱者保護思想」が身体の芯にまで浸透し、それに対して疑ってみることをせず、思考が停止してしまっている。彼らは現代の精神風土に「調教」されている



本書は、若者だけでなく、大人に対しても、「大人になる」ということは、どういうことかを説いている書です。さらに、「良好な人間関係を築く」ことに関するさまざまな考察について説いています。

それらは、個人と集団をどこで線引きすべきなのかを問うものです。集団の強い日本では、なかなかその線が決まりそうにありません。まだまだ苦悩が続くのかもしれません。


[ 2013/10/02 07:00 ] 中島義道・本 | TB(0) | CM(0)

『「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの』中島義道

「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの (PHP新書)「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの (PHP新書)
(1997/10)
中島 義道

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著者の本を紹介するのは、「人生しょせん気晴らし」「善人ほど悪い奴はいない」「差別感情の哲学」に次ぎ、4冊目です。本書は、1997年発売以来、ずっと売れている本です。著者の代表作の一つかもしれません。

日本人の「私語死語」といった会話の貧しさを探っていく書で、哲学者ならではの視点に、気づかされる点が数多くあります。その一部を要約して、紹介させていただきます。



・私語は、聴きたい人の権利を奪っており、そこに参加した者に対する明らかな暴力であるから、断じて許してはならない

・日本の若者たちは、全員に向かって言われる小言には不惑症になっている。だが、自分個人に向けて言われたことは骨身にしみる。まさか、何百人の中で、自分が名指しで注意されるとは思っていない。だから、それを実行すると、不思議なほど効果がある

・この国では、公共の場で個人を特定して評価すること、ことに非難することを極めて嫌う。これは「日本的基本的人権」の核心部分を形づくっている。人々はルール違反の他人にも傷つけないように注意を払い、公衆の面前で責めたてるのは「かわいそう」と考える

・総じて学力の高い学生は、言葉を比較的自然に語りだすが、学力の低い学生は口をつぐむ。言葉を発することを警戒している

・学力の低い大学では、絶対に「馬鹿」「アホ」「無知」とかの差別語を使えない。教師は、この世に学力の差別がないかのようなフリをする必要がある。その演技力が少しでも鈍って、差別発言らしきものが出ると、学生たちはそれを敏感に感じ取って、教師を断罪する

・女優、作家、社長など、成功者は競って劣等生ぶりを披露するが、こうした話は「劣等生」の心を曇らせるだけ。学力の敗者である若者たちは、「努力すればどうにかなる」という麻酔薬を強引に飲まされたあげく、次第に言葉を失っていく

・和の精神は、常に社会的勝者を擁護し、社会的敗者を排除する機能を持つ。そして、新しい視点や革命的な見解をつぶしていく。かくして、和の精神が行き渡ったところでは、いつまでも保守的かつ定型的かつ無難な見解が支配することになる

・なぜ、わが国では「お上」が、ああせよ、こうせよと国民を導くのか?それは、われわれ日本人が、「お上」の言葉に疑問を持たないように、「聞き流す態度・見逃す態度」を長い年月かけて培ったから

・自由、平等、人権、個人主義、弱者保護など、ヨーロッパ起源の「よきこと」がわが国に上陸すると、本来の意味が微妙かつ巧妙に変形する。同じ言葉を使いながら、内実の異なった似非近代化ないし似非欧米化が進行し、誰もそれに気づかない状態が出現する

・日本の「思いやり」は、ほとんどの場合「利己主義の変形」として機能する。勇気のない人が容易に実行できるような「思いやり」が、われわれにとっての「思いやり」である

・「優しき論者」は、「優しさ」が「人間の全価値」であるとの前提とした上で、それが欠けている人を目撃するや、その人を人間として全否定する暴挙をしばしば行う

・すべての人を傷つけないように語ることはできない。もし、できたとしても、そのときは真実を語ることを放棄しなければならない

・他人に対する配慮、思いやり、優しさばかり強調される社会における若者たちは、自分の叫び声を出せない。誰も傷つけない言葉を発することは、それはもう言葉の否定である

・この国のあらゆる会合では、誰からも不平不満が出ないこと、というより、誰にも不平不満を言わせない状態にもっていくことが最高の目標とされる

・「対立嫌悪症」が「長幼の序」や「謙譲の美徳」と結びつくと、目上の者と目下の者との間の「対話」を徹底的に阻害することになる

・現代日本人は、「他人にかかわりたくない」という強烈な願望を持っている。それは世間に対する過度の配慮の裏返し現象である

強い個人主義は、「利益の追求に集中」「他人との関係が攻撃的で、競争指向的」「市場を利用し、個人プレーヤーとして生きる」。弱い個人主義は、「不利益の回避を重視」「他人との関係が防衛的で、競争回避的」「集団を利用し、個人は集団に所属する」

・われわれは実は、「和風個人主義」(弱い個人主義)を望んでいるのに、「洋風個人主義」(強い個人主義)を望んでいる振りをする。これこそ一番の罪である



日本人の「和魂洋才」ぶりは、商品や言語だけでなく、その行動様式や思考にまで及ぶと、著者は指摘しています。

外国のものを、今ある日本的なものに加えていくことはできても、そっくり取り替えることはできないのが日本人です。その矛盾に疑問を持たないのも日本人です。そのことを真正面に論じているのが本書です。日本人の矛盾を考えさせられる書ではないでしょうか。


[ 2013/07/17 07:00 ] 中島義道・本 | TB(0) | CM(0)

『差別感情の哲学』中島義道

差別感情の哲学差別感情の哲学
(2009/05/15)
中島 義道

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中島義道氏の本を紹介するのは、「人生しょせん気晴らし」「善人ほど悪い奴はいない」に次ぎ、3冊目です。毎回、鋭い視点で、人間の本質をえぐり出してくれます。今回は差別感情についてです。

人は、他人を悪く差別するのはよくないとわかっていても、反対に、自分だけは特別に良く差別してほしいと願っています。

自分を良く差別してほしい気持ちが、努力する原動力にもなりますし、自分をよく見てほしいという気持ちの中には、他人を見下す気持ちが潜んでいます。差別は本当に難しい問題です。

この本は、差別感情とはいったいどういうものか解明しながら、差別とどうつき合うか、どう向き合うかを示唆してくれる書です。

参考になった箇所が15ほどありました。「本の一部」ですが、紹介したいと思います。



・自他の心に住まう悪意と闘い続けること、その暴走を許さず、しっかり制御すること。こうした努力のうちに生きる価値を見つけるべき。人間の悪意を一律に抹殺することを目標にしてはならない

・非権力者が権力に立ち向かい、自らの理念を実現するためには、それ自身が権力を持たねばならない

・学力、学歴、肉体的魅力、政治的権力、芸術的才能、育ちのよさ、社会的地位、金銭的豊かさなど、プラスの価値は決まっていて、多くの人は、「一定の決まった価値あるもの」を欲しがる

・歴史的、文化的に背景をもつ差別の場合、その集団に嫌悪を覚えるにしても、個人的感情から離れていることが多く、差別感情を学んでいるに過ぎない

・子供たちの「いじめ」は、「不快」と「軽蔑」をも巻き込む感情であるが、やはりその中心は「嫌悪」である。嫌悪は社会的感情である

・差別感情としての嫌悪が強い人は、「正常だと思われたい欲望」を強く持ち、「儀礼的無関心」を装いながらも、自分の周囲に異常な人を嗅ぎつけ、括り出し、告発する人である

・差別感情の強い人は、自他に対する道徳的要求の高い人であり、それゆえ他人の不道徳を異様に攻撃的に追及する

自己批判精神を欠いている人は、時代の風潮に乗った「正義」の名のもとに、思う存分、その侵略者を弾圧する。強力な後ろ盾のもとに反対者を摘発し血祭りに上げる。こういう態度は、魔女狩りやユダヤ人全滅こそ正義だと確信した人と「心情構造」を共有している

・「軽蔑」は「嫌悪」より価値意識が高い。嫌悪の場合、まだ対等の感情であるが、軽蔑においては、視線は上から下へ向かう。まさに見下す。軽蔑とは他人を切り捨てる態度でもある

・差別意識の強い人は、一般的に人をランキングすることに情熱を燃やす。より社会的に優位の人を尊敬し、より下位の人を軽蔑する姿勢の強い人。上には媚びへつらい、下の者を足蹴にする

・差別を形成するものに、不快、嫌悪、軽蔑、恐怖という他人に対する否定的感情だけでなく、自分自身を誇りに思いたい、優越感を持ちたい、よい集団に属したい、つまり、「よりよい者になりたい」という願望がある

・わが国においては、誇りが優越感とみなされる危険をみんな察知しているがゆえに、「自分を」誇りに思うという発言は聞かれない。その代わり、自分の属する集団や同一の集団に属する他人を誇ることによって、差別感情は希薄化され、隠蔽される

・自分と同一の集団に属する他人を誇る人々は、差別感情を持っている。それを自覚していない鈍感さに苛立ち、その鈍感さにくるまれた狡さに辟易する

・負けた者、成果を出せない者は、努力に疲れたのではない。努力しても駄目だと言ってはならないことに疲れている。いわば、近代社会の残酷さの真実を見てしまったのであり、努力社会の正真正銘の犠牲者である

・誠実性と幸福との合致は、現実的にはできなくとも、理念としてそれを「求めること」、そこにこそ人間としての最高の輝きがある

・罪のない冗談の中に、何気ない誇りの中に、純粋な向上心の中に、差別の芽は潜み、それは放っておくと体内でぐんぐん生育していく。あなたが「高み」にいて、その「高み」に達していない他人を一瞬にせよ忘れたとき、差別感情はむっくり頭を持ち上げる



差別感情を否定すると、人間は人間として生きられなくなります。しかし、差別感情をコントロールできなければ、人間社会の中で生きにくくなります。

この本を読み、差別感情の制御こそが、「謙虚」だと感じました。人間として、成長するには、差別感情と向き合わなければいけないように思います。
[ 2011/03/02 07:49 ] 中島義道・本 | TB(0) | CM(0)

『善人ほど悪い奴はいない・ニーチェの人間学』中島義道

善人ほど悪い奴はいない  ニーチェの人間学 (角川oneテーマ21)善人ほど悪い奴はいない ニーチェの人間学 (角川oneテーマ21)
(2010/08/10)
中島 義道

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哲学者である著者の本は、昨年、「人生しょせん気晴らし」を紹介しました。そのときは、「薬にも毒にもなる本」と書きました。

今回、紹介する本は、「善人が読んではいけない本」です。読むと腹が立ち、人格を全否定されているように感じると思います。

ところが、ディープな世界を歩んでこられた人には、面白い本です。なるほどと思えた箇所が25ほどありました。「本の一部」ですが、紹介したいと思います。



・弱者は、自分の無能力、無知、怠惰、不器用、不手際、人間的魅力のなさを、卑下せず恥じないばかりか、「これでいい」と居直り、「だからこそ自分は正しい」と威張る

・弱者は、こっそり「善良」と裏で手を結ぶ。そのことによって、善良な自分の正しさを確信するだけに留まらず、強者を「強いがゆえに悪い」と決め込む

・弱者は、エリートに対する嫉妬心を巧みに隠して、初めは恐る恐る、そして次第に大声で、強者を指して、「自己チュー、エゴイスト、社会の敵」と叫ぶ

・善人が悪事をなさないのは、それが「悪い」からではない。ひとえに社会から抹殺されたくないから、つまり、悪をするだけの勇気がないから。社会に抵抗して、独りで生きていくほど強くないから

・善人という名の弱者は、自分が属する共同体から排除されることを恐れているがゆえに、いかなるものであれ、自分が属している共同体の方針に加勢する

・一番偉い人に尻尾を振ってきた人が、偉い人になると、自分の後輩に対して、同じこと、いやもっと卑屈な態度を要求する。そして、尻尾を振らないイヌどもや自分の前で仰向けにならないイヌどもを「生意気だ」と論じ、罵詈雑言を重ねる

・弱者は、他人に対しても「弱くあれ」という信号を送る。弱い者が強くなるのを妨げる。生命、安全、小さな幸福を念仏のように耳に注ぎ入れ、「世間は甘くない」「いつまでも夢みたいなことを考えるな」と言う

・善人は、自己反省することなく、強者による永遠の被害者を気取る。強者に翻弄され続ける哀れな自己像を描き続ける。これ以上の鈍感、怠惰、卑劣、狡猾、すなわち「害悪」はない

・弱者は油断すると傲慢になっていく。だから、心してそれを食い止めなければならない。それには、自分の弱さを憎まねばならない。それから脱しようとしなければならない

・ヒトラーは、ドイツ人というだけで、「劣等感を完全に払拭し、何も努力しなくても、自分は落ちこぼれでないと思い込める」ものを与えた。そういう幻想に陥りたい弱者の喝采を受けた

・弱者=善人が、権力に敏感であるのは、保身を求め、村八分にされないように細心の注意を払うから。弱いからそう動くしかない。そして、その時々の権力者に従い、支配者に反対する者から距離を保とうとする

・善人は「小さな幸福」を求め続けるうちに、ますます小さくなる。彼らの美徳はすべて消極性=否定性から成り立っているから当然である

・誰も彼も、目立ちたい、有名になりたい、儲けたい、自分を表現したいと望み、これらが叶えられなくても、自分らしい生活をしたいと望む。その結果、誰も彼もが、互いに見分けがつかないほど同じことを語り、同じ行動をし、同じ人生を歩む

・善人は小さく狡く、小さく利己的。壮大な悪徳には怖気づくが、小さないじましい儲け話にはすぐに乗ってしまう

・善人はあたり構わず「好意」を振りまく。それは、実は自分を守るため。相手の価値観や人生観を研究しての好意ではなく、押しつけがましい好意。「すべての人に喜ばれるに決まっている」という思いに基づく傲慢な好意

・善人は「善意から」と言いながらも、その好意は決して無償ではなく、相手から自分の望む見返りを求める。だから、その表面的な謝礼の言葉、恐縮した物腰、誠意ある態度がますます不潔に感じる

・善人の要求する誠実性とは、弱い自分たち仲間内だけに通用する誠実性、弱者の特権を信じる人だけに通じる誠実性。だから、善人はこの「弱者の原則」を破るものに対しては誠実性をかなぐり捨てる

・弱者は、「公正」「平等」「正義」を求める。真の強者は、不当に攻撃されても、非難されても、排斥されても、それを受け止める。自分が強者なら、あえて弱者と同じラクやトクを求めてはいけない

・善人は、自己批判をしない。「みんな」と同じ行動をとることに疑問を感じず、それに限りない喜びや安らぎを覚える。すなわち、善人の正しさの根拠は「みんな」である

・善人はラクをしたく、トクをしたい輩だから、自分のまわりに対立があってはならない。同じ考えの者同士で固まり、異質な者との接触を毛嫌いする。そうなると、人間は果てしなく「ダメ」になっていく

・一流の学者は、自分と違う意見にも耳を傾けて聞こうとする。二流以下の学者は、同じ意見の者だけ集まって、違う意見の者を排斥する。両者の差異は激しい

・強者は敵から逃げない。敵との対決こそ人生の醍醐味だから。弱者はあらゆる敵から逃げる。そして、敵のいない世界を望む

・相手に感謝する気持ちが純粋であればあるほど、自分の人格を明け渡して、相手に従うことになる。恩人に対して、わずかな批判的言動も避け、その命令に一途に従うのは、奴隷に身を落とすこと



この本を読めば、善人と弱者がいかに傲慢であり、醜いものであるかがわかります。世間の常識と違うので、怒りを覚える方がいるかもしれません。

しかし、善人や弱者の世界に逃げ込むと、人生は半ば敗北したことになるのも事実です。著者は、この本で、できるだけ、個々が強く生きるように励ましているのではないでしょうか。
[ 2011/02/02 08:21 ] 中島義道・本 | TB(0) | CM(2)

『人生、しょせん気晴らし』中島義道

人生、しょせん気晴らし人生、しょせん気晴らし
(2009/04)
中島 義道

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著者の本を5冊持っていますが、日本社会の中で成功を夢見る人には、著者の作品はあまりおすすめできません。

しかし、真実を知りたい人、教養を深めたい人、成功を考えない人には、面白い書になるかもしれません。読む人によって、毒にも薬にもなります。

中島義道氏は東大法学部卒の哲学者です。ウィーンと日本を往来されています。著書を読む限り、日本では珍しい、束縛されるものが少ない、真の哲学者でないかと思います。

毒をなめても大丈夫という方には、ためになることが多く書かれています。「本の一部」ですが、紹介したいと思います。



・五十歳のとき、「どうせ死んでしまう、でも・・・」ではなく、「どうせ死んでしまう、だから・・・」という構文にそって生きていこうと決意した

・他人から嫌われてもいいから、儀礼的な、何のメリットもない人とのつき合いは清算する、苦痛でしかない社交や式典は避ける、年賀状など儀礼的習慣は撤廃する、すなわち、世間的雑事を削りに削って、残された膨大な時間を自分のためだけに使うようにした

半隠遁の美学の基礎は「悪いもの、厭なもの、不快なもの」を徹底的に避けるという一点に凝集される

・五十歳を過ぎたら、自分の信念と美学を貫き、それに合うものにはたっぷり時間や金を使い、合わないものは次々に削り取るという、徹底的に自己中心的な「ミニマリズム」を実現するのもいい

・真面目な顔つきで「未来社会の倫理」とか「地球環境問題」とか議論している人たちは、みな、あと五十年したらこの世にいない。自分が死ぬことのほうがよほど差し迫った問題。みんな自分が死ぬことなどどうでもよく、未来があると信じて語り続けたいだけ

・哲学者たちは真理を求め、善を求め、そして勝手な答えを提出して、みなチリになってしまった。これって一体何なのだろうか?パスカルの言うように、すべてが「気晴らし」。サルトルの言うように、すべてが「無益」なのだと確信する

・子供は、他人を理解する努力をせず、他人が理解してくれないと駄々をこねる。他人の悪口を言いながら、自分が言われると眼の色を変える。大人とは、「善いこと」「立派なこと」をする人ではなく、「他人を理解する」「他人に理解されないことに耐える」人のこと

・現代日本の学生は、自分の分をよく知って、現実を直視して、堅実に、まじめに生きている。歳になれば、みんな実現不可能な夢を語れなくなり、身の丈に合った無味乾燥な話しかできなくなる。急いで分別くさくならなくていい

・哲学は常に人間の基本的な枠組みに対して疑いを持つこところから出発する。大多数の人がきれいごとで済まそうとすることを切り崩していく。そういう信念に従って発言すれば、それはほとんど不謹慎な発言になり世間から袋叩きになる

・学問というものは努力が要り、高度な知識を必要とし、理解することは容易ではない。しかし、テレビに出る学者は、普通の人にわかるようにと茶化されながらも優しく対応する。「あなたにはわからないでしょう」とはっきり言ったっていい

・学問を含め、すべてを庶民的な視点で見ていこうとするから、お笑い系タレントがテレビを席巻する。無知な私にわかるように学者や専門家は話すべきだといった要求を出す人がのさばっている状況がある

・正義感あふれるコメンテーターたちは、魔女裁判のときに「魔女だ、魔女だ、火あぶりにしろ」と叫んだ人たちに似ている。そうした単純な正義感一色に染まることは多様性を殺す暴力にもなりうる

・どうせ人間は皆滅びるのだから、物体も適度に滅びていい。このままいけば、地球上、世界遺産だらけとなってしまう

・これまで営々と築き上げてきた「うそ」で固めてきた城を崩さねばならない。恐ろしいから握りつぶしてきたこと、排除されるのが怖いから、いやいやみんなに合わせてきたことを徹底的に崩さねばならない。そして、徐々に自由になること

・自分が組織を創立したり、拡大したり、危機から救ったりというように、組織にとって英雄であればあるほど、そこを脱した後は組織に介入しないほうがいい

・たとえ誰もほめてくれなくても、バカだ、アホだと罵倒されても、それがあなたの生き方だったらそれでいい。本物の「信念」とはそういうもの

・倫理学のあらゆる理論は直観の前に膝を屈するべきであり、理論と直観が一致しないときは、迷うことなく直観のほうを取るべきである

・他人の意思を無視し、自分の意思を押し付ける人は、圧倒的に善人が多い。「すべて本人のため」と固く信じているからたまらない

・マルクスには哲学的センスの片鱗もなかったがゆえに、あんな見事なほど論理的に破綻しながらもある種の人に勇気を与える書物が書けた。レーニンに至っては、さらに頭が悪かったから革命などできた

・生きているほうが、死んでいることより「いい」ことを論証できない。哲学はいかに生きるか、いかに死ぬかを教えることはできない。哲学は人間が死ぬことの意味そのものを問い続けることができるだけ

・人は「犠牲的精神」をもって生きると、結局犠牲を払わされた相手を憎むことになる。そして、何の生産性もない愚痴の仲間入りをして、そのまま歳を取っていく。まず、自分が幸福になるように邁進すればいい

・哲学は、どんな不幸になっても真理を求める。命よりも真実のほうが大事で、嘘に寛大な日本社会にはなじまない

・日本は、個人対個人の会話が成立しない国である。組織やマジョリティを背景に、曖昧な笑いで「対話」を拒否する



これらの考え方を知ったからといって、どうなるということはありませんが、人間としての奥行きが深くなっていくように感じます。

真理、真実だけを求めて生きていくのは、つらいことですが、歳をとると、そうなるように人間はできているのだと思います。50歳以上の方に、読んでほしい書です。
[ 2010/06/24 08:27 ] 中島義道・本 | TB(0) | CM(1)